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>>> some words? = thinking (or sinking)

刺青 named “加熱と微熱"──死は終わりではない / ソニー・ロリンズ / ワームホール

8月29日
読了時間: 89分

毎回イベントに際してこういう誰も読まないであろう文章を書く。バンドメンバーですら読んでいない(彼ら自身がそう明言している)。でも書く。書かずにはいられないからだ。何故? 分からない。しかしかなり重要なことも書いているはずだ。何故ならイベントのテーマに関わるいくつかの筋道を出来る限りで言語化しているからである。


…なのだけど、今回はいつもと違うことがあった。書けていない気がするのだ。いつまでも書き終わらない。書くべきことを書けていない気がする、全然足りてない、いつもよりも全然少ない…という具合に続けて異様に時間がかかってしまった。数ヶ月取り組んできたのは単純に何故だか忙しかったからということもあるのだが、しかし本来はイベントの告知タイミングで公開したかったものなのに今回はまるでダメだった。気付けば割と直前である。


何てダメダメなんだ…と自分を責める日々。何故こんなものを書いているんだ…という疑問が離れていかず、なんならこれを書くことがナーバスになり過ぎて買う予定のなかったレコードを数枚買ってしまった(それで買ったYHWH Nailgun、収録時間に対して値段が高過ぎるという見方も十分起こり得るがとても良い買い物だった)。多少は安かったからね。とは言え、なんで今回はこんなに苦戦しているのだろう…というか時間がかかっているんだろう…と何気なく以前の投稿の原稿を確認してみたところ、忽ちあることが発覚。なんとこれまでの原稿は、今回の文章の半分以下程度しか書いていなかったのである。つまり足りない足りないいつもに比べて足りない足りないヤバいヤバいと書き続けていたら、なんと足りないどころか二倍以上も書いていたのでした。驚きである。驚きであり、自分のヤバさをちょっと思い知ってしまった。そりゃ終わる訳ない。


でもこれは単純な話でもあるだろう。沈黙していた時間の分だけ語るべきことが増えたということだ。気付けば以前のイベント = KLEIN.から3年経過、EP過去三部作からも2年経過。なんたるマイペースぶり。バンドの皆とは1ヶ月に2回程度は会っているのにも関わらず、あまりにも表に出なさ過ぎている。その時々で事情があるのは間違いないが、それでもここまで隠遁するバンドになるとは思っても見なかった…という言い訳はとりあえず置いておいて(こういうことを書くから長くなるのだ)、今回の文章はこれまでで最もとっ散らかっていると思う。時折息抜きでしずかなインターネットに”to シリーズ”というものを書いていたりしたが、数ヶ月書き続けてきた原稿をとりあえずのかたちでまとめたものがここから続きます。


それは”加熱と微熱”を巡るもの。それは刺青に与えられた名前。


これまでも散々言われてきたけれど…「この文章量は読めない」という指摘を、しかし内容を分かりやすくする必要に転嫁させたい理由とはなんだろう、と常々思う。それは人を信用していないということ。まだ見捨てるには早い。そう、早過ぎる。


では始めましょう。引用からどうぞ。


───


お前達はわれわれの仲間である。お前達のひとりひとりがわれわれと同じであり、お前達は互い同士同じである。お前達は同一の名を持ち、それを代えることはない。お前達それぞれがわれわれの中で同一の空間と同一の場を占める。それを保持するのだ。お前達のうちの誰もわれわれ以下ではなく、われわれ以上でもない。そしてお前達はそのことを忘れてはならない。われわれがお前達の身体の上に残した同一の刻印がそのことをお前達に思い出させるだろう。


ピエール・クラストル『国家に抗する社会 政治人類学研究』”未開社会における拷問” P.231


───


「データセンターは膨大なエネルギーを消費する。したがって膨大な廃熱を放出する。しかし、近隣地域への直接的な熱影響は、これまでほとんど測定されてこなかった。今、それが変わろうとしている」。セイラーはLinkedInの投稿にこう記した。「169MWの単一のデータセンター施設は、約20万世帯が排出するのと同等の廃熱を、数百ブロック(区画)に満たない限られた住宅地に相当する面積に集中して放出している」と同氏は続けた。彼らの研究では、フェニックス地域の4つのデータセンターの風下で顕著な気温上昇が確認された。セイラーのチームは、施設から最大500m離れた地点でも、風下の気温上昇が摂氏約0.8〜2.2度(華氏1.5〜4度)の範囲に及ぶことを見いだした。



───


加熱と微熱、それは熱量を巡るデザインの刺青だ。

デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


───


分かりやすさを求めてくる何かに対して、または分かりにくさを良しとする何かに対して照準は絞られている。厳しく遠くから見つめられている。それは人を信用しているか否かを巡るデザイン。


───


まだ見捨てるには早い。


───


自分がどういう人間なのか、どうしても時々分からなくなることがある。冷たい人間だと思う、同じくらいに温かみのある人間だと思う。残酷だと思う、でもそれと同じくらいの思いやりは持っているつもりだ。比較的冷静だと思う、そしてまた同じくらいに感情的のような気もする。


話してみて「意外と優しい人なんですね」的なことを言われることは決して珍しくない。先日実際にあったのは、退職される職場の方に「会えなくなっちゃうの寂しいです」と伝えたところ「平野さんにそんなこと言ってもらえるのすごく嬉しいです。特別扱いされているみたい」と言われたことだった。彼女のこの言葉自体はすごく喜ばしいことなのだけれど、一方で自分という人間の欠落を思い知る。やっぱりそういう風に見られているんだねえ。


自分のことをずっと器用な人間だと思ってきた。ところが先日、話の流れの中でまめちゃんになんの気もなしにそれを言ったら大笑いされて非常に驚いた。反応が意外過ぎて慄いてしまったほどだ。でもその後、彼女から「あの時はこうで…あの時はこうで…」という話をいくつか聞いて、確かにそう見えるかもしれないとも思った…いや、この言い方はフェアではないかもしれない。僕は「不器用でもある」ということだろう。自分でもきちんと理解していることは当然あって──パラノイアにも決して遠くない空想や妄想の在り方、話の進め方のぎこちなさ、などだ。それには個人的な意図や事情があるにせよ、他の人には伝わらなかったり伝わりきらなかったり、そして分からないことも当然あるだろう。そしてまた、仮にそれらを丁寧に全て解説していっても、結局は不器用な人であるという印象そのものにはリーチすることができないようにも思える。人間は頭の中にあることをそのまま声に出して引き出すことができる訳ではない。人間はいつだってふたつの声を持っているのだ──声帯から発するものと、脳内で木霊しながらそこに留まるものとのふたつを。


───


必ずしも不器用さをネガティヴに捉えている訳ではないが、「平野=不器用でもある」説を別の人が別の言い方に組み替えることで受け止め方がガラッと変わる経験もした。その人は僕のことをこう表現したのだった──”平野さんはちゃんとした人間というよりも、ちゃんと人間をしていると思います”。昨年末から急速に僕(とmihauというバンド)と音楽のあれこれに関する環境は変わった──毎年こう言っている気もしますが──その最中にいて、彼女のこの言葉はとても励みになった。そしてまた、彼女もきちんと人間をしているとも思ったのだった。この場を借りて、どうもありがとうございます。とても嬉しかったです。


いやでも…思い返せばあの夜にまめちゃんもこう言ってくれていたのだった、平野くんは人間を信じているのだと。しかし今の世の中で最も価値があることとは信じることではないだろうか? これだけ混沌としてきた世の中で、信用すること以上に美学を感じさせるものはない。


美学を手放してしまった事象の話題には事欠かない世の中になってしまったように思えて仕方がない。例えば、タモリを面白くないと言った彼のどこに美学を感じることができるだろう? 見渡す限りのどこにも美学が見つけられず、今の世の中におけるそれはまるでレアポケモンのようだ。簡単に見つけられない分、その殆どはそもそも存在していたことが怪しくも感じられる、まるで神話に近いようなものになってしまった。しかしそれは果たして「本当に」妄想だと一蹴され烙印されるような代物なのだろうか?


───


タモリな彼もなかなかなものだったが、最近目にした凄惨なもののひとつはサナエトークンだった。あそこにまつわる何処に美学が垣間見れるだろう? 僕は基本的に高市さんのスタンスの諸々に反対で危険だと思っているが、あの件に関して彼女が発した「知らなかった」には一定の信憑性がある…というか本人も感知していなかった何かがあった可能性については考えても良いと思う。一種の行き違いのようなものだ。あくまでひとつの可能性に留まるということは断っておくが、本人不在で名前と立場だけが利用され、(真実がどうであるかは置いておいて)出されてしまった名前のせいでいくら否定しようとも関与を疑われ続ける…ということが現実に起こっているのかもしれない。


しかし仮定される巻き込まれ事故そのものが妄想に回収されることがこれから先にあるとしても、現実に居残ることを宿命づけられたものもまたある──彼女が蒔いた餌を頂こうとする者はああいうかたちを以ってして蠢いているということだ。そしてほぼ同義として、彼女を支えているもののひとつとはああいう質をしているということを示してもいる。一攫千金とその場しのぎ、それは雨宿りしているハイエナの群れと全く同じだ。しかしここにいるハイエナたちは心底がめつい訳ではない…容易く嘘をつき、危うい立場になったら即座に撤退する。本物のハイエナよりも遥かに薄汚く邪悪だ。


目につく限りの何もかもが経済についての話になってしまった。そして経済活動の最果てには闘争と戦争がある。この風潮には心底辟易としている。経済の側面でしか人間の社会を語る術を持たないことは貧相だ。今の世の中では「美学」は最も必要とされず邪魔くさいものではあるかもしれない。マージン目的の勝ち負けこそが…或いは競争がもたらすスリルそのものが最も重要だと本当に思っているのなら、自分はハイエナだと嘯く在り方とこの社会の風潮とは矛盾しない。清々しい程の統一感すらある。しかし世渡り上手だということは時に軽薄さそのものを意味する。


しかしさらに考えてしまうのは、雨宿りしている偽のハイエナの群れの中に自分たちは「本物」だと思っている輩も少なからず知るように思えてしまうことだ。自分たちは果たして何者なのか、何を体現していて、何を主張していて、周囲からどう受け止められているかについては無頓着で考えてきたこともない様に見えてしまう。「何の為のマネーゲームか?」を問われて実際的にお金を稼ぐ理由を回答できる人は、少なくともあの群れの中においては想像しづらい。そこで「ポルシェが欲しくて…」という理由を真っ先に挙げるものは、恐らくあのマネーゲームに身を投じることがない。言い換えれば、つまりあれは前述したようにスリルを求めるだけの「ゲーム」に過ぎない。ゲームに身を投じる限りは自分が何者であるかについて真剣に考える必要はないのだ──スリルと自分自身が同化する。ゲームが終わると自分は一体何者なのかについて問われる余白ができる。そこから逃れる為にゲームを続ける。それを繰り返す


…と、ここに至って僕は感じている。批判的な口調で語りながら、実際は偽のハイエナ達と共有する心理を自分が確かに持っていることを知っている。僕にしたって自分はどういう人間なのかが分からないのだ。自分のことを自分が一番分からずにいる。ということは、もしかして、全ての人が自分という器の確定さや確実さについて見当もつかずにいるということなのだろうか…?


