Baberaロゴ(塔のみ).jpg

grft

dysfreesia + mihau / 

​middle cow creeks falls

バンドの作品を作ろうと思いついた時、いくつかあった細やかな思い付き、そのどれをも瞬時に破断してしまった傑出したアイデアは、僕自身が録り溜めてきたデモやバンドのスタジオでのセッション録音を使って作品を創るということでした。正直に申し上げれば、単にスケジュールなどの細かい問題があったことも事実のひとつではありますが、僕の心象からそれを述べるのであればあまり正確ではない…というよりも、心の内を説明するには全く足りていません。その小さな問題は今回の意思決定にそこまで作用していないからです。端的に言えば、”フォークのバンドがミックステープを作る”という一種奇抜とも捉われそうなアイデアの爆発的な輝きに、僕の興味が放つ視線の全てはたちまちに注がれてしまっていたのでした。

 

この着想にはもちろん影響源があります。Black Smoker Recordsの諸作品。Theo Parrishのミックス。Radiohead『OKNOTOK』に付属していた白いカセットテープ。KnxwledgeやSwarvyなどStones Throw周辺のトラックメイカーたちに顕著な、かなり短い尺のトラックを並べていく手法で構成された作品群。そしてLeaving RecordsやMusic From Memory、RVNG.とその兄弟=Freedom To Spendといった新鋭の(あるいは再発見された)ニューエイジの音響。それらの作品に共通していることは、ビートやリズムに依拠し過ぎず、その音の”質感”で曲同士を繋ぎ合わせるものが多くあった点でしょう。かつ、こういった沢山の愛すべき個性たちに含まれる歪さ・荒さ・繊細さ、それらの基幹として存在し、美しく響いていく意思としてのノイズもまた重要でした。

 

曲を繋いで混ぜ合わせる、というヒップホップやテクノでは一種の前提として行われている手法を、フォークやロック、あるいはもっと抽象的に「ポップ」として分類されるバンドが取り入れてミックステープを作ったという例は、前述したRadioheadを除いて記憶にありません(単に僕が把握していないだけの可能性は大いにあります)。しかし音響を基にして曲同士を溶かし合わせていく方法論であれば、僕たちのようなフォーキーな感触のあるバンドからもそのノイズを生み出すことはできるという確信がありました。そして事実、僕の頭の中では既に、まだ全貌を表していない音楽の欠片が鳴っていのです。しかしそれが残酷に提示していることもまたありました。自分たちの手にしているカードだけではそこへ辿り着けない。その音世界においてバンドは色彩であり前景、あるいは前提であって、「複数ある主格のうちのひとつ」でしかない。それを有意義に構築し美しく響かせる為には違う視点が必要である。僕たちの意思とは違う働き方をする別の堅実な思考が必要である。バンドの力学の外側に位置する音楽家、別の誰かの存在が必要だと悟った瞬間でした。

 

しかしその不思議な色彩をした空気、そこで響く音楽の手触りを思う時、Twitter上で知り合っていたmiddle cow creek fallsにその音楽を制作してもらう、という閃きが自分の中ですんなりと昇華していくのが分かりました。迷いはありませんでした。どちらかと言えば、いや、圧倒的に、引き受けてくれるかどうかに対しての不安がそれに勝っていました。それでも僕は、読んでもらえるかも定かでないDMをぽちぽちと入力、気が付けばかなりの長文になってしまったことに驚きつつ、その文章にカットできる箇所がないことに観念すると、恐る恐るそれを送信したのです。

 

返信が来たのは僅か三十分後でした。数日は連絡が来ないだろう、という認識があっさりと裏切られた瞬間でした。あのDMを読んだ時、彼がどんな気持ちだったのかは分かりません。しかし実際のところ、かなり困惑したとは思います。何せ膨大な文章でした。僕が彼の立場であればきっと苦笑いしたでしょう。しかしそれでも懸命に、そして真摯にその文章に向き合ってくれ、かつ丁寧に僕の意図を汲み取ってくれた彼は、二つ返事で依頼を受けてくださりました。そこから僕たちは談笑や世間話を交えつつ必要なことを確認をしてはお互いの認識を埋め合っていき、僕はデモやスタジオセッションの録音を進め、彼はそれを聴いては音を切り刻んでいく、を繰り返していきました。

 

そうして形を為したのが、この『grft』という作品です。この音楽はミックス作品であり、リミックス作品であり、リワーク作品であり、アーカイブ作品でもあります。バンドのサウンドがそのまま残っている箇所もあるのですが、それらもまた現在の楽曲の姿とは大きく異なっているので、そういった点から言えば、この作品は過渡期にあるバンドや楽曲を捉えた複数枚の写真であるかもしれません。映像的と形容される場合もあるかもしれませんが、僕の印象としては流れていく写真を次々と見つめているようで、「活動写真」という古典的な表現がしっくりきています。それらの写真同士に直接的な関係性は発見できないかもしれませんが、しかしそれでも音楽が深い位置で確かに繋がっていることが「聴こえてくる」のは、そこに同じ人間から吐き出された心の襞の揺れが刻まれているからと邪推します。しかし驚いたのは、僕自身ですら記憶に残っていないような録音やデモをmiddle cow creek fallsが発掘してきて、しかもそれを爽快に切り刻んでいることでした。僕の位置からは掴みきれない感情を抽出してみせた、そんな彼の聴感の鋭さがそこに顕著に表れていました。その切り刻まれた音楽を聴くと、自分の楽曲に対するサディズム、あるいは自分の身体を弄ばれているマゾヒズム、そのいずれか、あるいはその混合体のような何かが爆発していて、兎にも角にもそれは病的に狂おしい手触りであり、この文章を綴っている今ですら僕の口元は恍惚としてゆるりとしています。

 

最後にひとつだけ追記します。サイケデリアの孤独について。

 

ひとりで音楽を紡いでいた時、それをバンドに落とし込んでいく時、僕の胸にはサイケデリアが常に付きまとっていました。そしてそれこそが僕(たち)の一種のアイデンティティであるとすら考えていました。ところがそれの存在を周りの人たちに問うてみても、彼らは総じて不思議な表情をして僕を見つめるばかりでした。僕の中で響くサイケデリア、それが彼らには聴こえていないようなのです。そういったことが積み重なっていくにつれ、僕は認識を改めるようになりました。自分自身が幻を、あるいは一種の自己願望のようなものを見つめていたのではないか、と。どこかに寂しさと、感覚の孤独、孤立を感じながら。

 

ところがmiddle cow creek fallsは、僕の音世界にそのサイケデリアをしっかりと発見していました。それどころか彼は、それまで密やかな一要素に過ぎなかったそれを全面に押し出して音楽を構成してみせたのです。自分にだけ聴こえていたように思えたものが、彼にも確かに聴こえていたということ。そしてそれの在処を創り出してくれたこと。僕はその途方もない優しさにとても胸を打たれて、あらゆる神経が再び雄弁に語り出したことを感じました。扉は時に思わぬ方向から開かれ、そうして孤独が溶かされていくこともある、という気付きと共に、僕には一種の救いが訪れたのでした。

 

ひとつの命に別の命を託し繋いでいく、それらが互いを支えて新たな生命を形成していく、白昼夢の中の接ぎ木のようなサイケデリア。人と人、あらゆる生命たち、緩やかに排出されていく吐息同士の交わりとその儚さをこの作品は捉えていると感じています。そんな感触のこの音楽が耳にしてくれているあなたの心に小さな芽を萌やす、そんな瞬間の訪れをここから祈っています。

 

平野 望 / dysfreesia