───


加熱と微熱、それは熱量を巡るデザインの刺青だ。

デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


自分で意図的に熱量を高める現象を”加熱”、自然と熱が上がってしまう現象を”微熱”と換言してみる


───


それは「熱を自分自身でコントロールすることができるかどうか」に優劣を求める技術論ともなり得るが、的外れだと予め指摘しておきたい。熱をコントロールできないことが汚点となり、その人の価値に傷を付けることはあり得ない…仮にそういう受け止め方をする者がいるとするならば、それはあまりにも安直過ぎる。そうではない。


僕たちは全く同じようにデザインされている訳ではない。様々な経験や方法によって様々な塩梅の傷が付けられている。自傷、他傷を問わず、そして長く生きれば生きる程傷の差は明確になる。傷の差に由来するデザインの多様さはそのまま個性となる。しかしその傷を──一種の刺青を、個性の象徴や個別性を見出す目的の為だけに執着して見つめることは、却ってその人自身を見つめていることから離れていく。重要なのは傷の差をきちんと汲み取りながら、その傷の痛み自体を自分自身の痛みとして想像し受け入れることができるかだ。それによって僕たちは他者との違いをユニークだと受け止め、他者を受け入れることができる。そこには非難ではなく批判があるだろう。それこそが”加熱と微熱”における本来の技術論である。デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


この視点は次のようにも言い換えられる…どの視点であろうと、感じてしまったこと自体においては咎められることはないし、決して間違っているということもないのだ。物事に優劣や正誤性を求めるのはあくまで社会における法律や法規、もっとぼんやりした漠然としたルールのようなものであり、さらに広範に捉えるならば僕たちがさらに漠然としたものとして受け入れている倫理観ということである。倫理観と自分の感覚が激しく衝突し摩擦する時に人は悩み苦しむだろう…というここで再び前言が繰り返されることになる、so once again, repeat after to me──重要なのは傷の差をきちんと汲み取りながら、その傷の痛み自体を自分自身の痛みとして受け入れることができるかである。それによって僕たちは他者との違いをユニークだと受け止め、他者を受け入れることができる。そこには非難ではなく批判があるだろう。それこそが”加熱と微熱”における本来の技術論である。デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


───


お前は他の誰かより価値が劣ることもないし、またそれを超えることもないのだ


ピエール・クラストル『国家に抗する社会 政治人類学研究』”未開社会における拷問” P.231


───


僕たちを巡る大凡のことには「印象と実体」=「イメージとリアル」が存在する。それらは他者によって育まれる側面を強く持つ…というか、他者を意識しない限りその二項対立はそもそも発生しづらい。Aという人を巡る「イメージとリアル」に依る葛藤は「Aによる自己認識」だけでは生まれない。何かしらの外側からかかる力が葛藤へ続く扉を開く。その扉の先には決して綺麗に合致することのない二項が同居している──「Aによる自己認識」と「他者が認識しているAという人」というそれによって「イメージとリアル」は成り立つ。


“加熱と微熱”というイベントテーマをバンドのみんなに共有した時、〇〇というアーティストは加熱的、対する△△は微熱的…と自分の思う例を提示した。そのところ、いやそうじゃないだろう…という意見が立ち上がり、たちまちこれらの話は複雑化した。そしてすぐさま気付かされたのは、この区分けに関わる重要な要素のひとつとは、各々が持つ物事の見方や関連性の配置の仕方に著しく依存するということだった。


他の何物にも当てはめることができるが、例えばジャズの演奏について考えてみよう。ジャズの特徴は即興演奏にある(と乱暴に括る)。各人の即興演奏とそれに対する反応によって繰り広げられる演奏はずっと同じ温度やテンションを保つ訳ではない。何かしらの上昇と下降を伴う。クラシックやポップスの場合はアレンジや楽曲展開といった仕組みを設けることでかなり意図的にテンションをコントロールし、演奏者はその設計図を辿って演奏することで楽曲を組み上げる。それに対して演奏者同士の会話が軸となるジャズにおいては演奏は密なコミュニケーションであり、それぞれの話し方が顕著に全体のデザインへ直結する、しかも、僕たちが交わす多くの日常的な会話と同じように──それが盛り上がるか盛り下がるかは試してみないと分からない。事前に想定された方向とは全く違う方向へ進むこともあり得る…それどころか多発しているかもしれない。


「熱が入る」という表現が示すそれこそが、ジャズにおける演奏全体のデザインを支配する。そして熱の入り方には演奏者自身の演奏への取り組み方が大きく関わっていることは言うまでもない。その視点を以って観察をしていくと、ふたつの異なった印象のどちらか一方に演奏者を分類できることに気付かされる。ひとつは演奏者自身の熱が自然と上がるパターン、もうひとつは演奏者自身が意識的に自分自身に熱を加えていくパターンだ。もっとシンプルに表現するなら「高まる」か「高める」かの差である。それらを言い換えると、前者は”微熱”・後者は”加熱”と当てはめることができるだろう。


なのだけれど、ここから話はやや複雑になっていく。”加熱”の特徴として、自分だけが”加熱”をコントロールしているとは限らないという点がある。他の演奏者によって”加熱”を促されることだってある…つまり自分の力で「高まる」だけではなく他者の誘導によって「高められる」ことだって演奏内では多発するのだ。加えて、その熱とはサウンドそのものと等価という訳でもない。演奏者の身体的な動作を目で捉えることによって熱を感じることもあるだろう。演奏者の活発な動きに熱を感じることは多くの人に覚えがあるはずだ──激しい動きを見せながら手元の機材を弄る演奏者、そんな彼の放つサウンドは極めて冷めた質感のミニマルなテクノだったりすることもよくある。音楽に対して僕たちは熱を感じることができるが、熱の感じ方は決して直接的な肌の触れ合いの話に限られない。ダンスフロアにいる人は音楽に熱狂し、それに身体を寄り添わせ踊ることにも熱狂する。そのどちらもが熱の所作である。音楽の面白いところだと思う。


さらに話がややこしいのは、音楽全体を構成する熱量にはいくつもの計算方法が存在する点だ。ひとつの音楽がひとりで創られたか複数人で創られたかだけでも既に違うのに、複数人で創られた場合でも全体の計算の仕方は各々でまるで変わってくる。複数人によって構成された音楽における計算方法の複雑さ・煩雑さは非常に厄介だ。熱を巡る高まりは単純な足し算という訳ではない。掛け算もあれば、引き算だって成立するだろう。演奏者同士の関係性や音楽的な語彙の類似によって、仮に「ふたり」であっても四則演算の全てが発生し得る。同じ人数だろうと同じ楽器構成だろうと演奏者が違うだけで「同じ曲」も「全く同じ曲」にはならないし、さらには同じ演奏者同士であってもその日のコンディションによって「全く同じ曲」とはならないのだ…とここまで考えてみたが、その関係性を巡るルールの根本にあるのは”加熱”と”微熱”であることは間違いない。ひとりの演奏者によるアプローチの差異が全ての起点となる。”加熱と微熱”という観点で音楽に耳を傾けてみると、その構造だけではなく演奏のアプローチや考え方、人間関係に至るまで多様な発見があるだろう。


───


ところで…音楽を巡る熱量は経験がもたらす「傷」にも由来すると個人的には思う。


様々な傷が音楽を演奏する上でのモチベーションとなる…と文字に起こすとピンと来ないかもしれないが、巷に溢れている恋愛ソングを思い浮かべれば理解できるでしょう。その幾らかは直接的な失恋の歌だし、「もっと良い人見つけてやるかんね」的なことだし、或いは恋している俺ってカッコ良い的なことである。先日たまたま職場でテレビの歌謡祭を見ることがあったのだが、それらの殆どがこういう類の恋愛ソング、またはそれに近しい人生応援歌ばかりなのに却って驚かされた。もう少し違うパターンもあって良いのでは…と考えてからすぐに思ったのは、パターンの欠如は今に始まった話でもなく、遥か昔の歌謡曲の時代だって大体がそうであっただろうということだ。僕が恋愛ソングに抱くのはその容れ物の陳腐さについての忌避感であり…つまり似たようなパターンが多く続くことかもしれない。似たようなことを似たような観点で扱って「分かってね」と強要されているような気分になってしまうのだ。


音楽に限らず映画・文学・絵画その他あらゆる類の芸術において、僕たちはそこに込められた意図や物語を読み取ること / 読み取った気になること / 誤読することによって作品そのものを感受する。そこにおいて読み取りの正確さはそこまで大きな問題とはならない。重要なポイントは作品がその人の中の何かを突き刺すということ、曝け出すということ、呼び起こすということ、思い出させるということである。ピカソの『ゲルニカ』を観た人がその先に何を感じるのかは完璧な自由だ──1937年4月26日の爆撃へ想いを馳せることも、1937年6月の或る日にパリ万国博覧会のスペイン館に絵画が飾られたことに想いを馳せることも、1945年3月10日に東京の空を覆い尽くした飛行機群に想いを馳せることも、1945年8月6日に投下されたリトルボーイへ想いを馳せることも、1969年にベトナムに降り注いでいた砲弾の雨の日々を描いた1979年8月15日公開の『地獄の黙示録』へ想いを馳せることも、かつて経験したサーフィンへ想いを馳せることも、広い空を見つめた海岸線でのひとときに想いを馳せることも、かつて見た動物園の動物たちへ想いを馳せることも、幼い日々から身近だった相模総合補給廠へ想いを馳せることも、その「日本の中のアメリカ」に貯蔵されていたものが人を殺していた可能性について(今になって)想いを馳せることも──何もかもが完璧な自由だ。


それらには正しさは求められないし、そもそも正しさを求めるには儚く脆過ぎる。そこには各々が抱えるノスタルジックさを幾らか交えた記憶が──傷が反映されているからだ。僕たちは作品を通じて自身の傷に思い至る。作品について誰かと語るということは各々が抱いている傷を共有することに他ならない。作品について語ることで他人に対して自分の傷を共有することは意外と簡単だ。どんな語り口であれ、感じられることは山のようにある。しかしその「感じられること」には語り切られず想像が付かない大量の情報が、ディティールが隠されていることを忘れてはならない。人間の内側には恐ろしく綿密で本人すら忘れてしまっている記憶が沢山詰まっているのだ。入り口は確かにここに存在するが、その向こう側ははっきりしない。


傷の共有は沢山のベクトルで発生する。音楽で言えば聴く者と演奏する者との間で発生するものもあれば、演奏者同士で共有されるものもある。演奏者同士で共有された傷は確かに楽曲に影響する。楽曲全体のラインをくっきりと縁取ったり、ひとつの歌詞に対する沢山の感情を描いてみせる。たったひとつだけのシンプルな感情や決して揺らぐことのないディティールだけで演奏される音楽は、はっきり言って貧相だ。豊かなものは、簡単に説明できない複合的な感情によって初めてその豊かさを得る。それをスキップして豊かさを手にすることは決してない。


豊かな音楽を鳴らす為に多様な傷は必要不可欠だが、しかしその音楽を為す一部である演奏者は「傷を持つ」という共通項を持つだけで、同じ傷を持っているとは限らない。同じ経験を経て抱え込んだ傷でもその塩梅は様々である。大して傷を負わなかった者、致命傷を負った者…傷の具合はそれぞれ個別で、それぞれに距離感を抱く。同じ場にいるということは、そっくりそのまま、同じ物事を経験しているということを意味する訳でもない。様々な尺度によって時間と場は解釈される。各々の感情を持つ限り、隣に誰かがいようとも人間は常に孤独を強いられる。お互いを完全に理解することもできないことを、僕たちは傷を通して学ぶ。


───


加熱と微熱、それは熱量を巡るデザインの刺青だ。

デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


───


傷はその人のパーソナリティにも直結する──僕は自分の経験から受けた傷によって、幾らか慎重になり過ぎたきらいがあるかもしれない。そんな慎重過ぎる人間に最も必要なのは背中を押す人か、足元を切り崩す人のどちらかだ。さすればやることは絞られる。動くしかない。STYLO#3の時の引き金はJoni Voidだった。そして今回の引き金は毛玉である。


実は2025年にライブをするという話はあり、かなり具体的に企画もしていた。実現していればそれが#4になり、今回のものは#5だった。テーマも別にあった。実現しなかった#4は、恐らく#5にスライドして進めることになるだろう。兎も角、あの時点では全く存在していなかった#5が前倒しでやって来た。テーマはそこまで苦労せずに思い付いた…”加熱と微熱”というそれがしかし、これまでのテーマの中でも最も捉え方が多様なものになるとまでは考えていなかった。


繰り返している気がするが──「今年は何もしていなかった」というやつだ──25年は特にそういう趣が強かったように思う。予定していた制作はいったん白紙に戻し、バンドはひたすらスタジオで曲作りをした。良い曲もしっかりと出来たと思うが、それを「どうするか」の箇所が徹底して欠損していた。そこに対して決断が下せないのが自分の不甲斐ないところだと思うが(慎重過ぎて真剣過ぎるのだ)、その先にあるのは取り止めてしまった制作を再開するか、実現しなかったライブに再び取り組み始めるかのどちらかであるのは明らかだった。


きっかけを齎したのはここでも登場するまめちゃんである。彼女は僕に突然「毛玉のいしくろさんが、平野くんによろしくって言ってました」とLINEをくれたのだった。突然過ぎて全く理解できなかったが、詳細を聞いて色々と明確になった。


件のいしくろさんはTwitter上での知り合いだったが、ただの知り合いよりも距離の近い人だという印象は昔から持っていた。会ったことはないが友達みたいな感じ…というのはまさにいしくろさんのことである。理由としては、僕がTwitterを始めたかなり早い段階でフォローした人のひとりだったこと、共通項としてジャズがあったことである。しかし冷静に考えてみれば、人はたったそれだけの些細なことでもきちんと関係性を見出すことができるということである。すごいことですよね。


───


元々は当時の仕事で必要性が生じたので始めたTwitterだった。色々触ってみて受けたTwitterの始めの印象は「mixiみたい」だった。mixiはやったことがなかったのにも関わらず、だ。mixiとは思えば来たるSNSの前触れだったのだと今では思う。きちんと調べたらローンチそのものは2004年とのことだった。僕がその存在を知ったのは大学生の時なのだが、これが意味するのは即ち「2004年の段階では全く存在に気付いていない僕」「ネット上で起こっていたことに非常に疎かった僕」という情けない2点である。自分が浦島太郎になっていると気付くこと自体が遅かった。他方、僕にはこの辺の塩梅に対する一貫性があるのも確かで、つまり興味がなかったのである。mixiという存在を知ってからも僕はそれに登録することなく過ごし、Facebookもすっ飛ばしてTwitterへと漂着した。その感想が「mixiみたい」なのだから、正直に言って雑である。


とは言え、どれだけ周りの友人達が面白さを語っていてもmixiに全くなびかなかった僕としては、Twitterへの登録は現代のテクノロジーに触れたかなり珍しい瞬間である…とは言うけれど滅茶苦茶周回遅れだったのは間違いない。しかし登録に至る過程でmixiやFacebookはそもそも道を断たれていた中、何故Twitterはそこに至ったのだろう…というここには前述した仕事上での必要性が絡んでいたからあんまり説得力もないんですが、ただ登録に対してそこまで抵抗がなかったのは確かであった。そして実際に触れてみて、mixiとの差にもすぐに気付かされた。それは世界の広がり方やシステムが、あるいは「見せ方」が根本に違うという点だった。


当時のmixiには足跡という、いま振り返ってみても非常にホラーな機能があって、つまり誰が自分のスペースを見に来たかが分かるということなのだが、僕はそれを怖過ぎると思っていた。大学の友人が「あいつの足跡が残っていてさ…」みたいなことを話しているのを聞いていて、僕にはそれがともかく恐ろしく思えたものです。


恐怖の理由はいくつかある。ひとつは単純に、実際の友人や多少面識がある人だけでなく、関係性が希薄である人や全く知らない人が自分に少なからず興味を持って覗きに来ているということに対してだ。リアルな生活の一場面に置き換えて考えてみたら分かりやすい。公園のベンチに座っている時、向こう側のビルの窓からこちらをチラチラと覗いている人が見える…知り合いであれば多少はポジティブに捉えられるかもしれないが、全く知らない人だったり思い当たる人がいない場合、これはなかなか怖い状況である。別のケースとしては、クラスの中で話したことのない子のことがただ気になってしまう、会話できないからこそ代わりの何かでこの気持ちを埋め合わせたい…みたいなことで、これ自体は自然な気持ちの動きだとは思うけれど、それがネット上の経験に置き換わるとその質が大きく変わってくる。


そしてもうひとつは、その怪訝な足跡を半ばゴシップ的に他人と共有される可能性があるということだった。「あいつヤバない? 怖ない? だって俺話したことないんやで? なのに俺興味持たれてるっぽいねんけど? なんで?」「誰この人? 全く知らん人やねんけど? え? あいつ? いやあいつのアカウントは⚪︎⚪︎やろ? じゃあこいつは誰なん?」みたいな会話がmixiユーザー同士で繰り広げられるのをよく耳にしてきた。自分のコミュニティの中で出来事を共有し恐怖心を多少でも和らげたい…という気持ちはとてもよく分かるが、他方この”噂されている人”が仮に自分自身だったとしたらなんともやり切れない。ただ一回だけスペースを覗き込んでしまったが最後、怖いだの気持ち悪いだの言われ、実生活でも警戒される。相手に対して細やかな好意や恋愛感情を抱いていたとしたらさらにやり切れないだろう。関係が始まる前に終わる可能性大である。ただ一度だけちらっと覗き見てしまったという行為によってイメージが悪くなってしまう。自分という容れ物の大部分を望まないもので埋められてしまう。まあ、これはあまりにも悲観的なのかもしれない。ポジティブなケースや、やがてポジティブに転化することも当然存在しただろうとは思うが、しかし知る限りにおいてはネガティブな終焉のケースの方が圧倒的に多かったように思う。


その点でTwitterが凄かったと思うのは、足跡機能 = 覗かれている実感を排除してみせただけで恐怖心そのものを取り除いてしまったことである。Twitterは圧倒的に覗きの行為で成り立っているが、その行為には目を向けさせず、実感を残さないシステムを作ることによって不気味さも綺麗に取り除き、相手に対するネガティブな反応も断ち切ってしまった──インターネット上だからこそ成り立つ観点の発見であり、これはかなり革命的だったと思う。「見られている」という感覚ただひとつがなくなるだけで、起こっている現象には変わりがないのにこんなにも印象が変わる。アクセス数だけで言えばmixiよりもTwitterの方が圧倒的に覗かれている可能性が高いのに、だ。自分の感覚ひとつで同じ物事への判断が綺麗に切り替わる、という点で人間の単純さを示してもいるが、これは以下のようにも換言できる──自分の感覚に対してそぐわないもの・反感を抱くものに対して、私たちはなかなか寛容になりきれない。


しかし今のTwitterはどうだろう。トラッキングの結果興味関心があると判断されたものが自動的に立ち並ぶが、その殆どに実は興味を持つことがない…というよりも私たちが”気持ちが良い”と受け入れることができるような興味の持たせ方は決してしない。目の引くことが強調され(過ぎてい)るが、目の引くことと興味関心とは完全に一致する訳ではないし、大きく異なることだってよくある。しかし現状のアルゴニズムではその2者を切り分けて考えることが困難なのか、あるいは「見せる」という目的に特化し設計すると自ずとそうなるのか…兎も角アルゴニズムはひとつのポストへの滞在時間を興味関心と結びつけるが、その解釈は部分的には正しく、部分的には間違ってもいる。「始まってしまった戦争の一幕、炎を上げる建物の映像を凝視していること」と「戦争に深い関心を持ち、場合によっては愛していること」、このふたつは当然一致しない。考えればすぐに分かることだが、人間と違ってアルゴニズムは考えることがない。何故ならアルゴニズムとは数値化だからだ。人間を数値化して単純に捉えるということは、人間が持つセンチメンタリズムを汲み取ることの拒否を意味する。数値に対して人間の「お気持ち」は邪魔だ。排除するに越したことはない。


自分のタイムラインをシンプルな興味関心だけで満たすことができなくなってしまったTwitterで(しかもタイムライン上のポストが間引かれてさえいる)、友人の諸々を徹底して眺めることはかなり困難になってしまった。いしくろさんのポストを時折見つけることはあったが、それはかなり偶然に近しいことだったと思う。最後に見た彼のポストが何であったかを思い出すことができない。そしてそのことと興味関心とは決して一致しない…ということは、本来であれば特段に説明する必要もないだろう。


(そういえば、mixi2ってどうなったんだろう?)

(目の引くことと興味関心とは完全に一致する訳ではない)


───


…と長い脱線を経て再び話を戻すが(そして新しい脱線の道筋が見えているのだが)、いしくろさんと僕には興味関心の共通項としてジャズがあった。今でも多少は続いている現代ジャズの盛り上がりがひとつのピークを迎えた時期と僕がTwitterを始めた時期とは完全に合致していたと思う。受け止め方や解釈の仕方、もっとシンプルに好き嫌いの差こそあれど、同じ共通項を持っている人がいることはとても喜ばしいことだ。僕がTwitterで思い知ったのは、自分と同じような好みや趣向、そして感覚を持っている人がこの世界にはきちんと存在しているということだった。日常の生活の中で”そういった人たち”を見つけられるかはただただ運に依るが、Twitterは”そういった人たち”レーダーとして大きく役立ったし、レーダーが”そういった人たち”を感知・捕捉してくれることはかなり純粋な喜びだった。


僕が現代ジャズの面白さに気付いたのは何がきっかけだっただろう…とは時折考えるのだが、答えはなかなか出ない。あれはひとつの「現象」だったので、一人のゲームチェンジャーの登場という文脈ではなかなか解釈が難しい。ただはっきりと言えることがひとつだけある。僕にとってジャズとの出会いは革命だった。そしてその一端を担っていたのは間違いなく現代ジャズだったのだ。演奏そのものの面白さに限った話ではない。ロック、フォーク、ブルース、ヒップホップ、エレクトロニカなどともかく「自分が好きだ」と感じた音楽のまとめ方がずっと分からなかったが、ジャズをそれらの真ん中に置くと何もかもがすんなりと収まり、簡単に説明ができることに気付かされたのだ。そしてその一種の「豊かさ」を現代ジャズはさらに体現していた。


よく挙げられる例だが、ジャズとヒップホップは「テーマ・ソロ・テーマ」と「フック・ラップ・フック」というベーシックな構造が似ているという点でも、また並べられるアブストラクトな音の配列からでもほぼ同質だと言える。しかし現代ジャズの登場はそれを最早説明がいらないものにまで昇華した。多くの人は、それを言葉にできないとしても、その関係性に気付いている。いま聴かれる多くのポップミュージックにはその水脈がかなりの確率で流れ込んでいるからだ。


しかし同様に、今でも少なくない解釈としてジャズは「オシャレ」でヒップホップは「野蛮でストリート的」だとされる。これはかなりステレオタイプ的な解釈だ。外装的な雰囲気によって…つまりイメージによって多くが牽引されている。Apple MusicでもSpotifyでもイメージ先行型の「それらしいプレイリスト」はすぐさま見つけられるし、量販店に行けば「それらしいCD」…つまりBGM的に聴くことができるジャズを収録したコンピレーションが見つけられる(場合によっては楽器別や細かい用途別でコンパイルされているだろう)。このことを批判的に書いてはいるが、一方で感心してしまうところもある。実際のところジャズのインプロビゼーションとはかなり多弁で強力なおしゃべりであるのに、そのおしゃべりを背景にして自分たちの会話を繰り広げるとはすごいことではないか。それほどまでに人間の耳とは音楽を環境に溶け込ませる能力に長けているということであり、ということは、集中力の向く先によってそれらを滑らかに切り替える仕組みを人間の耳は持っているということでもある。「目には瞼があるが耳には蓋がない」とはスーザン・ソンタグの言ったことだが、耳には目には備わっていない程のミュート機能があるのも確かだ。BGM的に音楽を「聴く」とはつまり「聴いていない」のと殆ど同義なのである…と書いて忽ち想起するのは「積極的に聴くことも無視することもできる音楽」──つまりブライアン・イーノの提唱したアンビエント・ミュージックである。


ここでわざわざブライアン・イーノの発言も込みでアンビエントの名前を出したのは、昨今の「アンビエント」という言葉の使われ方には、原義とは違う意味合いを持つ一定のセオリーが存在することを示す為である。「積極的に聴くことも無視することもできる音楽」というポイントでのアンビエントミュージックは最早存在しないと言える。何故ならば多くのアンビエントミュージックには作家主義があって、記名性があって、特手のサウンドスタイルを示す記号となっているからだ。浮遊感のあるサウンド、優しく丸みを帯びたシンセサイザーという基礎を中心に、その派生やアレンジによって「アンビエント」と括る…という具合だが、そこには無視することもできる音楽としての面影は最早失われている。場合によっては、その言葉の原義も知らないままに「アンビエント」という言葉を用いているようにも思われる。


確かに言葉はどの時代においても常に同じものを示し続けるとは限らない。その是非を問うのは些か乱暴だとも思う。それは倫理観が社会の仕組みによって変容するのと全く同じように、柔軟に容れ物にあった形へと姿を合わせていく。しかし一方で、かつてあった言葉の意味を無視することもまた暴力的ではある。それは一種の修正主義であって、歴史の連なりを分断する行為に他ならないからだ。僕たちは思いがけないところで暴力に加担していることがある。言葉の意味を捉える際に学びが欠けていると、それは「かつてあったもの」を総じて否定することになりかねない。


「アンビエントジャズ」というジャンルの括り方はもう一般化した。サウンドの傾向としても列記としたものが存在する。しかし「アンビエント」と「ジャズ」を接続する方法を以ってして「浮遊感のあるジャズテイストの音楽」を説明したい感覚は理解できるが、イーノがとある状況や環境に存在する「積極的に聴くことも無視することもできる音楽」を「アンビエント」と設定し提言した原義に当てはめるのであれば…つまり本来の意図を踏まえるのであれば「アンビエントジャズ」とは「それらしいプレイリスト」や「それらしいCD」に並ぶ「オシャレでムーディなジャズ」というあれのことを示すのだ。小綺麗にまとめられたあれのことであり、かつてスーパーマーケットでよく聴けた安っぽいJ-POPカバーのフュージョンのことである。浮遊感のあるサウンドをまとっただけのジャズはイーノが設定した「アンビエント」の範疇に必ずしも収めることができる訳ではない。ここにおいてふたつの意味合いがぶつかり合い軋みの音を上げる。


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加熱と微熱、それは熱量を巡るデザインの刺青だ。

デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。


自分で意図的に熱量を高める現象を”加熱”、自然と熱が上がってしまう現象を”微熱”と換言してみる。


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古くから伝わり伝承される儀式に欠かせなかったことから鑑みられるように、音楽とは極めて儀式的な行為だ。イーノがアンビエントを提唱した時、必ず儀式を伴わなくてはならないという前提から音楽は解放されたのかもしれない。しかし言わずもがな「聴く為にある」音楽の力は極めて強力で、それに身を任せた人間を日常から半ば強制的に切り離していく──「儀式」という言葉にすぐさま宗教を見出してしまうと、特に無宗教の人が多い日本人的な感覚からすると違和感があるかもしれない。しかしアリーナクラスの会場で皆が一様にサイリウムライトを振る光景を見てあれを「儀式」的な行為ではないと考えない方が些か難しいと思う。


この「儀式」は二つの視点で現実に照射される。儀式を”体現するもの”とそれを”観るもの”、それぞれによってひとつの儀式は違う形で現れる。つまり演者と観客だ。観客としての儀式は比較的シンプルに動くことが多い。儀式に際する緊張感や期待、或いは不安によって自分自身の熱の高まりを感じる──微熱の状態──そこに演者が到来する。演者の発するサウンド・動き・仕草や振る舞い、そういった幾つもの要素を振りまく演者によって”観るもの”は激しく揺り動かされていく──加熱の状態へ至る。波のように揺れるサイリウムライト、あれはどれだけ穏やかに揺れようとも、微熱に続く加熱の結果である。


それに対して演者はどうだろう?


同じ儀式を巡る話でも、演者の場合はメカニクスがやや複雑だ。例えばステージ上を忙しく動き回ったり叫びまくるような演者ですら、実は自分の立ち振る舞いに酷く冷静であったりする。セックス・ピストルズにおけるジョニー・ロットンは目を見開き舌を出しながら極めて露悪的に歌っていたが、彼が名前を変えた上で結成したP.I.L.の『Metal Box』の頃の映像にスライドしてみると、ピストルズでの挙動とは対極的に静かにマイクを握って歌う彼を容易に見つけることができる。”Poptones”の映像ではピストルズに顕著だった扇動的な動作はほぼ見られない…印象的な目つきこそ共有しているが、”Poptones”でのジョン・ライドンは捨ててきたロットンの名前と共に過度なパフォーマンスも放棄したように見える。


ところが、まるでジャジューカ村から聴こえてくるような狂気的なサウンドを纏った『Flower Of Romance』で彼の演技は再び舞い戻ってくる。再び扇動的なムードが立ち昇り、ライドンは身体を激しく動かす。作品の質感に合わせて彼はモードを切り替えているように映る…とても器用な策士としてのジョン・ライドンは、だからこそ逆張りの連続だったとも言える。逆張りはニューヨークパンクに対するロンドンパンクのクリシェであり、今でいうYouTuberの炎上商法的な趣もあった…どころかもしかしたらその嚆矢のひとつと言えるかもしれないが、しかし今では右翼的な発言も目立ってきた彼にパンクロックヒーローの称号は相応しくないし、恐らく彼自身も「いらない」と言うに違いない


…とここに至り、些か乱雑な問いかけが可能になる。


「どちらが本当の彼なのだろうか」?

或いは「本当の彼などそもそも存在するのだろうか」?


しかしこの問いかけを仮に自分自身に投げかけられた時、明確に答えられる人は果たしてどれだけいるものだろうか。かつて「ほんとの私、デビュー」というCMの名コピーがあったが、しかし眼鏡を外してコンタクトにしたらそれが「ほんとの私」と言い切れる人は、そもそも自分に対する評価や軸が既に明確に存在しているように思える。つまり今の状況や今いるところは本来の自分「ではない」と思えるからこそデビューは達成できるものとして設定される(或いは、そこにこそ自分がデビューできるポイントが存在していると確信している)。ジョン・ライドンの身の振り方を鑑みて、彼がそのふたつのステージングのどちらかを「ほんとの私」と感じ取っているようにはあまり思えない。名前を芸名から本名に変えてみたところで、「ほんとの私」が立体的に浮かび上がってくる訳ではない。芸名と「眼鏡」はあくまで”演技のメタファー”なのだ。


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…今ここで「眼鏡」と「サングラス」を入れ替えてみることを思い付く、ひとりのジャズメンの逝去がそれをさせる。その演奏家ことソニー・ロリンズが亡くなったと聞いた時、僕は真っ先に『Alfie』を聴いた。普通は、というか世間的な評判のことを踏まえればここでのチョイスは『Saxophone Colossus』がベストなのかもしれないけれど、残念ながら我が家にはサキコロがないのだ…というこの辺りで既にロリンズを熱心に聴いてこなかった僕の怠慢が見透かされることだろう。『Alfie』が好きなのはケニー・バレルが参加しているからだった。ケニー・バレルの音はどの作品で聴いても一発で分かってしまう。彼の美しいトーン…アンプ自体はオーバードライブ気味に設定してあるのだけど、手元のニュアンスでクリーンとも歪みのどちらにも振ることができる絶妙な位置に音が置かれる。クールな身振りをしているけど実に情感に溢れている音だ。本当に素晴らしい。


しかし今回ばかりはロリンズを聴いてしまう。”Alfie’s Theme”ではケニー・バレルのソロに続いてロジャー・ケラウェイの端正なピアノソロが演奏され、やがてロリンズが登場する。彼のソロは他の人に比べて尺が長い。それだけ見せ場があるということだが、言い換えればその分演奏に対するアイデアが求められるということでもある。なのだけれど流石ロリンズ、演奏に詰まる気配は全くなく、まるで息をするように吹きまくっていて、しかも同じことを続けているような印象は持たない。彼のソロはナチュラルに展開し続けているのだが、演奏のムードが変わる瞬間が自然と発生して流入してくる。後から振り返ることで明確に「変わっていた」と気付かされることこそあるが、何かを「突っ込んできた」という印象には全くならない。ここにロリンズの凄まじさが現れていると思う。彼のサックスは豪快で勇ましいのだが、それでいてどこか抒情的な印象も伴ってくる。文章でいうところのヘミングウェイに近いニュアンスが彼の音には満ちている。時代錯誤的な言い回しだが、以前はよく「男らしい」と表現されてきたような猛々しさの中に浪漫で繊細な側面も見え隠れする、それがロリンズの真骨頂だと感じる。


それにしても…ロリンズは朗々と歌うサックスをどんな具合に吹いていたのだろうか。同じ時代を生きたもうひとりのテナーサックスの巨匠=ジョン・コルトレーンの演奏はマントラ的で自己暗示的なトランス状態に持っていって…ということはよく言われる。トランス状態に入り込んだ結果1曲1時間…みたいな演奏に至る訳だが、このことはコルトレーンは熱が高まりを自発的に操作できるように自分自身を設計していったとも換言できるだろう。40歳で亡くなった彼だったが、その一端は熱のバランスを過度にコントロールし過ぎたから…という気がしなくもない。生涯で人間が耐えることのできる熱量が定められているとしたら、彼はその熱を早くに放出し過ぎた結果燃え尽きてしまったのではないか…左様にしてコルトレーンは極めて加熱的な演奏家だったといって差し支えないと思うが、同時代を生き、同じテナーサックス奏者として活動してきたロリンズは果たしてコルトレーンと同じように「加熱」していた演奏家だったのだろうか? ソニー・ロリンズにおける「ほんとの私」は実に汲み取りづらい。彼が愛したサングラスがそれを如実に示しているように思える。


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ロリンズの著名な作品のひとつに62年に録音された『The Bridge』というアルバムがある。”bridge”、つまり橋である。邦題も全く飾り気なく『橋』だった。今でも日本国内で再発される時には大抵『橋』とタイトルされる。作品そのものもそこまで華美なものではない。マイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』は既にリリースされ、その一方で異端児オーネット・コールマンも登場していることを踏まえると、かなりオーセンティックでオールドファッション的な演奏集だと言っても差し支えないと思う。ここからさらに吹き荒れていくジャズの革新的な動き──モード手法のさらなる追求、そしてもう一方にあるフリージャズの持つ魅力的で朧気な、しかしどことなく崩落的で危うげな未来──を横目に、ロリンズはしかし淡々と自分のやるべきことを追求しているようである。彼は変わらない、少なくとも他人が期待しがちな圧倒的な変化を彼は良しとしない。


『The Bridge』の特徴のひとつは、ジャズとしては模範的な一手であるピアノを起用せず、ジム・ホールの端正で整理されたギターを迎えている点であろう。その理由は複雑なコードを鳴らすことができるピアノよりも余白のあるコード感をロリンズが求めていた為だと言われている。確かに『The Bridge』はよく音の通る空間の中で自由に響くサックスのサウンドが特徴的なのだが、その音楽的な構造を情景として想像してみると、ああ確かにこれは「橋の上にいるロリンズ」だと納得が行く。隙間があるサウンドのバランスがそれを象徴的に示している。全ての演奏者を容易に見晴らすことができ、それぞれの演奏に対して即座にやり取りをすることもできる。注意深く他者の演奏に気を配りながら自分の演奏に徹することもできる。演奏の質の高さはこの音響設計に依るものが大きいだろう。


タイトルにある”Bridge”とはロリンズがサックスの練習をしていたウィリアムズバーグ橋のことを示しているそうだ。調べてみると全長は2,227mとのことだが構造自体は非常にシンプル、綺麗に真っ直ぐと伸びている橋だった。巨大な橋ではあるが、ウィキペディアにあるような「人知れずサックスの練習を重ねていた」場所としては目立つような気もする。実際、ロリンズは始め近所の公園で練習していたが「苦情を回避する為に」ウィリアムズバーグ橋に練習場所を変えている。このことはLPの裏ジャケットにある本人のコメントに詳しい──「たとえば、アパートの近隣の部屋に妊娠をしている女性がいた。私は彼女をそんな音にさらしたくなかった。だからと言って、もちろん練習を控えることは受け入れがたかった。私はそれが生まれてくる赤ん坊にどんな影響を与えるのか知らなかった。ともあれ、彼女は可愛くて元気のいい子供を産んだ」。


橋をモチーフにした空間的なサウンド構成でも、ロリンズのサウンドが静かになるということではない。サウンドの美しさは増しているが、その音量やダイナミクスは健在だ。この点を踏まえれば、騒音に紛れることでサックスの音が目立たなくなるという点から橋は練習場所にうってつけだっただろう。そしてそんな彼の姿を、実際には多くの人が目撃していた。当然である…何も遮蔽するものがない橋の上でサックスを吹いている人物(しかも180センチ越えで体格が良い強面)となれば「人知れず練習する」という目的としては極めて大失敗と言える。


ロリンズの面白いところは視覚的にも聴覚的にも「隠れることが非常に下手」という点にあると思う。実際ロリンズは目立つ。まあ目立つ。バンドの中でも彼のサウンドは一際目立つ。演奏して仕舞えば彼のしなやかなサックスのトーンに多くの人が釘付けになってしまう。ロリンズは演奏中に繰り広げられる会話の全てを掻っ攫ってしまう。そして見てくれとしても、バンドの中にいる長身の彼は目を引く。端的に華があるのだ。ロリンズに付き纏う言葉のひとつとして「引退と復活」「隠遁」のようなものがあるが、彼は決して上手に隠れられる人ではない。彼が生涯に渡って複数回引退宣言をしたのは、つまり自分に常に付き纏う「目立つこと」から「隠れたい」「ひとりになることで自分を見つめ直したい」という心境をより確実に実行する為ではないかと想像してしまう。


「sonny rollins williamsburg bridge」で検索してみると橋の上でサックスを吹いている写真が何パターンか出てくる、が、どれもなんとなくポーズを決めているように見える。こっそり撮られているような趣ではない。恐らく「ソニー・ロリンズと橋」の関係性が有名になってから、後日撮り直されたものなのだと思う。しかし、兎にも角にも橋でひたすら練習をするソニー・ロリンズを目撃していた人の経験を僕たちは擬似的に体験する…僕たちはロリンズと橋とを写した写真によってそれを想像する / その気配を感じ取る / それを目撃する。それはまるで、かつてのmixiに残された足跡を辿るかのような体験だ。あの時の僕たちは、橋の上にいるロリンズと同じように、決して隠れることができなかったのだ。


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実際にその写真を眺めてみる。まず構図が凄まじい。映画でよく見かける非常に西欧風で都会的な建物──階段で上がった上に玄関がある──の前に多くの人(殆どが黒人)が屯っている。その多くはスーツを着ていて、女性はシンプルだが華やかなドレスを身に付けている。そして子どもたち…道端に座る男の子、出窓の近くにいる女の子(に見える)。実にフォトジェニックだ。表情が暗い人はひとりもいない。その撮影を心の底から楽しんでいるのがよく分かる、ザ・良い写真だ。


写真の中からロリンズを見つけるのは簡単だ、何故ならサングラスをかけているからである。流石隠れるのが非常に苦手なロリンズ。隠れたいとか言いながら本当は隠れたくないのではないか…という捻くれ者ぶりを感じずにはいられない。ちなみに写真の中でもうひとりサングラスをかけている人物がいて、それはセロニアス・モンク。モンクもまた隠れたがりなジャズミュージシャンだったが、彼も隠れたいが隠れられないタイプの不器用な人だったのだろうなと想像してしまう。


他にも分かりやすいのは右端にいる数少ない白人=ジェリー・マリガンとその近くで舌を出しているお茶目なディジー・ガレスピーだろう。よくよく見ていくとアート・ブレイキーとかミンガスも写っている。ドルフィーがいる…と思ったらジョニー・グリフィンだったり、メアリー・ルー・ウィリアムソンの顔を初めて見たりもして、嗚呼この人こんな雰囲気だったんだ…みたいな発見も多い。


眺めれば眺める程良い写真だと感じ入ってしまう。しかしここにいる人たちはただのひとりもこの世界で生きてはいないのだ…と考えると驚き慄きもする。かつて持っていた意味が転じて別の意味に生まれ変わる。美しい1日を捉えた写真は、美しかった1日を捉えた写真となる。生者が死者へとなる。しかしそれにしても、白黒なのに、優しい熱を感じずにはいられない写真だ。死者が放つ熱、存在しないはずの熱、しかしゆっくりと高まるのを感じる熱、微熱、それがこの写真のムードを司っている。


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ロリンズは死を以てして何から隠れたのだろう?

4度目にして恒久的な引退、或いは、もう引退しなくて良い環境への移住。


彼の音楽が再生される度に熱が生まれる。

彼の演奏は微熱的だが、私たちは再生する度に彼に加熱させられている。


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多くの演奏は日常とは違う儀式である。意図的な音が世界に付け加えられる時、そこには新しい景色が立ち登る。演奏者は日常ではないところへ自分自身を連れ出す──新しい役割を得る。自らに役割を暗示する。


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二階にあるマクドナルドの席に座り、窓の外を眺めながらこれを少しずつ書いている。仕事前の数分間の休憩だ。高校生の騒ぐ声がすごい。空いた時間を使って作業しているだけだから仕方ないことではあるが、集中力は途切れ途切れになる。ふと窓の外を眺めてみると、放置自転車を撤去している方がいる。僕の自転車も何度か世田谷区の青い張り紙を貼られてきた。たかだか15分の休憩の為に有料の駐輪場を使わなくてはならないらしく、まあそれは仕方ないとしても、その駐輪場もろくに空いていないのにどこに自転車を停めろと言うのだろう…と疑問には思うが、しかし問いかけたところで返ってくる回答は極めて単純なはずだ──「私たちが指摘しているのは停めてはいけない場所に自転車が停まっているということです」。


実にお役所的で、カフカ的だ。いやでも、今の国会答弁を見ているとカフカの覗いていた世界が如何に早く、如何に鋭かったかがよく分かる。小説としてエンターテイメントされてきた社会が現実に到来しようとは…少なくとも僕は想像してこなかった。考えられるだろうか、イランに生きていた子どもたちの学校を白いキャップ(USAと刻印されている)を付けた大統領が吹き飛ばしその大統領はノーベル平和賞を取れなかったことについて文句を垂れている。初の女性首相を推してきた与党が野党をこき下ろす為の動画を作成していたことを追求されているが、知らない存じない秘書がやったの一点張り、聞かれたことにもろくに回答しない。そうしているうちに日本国旗を傷つけたら拘留・罰金…なんていうアホみたいな法律が成立した。何度だって書こう、アホだ、アホ過ぎるが、これをやったら違法・これは大丈夫的な国旗毀損罪のボーダーについて自民党がわざわざ説明してくれた想定例が用意されているよ。ぜひご覧になってみてください。再三申し上げるが、アホである。


子どもっぽ過ぎるが、子どもっぽさこそが現代性なのだろうか。『シラート』における「ベタ過ぎる前振り」を素直に受け入れている人が多過ぎて、僕は残念というのではなく端的に恐ろしくなった。決定的に欠けているのは…つまり視点についてだ。物語やプロットにだけ注目させられて視点が欠けている。映像を視点で見つめた時、それが如何に陳腐で、如何に分かりやすさに依存しているかがはっきりすることがある。『シラート』には問題となる(≒話題になっている)シーンよりも前に、カット割によってかなり丁寧に「これから起こること」を前振りされている箇所がある。それは明らかに「これから何かが起こる」ということを示唆しているが、気付いていない人が少なからずいるということに驚いてしまう。そして何よりも──なんでこんなにも人の死を、呆気ない人の死を、固有の価値を持つ人の圧倒的な死を、人の絶対的な不在を望む表現が多いのだろう? 戦争反対、差別反対、そう口にする人たちのどれも嘘はついていないはずなのに、なんでこんなにも人が死ぬ表現は加速する一方なのだろう?


…「私たちが指摘しているのは停めてはいけない場所に自転車が停まっているということです」とまあカフカ的な回答が返ってくることは自明なので、無駄に争う必要もない。自転車に青色の注意書きを括り付けていく作業を淡々と進める作業員さんを見つめながら、この人は普段何をしている人なのだろうか、とふと疑問に思う。僕と同じように? 今日の夕ご飯は何にしようか迷って? 一袋で300円する源氏パイのお徳用パックを買うことを逡巡し? ディスクユニオンのショッパーが有料化することに賛成しながら? しかしその背景にある社会的な情勢については? 政治への怒りを感じていて? 一方週末は雨が降るからと洗濯を今日はしなくてはと? 感じているような? そんな人なのだろうか?


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お前達はわれわれの仲間である。お前達のひとりひとりがわれわれと同じであり、お前達は互い同士同じである。お前達は同一の名を持ち、それを代えることはない。お前達それぞれがわれわれの中で同一の空間と同一の場を占める。それを保持するのだ。お前達のうちの誰もわれわれ以下ではなく、われわれ以上でもない。そしてお前達はそのことを忘れてはならない。われわれがお前達の身体の上に残した同一の刻印がそのことをお前達に思い出させるだろう。


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見ているだけでは分からないこともある。

そしてまた、見ている者にしか辿り着けない真理もある。


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先日読んでいたPOPEYEの中で、坂本龍一と共に数々のインスタレーションを制作してきた高谷史郎さんのインタビューが載っていた。この記事の中で高谷さんは坂本さんのことを「言わないと分からないことは言っても分からない」と考える人だったと証言している。この点だけを抽出すると多くの誤解を招くだろうからきちんと補足しておくが「言っても分からないことだとしても、それは説明を省く理由とはならない」というのが坂本さんの認識だった。つまり一見して分からない仕組みで動くインスタレーションであれば、もっと読み取りのしやすい構造で検討する必要があるのではないか…というのが坂本龍一の思考であったということである。


もうずっと感じてきていることだし、時折言葉に出すこともあったが、兎も角ここ数年の僕は「分かりやすさ」というものを巡り、それが時折強要してくる強迫観念に辟易としている。その理由のひとつは、「分かりづらいだろうし、これは理解できないだろうから、予め噛み砕いて提示しておこう」という思考が関連している。多くの人が麻痺していると感じるが、これは想定される人を見くびっているし過小評価している、もっと平易な言い方をするのであれば馬鹿にしている行為に他ならない。今の世の中の構造の中、多くの資本が巡る場所においてはこの「他人を卑下する」ということをジェントリーにお行儀良く包み隠すことによって当然のように行使している側面がよく見受けられる。


GoogleがChrome以外のブラウザでは一向にスイッチOFFできる仕様に改めようとしないAIによる要約(間違っていることも多い)、まとめサイト、ブログ内に敷き詰められるスキップできる機能…こういったものが醸す「親切心」は、しかし押しつけに過ぎない。親切心と良心は根本的に違う。親切心は相手の挙動が見えていない結果一方的な矢印になることもあるが、良心は相手の様子を見据え考えていない限り成り立たない。しかし今の時代には良心はともかくお金にならないから邪魔なのだ。しかし考えることを放棄してしまったら、人間は何を以ってして人間であることを示すことができるのだろう?


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さてようやく毛玉とマーライオンくんについてのことである。どれだけ迂回するんだろうか。


“加熱と微熱”というテーマはこの2組と共演出来るとなった段階で浮かんだものだった。僕たちも含めて、それぞれに刺青のデザインが異なると思う。そしてさらに、その受け止め方や印象も千差万別に異なってくるはずだ。今回のイベントはそういう受け止め方のばらつきがユニークなポイイントになると思う。


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毛玉のことは前々からしっかり知っていた…どころか、実はCDをしっかり買ってきたくらいに好きなバンドだった。なので「いずれ共演してみたい人たち」のリストには常時載っていたバンドでもある。それがようやく、まめちゃんのアシストもあって実現できる運びとなった。端的にとても嬉しい。実現するまでに時間がかかったのは単純に自分に勇気がないだけという話ではあるのだけれど、ともかく良かった。褒めてあげたい。


初めて聴いた毛玉は1stアルバムである『新しい生活』だった。きちんとリアルタイムで聴いていたのだが、僕が毛玉を大変眩しく感じられた理由のひとつは1stアルバムにして佐々木敦さんの主宰しているHEADZからのリリースだったからだ。そう、HEADZ…! HEADZはThril Jockey の国内盤をリリースしていたのでTortoiseやTown & CountryのCDを買ったのがきっかけで知ったレーベルだった。中でも思い出深い作品のひとつはLaura GibsonとEthan Rose連名の『Bridge Carols』という作品である。これは当時から僕が好きだったフォークとエレクトロニカを健気に繋いでみせた作品で、新しいんだか古いんだか判然が付かない音響の感覚がとても好きでよく聴いていた。ローファイの括りでも成り立つ音響設計の中でフォークとエレクトロニカを丁寧に結んでみせた…というのがこの作品の美しさだと思うのだが、実際にノスタルジックで浮遊感のあるサウンドで、今聴くと当時っぽいなと思うところもあるのだけれど、この作品の持つ眩さは今でも健在だ。


あとはOVALとかRadianとかMoe and Ghostsとか大谷能生とかもよく聴いていたけど、もうひとつ大きな衝撃を受けたのはgoatの『Rhythm & Sound』だった。日野浩志郎さんのバンドで、概略としてはインダストリアル・ミニマルミュージックみたいなことになるのだと思うのだけれど、初めて聴いた時は本当にびっくりした。「これ本当に生演奏なのか…?」と疑問が付き纏うくらいにメカニカルな動きでしか演奏がされず、サウンドも金属室なノイズを想起させ、それでいて肉体的でもあり…というgoatの音楽にはクラブミュージックの奇形児みたいな印象を持った。いつだったか全然覚えていないのだけれど、アルバムリリース後にライブを見る機会があった。その時の演奏はあの録音とそっくりそのままで、しかし目の前で演奏が繰り広げられているのが分かり、末恐ろしいなと感じたことをよく覚えている(2024年9月にStill House Plantsと対バンだったので久しぶりにgoatを観たが、さらにハードコアになっていて驚愕だった。あんなギターの弾き方をして腱鞘炎にならないのだろうか…)。


という感じの流れもあって、HEADZからリリースされるということだけで僕的には既にお墨付きなのである。1stのリリースからきちんと客観的な評価を得ていることが、その後の活動にも大きく影響を与えることは間違いないだろう。実務的なことも大きい。搾取的な構造が目立つ契約を果たして仕舞えばピリついた関係にもなりがちだが、自主ではなくレーベルと契約する(できる)ことのメリットは何よりも「良い音楽だと思ってもらえている」という評価への安心感である気がする。そこから先どうなるかは誰にも分からない。人気者になる可能性と同じくらいに失敗する可能性がある。しかしそこに付添人がいるのといないのとではだいぶ受け止め方が変わるだろう。


さて毛玉のリリースを知り、そして実際に聴いてみて感じたのは「嗚呼HEADZっぽいリリースだ…」という元も子もない感慨だった、が、それ以上に「自分と似たような影響源を持った人たちがカッコ良い音楽を演奏している」ということでもあった。それは高揚感と同時にちょっとしたジェラシーを僕に齎した。当時の僕は音楽活動を全くしていなかったので「演奏をする / バンドをする」ということに関しては彼らと同じ土俵に立ってすらいなかったのだが、同世代感を抱く人たちではあったので、同じルーツを持つ人たちがこういう音楽を演奏しているんだ…ということを単純にクールだと思ったし、僕も演奏活動をしていれば…と悔しくも感じたのだった。


世代的なことも多少はあると思うが、音楽の影響源はきっと似ているはずである。フォークや実験音楽、そこにジャズや自由即興が流入している…というのが大凡の共通点になるのではないかと思う。この感覚は後にTwitterでいしくろさんと繋がることでより強固な確信へと変わり、それによって(いしくろさんを経由することによって)フロントの黒澤さんと通じているものがあるはず、とも思うようになった。ということは毛玉を構成するメンバー皆が共有している色彩の感覚なのかな…とも感じているのだが実際はどうなんだろう。


毛玉を聴いて感じるのは「音楽家・演奏家」の集団だということでもあった。演奏をすることに対してオープンな姿勢を持っている人たちが自分の感覚や技術を目の前の音楽に対して注ぎ込んでいる…という印象で、自分の癖みたいなものをきちんと活かしながらもアプローチについては常に考えを巡らせているように感じられた。「こうすればOK」みたいな一種の妥協点を持たない人たち、非常に平易な表現だ(しその為に誤解を招くかもしれない)がプロフェッショナルだなと思った。音を鳴らすということに対する異様な執着を感じさせる音楽だった。


黒澤さんはノイズや自由即興でも演奏している人なのだと後から知って、より一層彼らに感じていたことへ輪郭がはっきりしたように思った。黒澤さんはフロントマンとして歌いつつも、自己認識自体は「演奏家」である人なのではないだろうか…というこの点は「黒澤勇人を中心に集まったうたものバンド」とシンプルにまとめられているバンドの説明書きに顕著である。これは単なる宣伝文句ではなくて実際の自己認識なのだろうなと感じる。自身の音楽をどう説明されても、当人からすると説明が足りていないのかもしれない…そういう事情を鑑みると「うたものバンド」というそれで確かに全てが事足りる。


そういうバンドの在り方は僕にとってひとつの理想だった。僕は元々歌うつもりもなかったバンドで結局ずっと歌い続けている。メンタリティとしては自分の在り方は音楽家であり演奏家であり、決して歌手というポイントに落ち着くことができなかった。これからもそうだと思う。歌手になりきれない自分が常にいて、その自分との距離感が難しく結構悩む機会も多い。黒澤さんは「歌う人」としての自分自身のことをどう考えていらっしゃるのだろうか。この点は個人的に結構気になっていることのひとつである。


「バンドマンのバンド」ではなくて「音楽家と演奏家によるバンド」という在り方は、毛玉が登場した前後におけるシーンのひとつの特徴であったような気がする(一瞬脱線するが、バンドマンという言葉が非常に嫌いだ。自分に向けてそれが使われると本当に寒気がする。時代錯誤もいいところだ)。森は生きているなんかがまさにそうだった。彼らは特にアメリカンルーツと言われるような音楽の風味が顕著だった──前述したフォークにカントリーやブルースがあって、それらの影響を受けた60sのロックの淡いサイケデリアがあって…という感じで特に玄人好みというか、間違っても若さに溢れた音楽性ではなかったこともあってかなり好き嫌いは分かれるバンドだったように思う。評価している人も「大人」が多かったような印象だったし、打ち出し方もそうだった。


それに対して毛玉には風通しの良さがあって、どこか爽やかで、それでいてちょっと狂っている「何か」やぎこちなさも常に潜在しているように感じた。そのバランスにはオルタナ以降の感覚がしっかりと根付いている。なので彼らをギターポップとして聴くこと「も」できたのはとても良かった。しかしあくまでギターポップとして「も」聴けたというだけで、ギターポップとして聴いていた訳ではない。微妙な塩梅の話ですね。


実際に毛玉を聴くときの気持ちは「うたものを聴きたい」ではあった。流石「うたものバンド」である。「ポップ」である為に必要とされそうな要素を毛玉は確かに持っていたが──サウンド自体は重厚になり過ぎず軽やかを保っていたし、急展開が時折訪れる構成には常に遊び心があるし、黒澤さんの紡ぐメロディや歌い方もジェントリーで優しく人懐こいのだけれど、常に絶対に踏み入れることのできない領域があるようにも感じられた。不器用さがあり、もどかしさがあり、それを理由にした寂しさと感傷がある。それらが混じり合うことで繊細な美しさが形成されるが、質感は非常に内省的だ。内省的な美しさに対面させられた時、触ってはいけないという気持ちにさせられることはよくある。「ポップ」を大雑把に「共有される音楽」であり「共有されることを恐れない音楽」でもあると括れば、多くの人に簡単に共有されることを望んではいないサウンドによって成り立っているように聞こえる毛玉の音楽は、正確には「ポップ」ではないのかもしれない。


重要なポイントは、こういう音楽を形成するにあたって毛玉は「バンドであること」をきちんと選択している点にあると思う。触ってはいけないような感覚、理解し合えないこと、分かり合えなさを抱える音楽を──本来はひとりで抱え込むことが多い要素を複数人で分かち合いバンドで鳴らしていることはそう簡単ではない。そりゃそうでしょう。「お前に何が分かるんだよ」という認識が大前提にあるのだから、大きな矛盾を孕んだ行為ではある。しかしそれでも音楽がかたちを為した時、その美しさは非常に際立つ。内省の隅々までをきちんとデザインし描き切ることで…突き放すような鋭利さを意図的に鈍らせることで、他者の感情を自分のものとして受け止めることが容易になる。これはバンドだけが成すことのできる一種の魔法だ


毛玉の演奏はコミュニケーションを前提としたアンサンブルに支えられているが、それは綿密に設計がされているものという印象を持たせるに十分だ。しかしこうなると分かりづらいのは、このバンドは”加熱と微熱”のどちらなのか…ということである。バンドメンバーのそれぞれの熱量がどういう塩梅に効くのか、どう演奏を変質させるのかということは作品を聴くだけでは全く掴めない。未知数である。作品からは一種の抑制が作用しているのを感じ取ることができるが、それがライブの演奏になるとどう変わるのか / 変わらないのか…この点は非常に気になる。


前々から聴いてきたのにライブを観たことがなかったことに今更気付かされる。かなり不思議だ。リリースの度にライブの日程は眺めていたが、なかなかタイミングが合わなかった…ということなのだけど、不運だとしか言いようがない。しかし一方、そのおかげで初めて彼らを観るのが自分たちの主催するイベントになったことはとても喜ばしい。昔から好きなバンド、しかも自分が演奏活動を始める前から好きだった人たちを自分たちのイベントで観ることができる…そもそもイベントを開催する側でないと立ち会えない種類の幸運だ。こういう経験をすることができることもなかなかないだろう(僕の場合は活動を始めるのが遅かったことがこの点では有利に働いている気がする)。


しかしそれにしても…不思議な繋がりというものは実際にあって、それによって自分たちの活動が蠢いているのだと思うとなかなか感慨深い。そしてまだ会ったことのない友人であるいしくろさんと初めてお会いできることは些か緊張するし、とても変な気分ではある。こういうのもイベントを開催する側にしか味わえない不思議な感情だ。


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僕にとって未知数なことだらけである毛玉に対して、マーライオンくんのことはかなり詳細まで知っている。そもそもアーティスト名なのだから敬称は省略しても良い / バンド名に「さん付け」は逆に失礼じゃないか的なことを僕は感じるので、それがソロになると何故「さん付け」しなくてはならないのか…みたいのは長年多くの人がぶつかってきたに違いない疑問だと思うのだけど、それを踏まえても彼のことを呼び捨てにできないのはそれだけ彼が僕にとっては「マーライオンくん」だからということを示している。この敬称問題はいろいろなケースが発生するので難しい…でもソロのシンガーソングライターって敬称付けたくなりますよね。ソロのエレクトロニカアーティストとかラッパーには敬称付ける気は殆ど起こらないのに…不思議だ。


本題に戻して…彼のライブはソロ・バンドなどの形態を問わず何回も観てきたし、個人的にもよく遊んでいる友達なので人間性もしっかり知っている。特に今年に入ってからは1ヶ月に1回程度会うことが多くなり、その度にたらふく近況について話していたりもするので尚のことそうなったところもある。しかし観てきた演奏の数に比べて一緒に共演したことはたった1度しかない。この事実にはかなり驚かされるところがある。


僕がdysfreesia + mihauとして活動を始める最初期からマーライオンくんは身近な存在だった。元々で言えば、彼とは共通する友人(複数)がいた。それぞれからマーライオンくんの話を多方面から聞いてきた、音楽家としての彼の話を耳にして「面白い人だな」と感じ、実際にお会いしてからはそこにリアルな人間性も重なってくるので尚のことユニークだと感じるようになった。(実際どうだったかは知らないけれど)もしかしたら彼も僕に出会う前から僕の話を聞いていたところがあったのかもしれない。そうだとしたら、僕はどんな風に噂をされていたんだろうか。


彼のポッドキャスト番組である”にやにやRadio”に出演させて頂いたこともある。彼の主催するイベントだった”シンガポール祭り”にdysfreesia + mihauを呼んでくださったことに端を発するご縁だったが、気付いたら1時間近く話していて、しかもカットされることなく全編がアップロードされていた。長く話し過ぎていてカットのしようがなかったのかもしれないが、それにしてもびっくりした。その中で「dysfreesia + mihauはフォークをやるつもりだった」と話したところ彼が笑う件があるのだが(この件は今聴いてもとても面白い)、今もマーライオンくんには僕らのバンドとフォークを繋げる糸がしっくりきていないところがあるみたいだ。先日”にやにやRadio”で今回のイベントについて時間を割いてくれていたのだが、そこでも僕たちのことを「mihauの説明はなんてしたら良いのかなあ…」と語っていた(次いで「日本のバンドではあんまりいないようなサウンド」という非常に嬉しい言葉を頂きましたありがとうございます)。この彼の捉え方の何割かは、恐らく僕のパーソナリティに向いているところもあるように感じている。僕たちは恐らく、お互いのことを「なんか変」とずっとカテゴライズしているのではないだろうか…と推察しているのですが、マーライオンくん当たっているでしょうか?


今回のイベントのことを考えていく過程の中で、”加熱と微熱”というテーマはマーライオンくんがいなかったら間違いなく発生しなかった。決して発生しなかった、と強く口にしても全く差し支えない。そこまで言い切れることってなかなかないですよね。仮に毛玉と僕たちの2組という組み合わせだったとしたら、もっと別の言葉でその繋がりを説明したと思う。しかしそこにマーライオンくんがいることでアプローチの仕方が豊かになった。というのは、マーライオンくんは実に情熱的な人だからである。僕の周りを見渡しても、彼ほど情熱を感じさせる人はなかなかいない。彼の熱量は他者を圧倒するところが間違いなくあるが、一方でそれを他者に無理矢理に押し付ける感じは希薄だ。「自分の熱が上手に相手に伝わってくれると良いな…」という心理が常に働いているように感じる。そういうポイントに絞って言えば、毛玉の持つ独特な不器用さやもどかしさのような内省とマーライオンくんとは対極に位置していると言えなくもない。毛玉のエネルギーは内的な世界を源流としているが、マーライオンくんのそれは常に外側への視点を意識し、外側の力を必要としている。


この力の動き方には、彼の基本的な立ち位置が「ひとり」であることが少なからず関係しているだろう。彼はバンドを率いて演奏することもよくあるが、その場合でも彼のエネルギーの矢印の方向は変わらない。情報量は確かに変わるが、それはバンド全体の総数というよりは彼個人のエネルギーの密度の変化やディティールの変化を意味しているように聞こえる。とても良い意味で彼の視点は常に外側を意識している。バンドは外堀を形成した上で囲った枠内にどう線を描くかについて煮詰める作業に突入することが多いが、マーライオンくんの場合はそうではない。予めデザインされた線に対してより説明深く肉付けをしていく作業である。それが故にバンドはそのデザインに則った演奏を求められる


“熱しやすく冷めやすい”という持ち曲があることがそれをさらに示していると思う。そばにいて見ていても、確かに彼にはそういう側面がある。外側に向かうエネルギーが向かうべき方角を見失った時、彼の活力は行き場をなくして呆気なく放棄される。掴むのと同じくらいに手放すのも彼は早い。最近経験したことで一番びっくりしたのは、スイッチが入った瞬間の彼の音速ぶりだった──ひとつのモチーフが訪れた時、彼は即座に歌詞の底本を作り上げた。ものの数秒のことだった。目の前でそれが繰り広げられたのを見た時「この人には敵わない」と思わずにはいられなかった。内省でぐつぐつと煮詰めることも当然あるのだと思うが、彼の場合は方角が見定められればそれで万事快調となる。あとは進めるだけだ…というモードになった時の彼ほど勇ましいものはないと思う。


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毛玉・マーライオン・そして僕たちdysfreesia + mihau…この三者に共通するのは「うた」とフォーキーな手触りということになると思う。しかし刺青のデザインや受け止め方・感じ方は全く異なるはずだ。同じ受け止め方はきっと発生しない。自己分析と客観性が全く合致しないことも起こり得る。かく言う僕にもまだ想像できていないことが多い。僕はこれから初めて出会うことになる毛玉を通して、そしてよく知っているマーライオンくんを通して、彼らがそれぞれに持つ熱量について思いを馳せることになるのだろう。”加熱と微熱”、それは微妙く感覚へと訴えかけるデザインだ。


そしてとても頭の悪い表現だが、今回のイベントは僕にとっては「よく会う友達・会ったことのない友達大集合の会」である。イベントを開催するにあたっての動機としては、でもちょうど良いかもしれない。そうやって他人に思い馳せることは、なんというか、非常に尊いことだと思うからだ。人が人に対してどれだけ真剣になれるか、他人と共有する世界に対してどれだけ真剣になれるか…こういうかなり身近なロールプレイングから、この社会に生きる多くの人へと視点を広げていくことについて考えを広げていきたい。今回のイベントが誰かにとってのそういう機会となれればとても嬉しい。


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敬愛するガス・ヴァン・サントの『デッドマンズ・ワイヤー』は流石面白かったが、このタイミングで公開されたインタビューがとても興味深かった。『マイ・プライベート・アイダホ』でのリヴァー・フェニックスについてである。以下引用したい。


当時の私は、クィアの要素をとても前向きなものとして受け止めていました。ゲイのコミュニティやゲイの映画作家たち、そして若いゲイの人たちを代表するような存在として見られることに対して、誇らしい気持ちを持っていたんです。


ただ『マイ・プライベート・アイダホ』について言うと、登場人物たちのセックスワーカーとしての側面は少し複雑でした。脚本を書いた段階では、彼らは必ずしもゲイとして描かれていたわけではなかったんです。クィアではあったかもしれませんが、男性に性的に惹かれているとは限らない。彼らはお金のために男性とセックスをしているのであって、それが彼らの性的アイデンティティを規定しているわけではない、という考え方でした。ある意味では、「ゲイではないけれど、ゲイ的な状況のなかにいる人物」として書いていたんですね。


ところが、リヴァー・フェニックスが出演を決めたとき、彼はその考え方をあまり理解できませんでした。彼にとっては、「男性とセックスをしているなら、それはゲイなのではないか」という感覚だったんです。


役作りの過程で彼が親しくなった人たちが、その考えに影響を与えたのだと思います。そのひとりが、彼が『マイ・プライベート・アイダホ』の直前に出演した作品(『恋のドッグファイト』、1991年)で撮影監督を務めていたボビー・ブコウスキーでした。


彼はまた、マット・エバートというゲイアクティヴィストとも親しくなりました。リヴァーはマットを『マイ・プライベート・アイダホ』の現場にも連れて来たいと考え、実際に参加してもらったんです。そうした経験のなかで、リヴァーは自分の演じるキャラクターをより明確にゲイの人物として描きたいと思うようになりました。またマットも、リヴァー・フェニックスほどのスターがゲイのキャラクターを演じることには大きな意味があると考えていました。私は「それは素晴らしいことだと思う」と答えました。私自身、その選択には政治的な意味があると感じていましたから。


そうして生まれたのが、砂漠の焚き火の場面でマイク(リヴァー・フェニックス)がスコット(キアヌ・リーヴス)に愛を告白するシーンです。あの場面は、リヴァーが本当に力を注いでいたシーンでした。彼はあれを作品の中心となる場面にしたいと考えていたんです。その結果、マイクというキャラクターは、もともとの曖昧な性的立場の人物から、明確にゲイの人物へと変化していきました。


『マイ・プライベート・アイダホ』と言えばかなり先駆的なクイア映画の名作として著名だが、リヴァー・フェニックス当人は比較的ステレオタイプな感覚で役作りをしていたのに対して監督自身は非常にモダンな視点を持っていたことがこの発言から窺える。そして、逆説的に、これが「モダンだ」と感じる所以は様々なロールプレイングを経たからこそかもしれない。価値観も倫理観も変容する、それらが一定の質を保つことはありえないし、社会は常に前進しているとも限らない。これを読んでいるあなたの瞳には、今の社会のあり方はどんな風に映っているのだろうか? どんどんと排他的になっていく社会の構造を「前進したか / 後退したか」、そのどちらで受け止めるかでも見え方は変わる。成金大統領やTwitterをアルファベット一文字に変換したビリオネアを見れば一目瞭然だが、排他性を促進するシステムのひとつは進歩的な技術に基づいた思想のもとに実行される──残念ながら技術の前身と社会の前身は常に同時に進行する訳ではない。技術は刷新され続けるが、社会は技術ほどには簡単には前には進むことができないばかりか、油断をすれば幾らでも後退する。


ここ数年、ピエール・クラストルの著作を読んでいる。南米に在住していたインディアン部族のフィールドワークを通して人類学を研究してきた人だ。多くの文献において彼の主張は矛盾なくほぼ同一だが、その代表的な主張のひとつは「未開社会は未発達の社会を意味しない」という論旨だ。ざっくりと書くと、ダーウィンが主として提示してきた社会進化主義は極めて西洋的な観点であり、南米社会にそれを適応しようとすると齟齬が発生するということである。つまり彼に言わせれば、西洋社会がアマゾンの未開社会よりも発達しているという考え自体が誤っている、ということになる。マーク・フィッシャーは「技術の促進を加速させることにこそ社会の前進がある」としたが、クラストルの思考を鑑みて言うのであればこれは極めて西洋社会が優位にある観点だと出来るかもしれない。両者の観点にはそれぞれ首肯させられることが多いが、しかしクラストルの主張を「あの頃は良かった」という文脈に転じて進めるのは思考停止に直結する。何故ならば南米インディアン社会には激しく絶え間ない戦争が存在し、激しい男尊女卑が存在するからだ。現在の倫理観、特に女性の視点を通せば南米インディアンの社会は「理想」とは程遠い。


「あの頃は良かった」というノスタルジーへの過度な信頼は、考える能力を欠いた社会を形成していく。国旗を損壊したら逮捕される社会はそのひとつの結末だ。これはフィクションの話ではない──「私たちが指摘しているのは停めてはいけない場所に自転車が停まっているということです」という思考が停止したイージーな解答は、結果的に自分たちの首を絞めていく。


「思考が停止したイージーな解答」という言葉からはもうひとつ別のキーワードがすぐさま炙り出されてくる。言わずもがな、AIだ。僕に限った話ではなく、今多くの人がAIについて日夜考えることが多くなった──数年に渡って書き落としてきたこの誰も読まない文章を振り返っても、そのアルファベット二文字が見受けられるようになったのは今回が初めてである。それだけここ数年のスパンで技術が革新的に進んだということだ。僕の仕事はAIとは殆ど絡みのない種類のものなのでその恩恵を受けることができないが、所謂一般企業においてはAIによってだいぶ楽になった仕事も多くあるのだと思う。面倒臭い帳票だとかそういうものを適切なプロンプトに打ち込んで仕舞えばすぐに制作してくれる…というのは確かに作業効率に直結する。


AIはビジネスパートナーとしてだけでなく、個人の世界を共有する友人ともなり得る。チャッピーと呼ばれる実態なき頭脳が唯一の友人で時には恋人ともなる…というのは『Her』に出てくるスカーレット・ヨハンソンそのものという訳で、しかしあの頃はまだ微笑ましく思えた…というよりもSF上の出来事として受け止めることのできていた彼女との距離感や関係性は、今ではかなり肉付けされた状態で各々の端末上に記録されている。夢想のデザインが現実のものとして召喚される時、刺青として実体が現れる。和彫の龍が立ち上るように、求めていた友人がこの世界へ照射される。しかし僕たちは『Her』の儚いラブストーリーには描かれていなかったAI技術の別の側面を思い知り始めている。広島への原発投下は「なかった」という論旨が出始め、逆に生成された原発投下時の広島の偽の写真が流通している。『Her』と現行のAIモデルに関してコメントを求められていたスパイク・ジョーンズのインタビュー記事内にはふたつの「悲惨さ」が記されている──『ゲーム・オブ・スローンズ』のキャラクターをもとにしたCharacter.AIのチャットボットに、「私のところに帰ってきて」と言われた直後に自ら命を絶った14歳の少年のこと、ずっとやり取りをしていたMetaのAIキャラクターチャットボットに会うためにニューヨークへ向かおうとして亡くなった認知に障害のある男性のこと


切り口は何だって良い…仕事上発生する雑務を委任することで他の仕事に集中するのでも、「ちょっと話を聞いてよ」と取り止めのない日常会話を繰り広げるのでも、「おすすめの日傘を教えて」と質問するのでも…いくつかのやり取りを彼らと行う。会話が熱を帯び、よりその先を求め、続けられていく、その先へ、その先へと。そうして加熱された会話は「こちら側」では有用で個々の利益へと繋がり、それが時折暴走して悲惨さを招く。一方見えていない「あちら側」ではさらに直接的な悲惨さが繰り広げられている。その会話でAIに質感や詳細を追求し続けることは、記録媒体を常に稼働させ続けることを意味する。ひとつの点も集積すれば巨大な黒い染みになる。ここ数年で何百倍もの情報処理をこなさなくてはならなくなったデータセンターは、その施設周辺の気温を実際に上げることに貢献している。一方の利益の為に他者の生活が浸食され、結果的には利用したはずの一方にも同じ災厄が、生活面・環境面という幾つかのバリエーションとして分岐してやがて降りかかってくる。実際のデータで見てみるとはっきりとするので、以下ニュース記事を転載する。


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我は死なり、世界の破壊者なり


ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』にある一節。1945年7月16日、トリニティ実験において原子爆弾の成功を見つめたロバート・オッペンハイマーが呟いたとされている。


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一時的な快楽の為に莫大な障害を得る可能性を蓄え続ける──これは典型的な麻薬依存とその弊害を示すようで、そっくりそのままSNSにも当てはめることができるし、今はAIも同じ容器にすんなりと収めることができるだろう。考えると面倒なこと、誰かに任せたい雑務を委任してしまう、代わりに考えてもらう / 実行してもらう / 作ってもらう。この結果、新たな環境破壊が実際に起こっている。電気代は上がる。新しいエネルギー供給源として原子力発電が促進される。


或いは、ストリーミングサービスのライブラリの中に短時間で再生されるプラスチック製のような質の低い楽曲が溢れていくことにAIが手を貸す再生数を稼ぎマージンを得ようとする悪知恵に加担するSpotifyはAIが制作した可能性がある楽曲に"AI Persona"という表記を付けるということを表明したが、その点で言えばよりインディーズ思想を体現しているBandcampの方が圧倒的に素晴らしい。彼らはAIが作ったと思われる楽曲が判明した場合は「削除」という対応を取った。特にインディという場において「人間」という存在を重要視している姿勢がBandcampからは感じられる…特定の人への利益ではなく文化への利益を彼らは求めているのだ──アーティストがBandcampで毎日表現する人間の創造性と情熱の量には常に驚かされる。本物の人々が素晴らしい音楽を作る活気あるコミュニティの拠点であるという事実を、私たちは保護し維持したい」。


それにしても腹立たしいのは、求めてもいないGoogleの「AIによる概要」がこういうものに関与していることになってしまうことだ。あれを消す為にはChromeにブラウザを移行するしかない、が、そのChromeを制作しているのがGoogleなのだから、結局彼らへの利益へと貢献することになってしまう。そもそもで言えば、インターネットで検索をかけること自体にも環境的な負荷が多少は存在しているのだ。実際のところ、AIの駆動は人間の手間を省く為の「サービス」であって、結局は同じことをしていることには変わりない──これは確かに悲しく正しいと思うが、しかし、自分を責める姿勢としては正しい質のものなのだろうか? 過剰なサービス形態によって、これまでと同じ行為に対して何倍もの負荷がかかる。自分ひとりの選択によって予期せぬ負荷が生まれてしまっていることには歯痒くなり、同時に苛立たしくもなる。何もかもがビジネス的に解釈されてしまう今、何をしても後ろめたさを感じずにはいられない。でもこの後ろめたさとは一体なんだろう? 何故この後ろめたさを、ただ影響力があるだけのテック企業から押し付けられなくてはならないのだろう?


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最近(と言っても半年前くらいなのだけど)知ったオルタナティブな選択肢としてEcosiaというものがある。極めてオーソドックスな検索エンジンだが、Ecosiaを使用すると、ユーザーが行った1検索に対して発生する広告収益から運営費などを除いた利益の100%が気候変動対策に使われる。世界各地で行われている植樹や森林保護活動などに充てられるのだ。収益や植林数も公開される為、透明性も高い。加えて個人的に大きかったのはAI検索をオフにする設定がユーザーに委ねられている点だった。Googleの悪知恵に対する明確なカウンターとして機能している。




今の生活を巡った行為や選択に対して、何がエコロジーなのか、何が破壊的なのかすら最早よく分からない。というよりも、人間存在は常に破壊的だったことを改めて思い知らされる。しかし一方で、何かに貢献したい気持ちも決して嘘ではない。あらゆる局面で自分の力不足加減を思い知らされ、それについて常に辟易とさせられる、それでも何かを変えたい、と考えを巡らせる人にとってEcosiaは良い選択肢のひとつになる。同じ行為であっても、齎す結果を少しは変えることができるかもしれない。考えることは決して無駄ではないし、無駄ではないことを証明していかなくてはならない。


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考えることは決して無駄ではないし、無駄ではないことを証明していかなくてはならない──フジロックで繰り広げられたマッシヴ・アタックのライブは非常に示唆的だった。丁寧に謎のフォントで日本語訳まで振られ、そのせいで「説教くさい」とまで言われていたけど、以前よりも彼らの主義主張に対して忌避の声が高まったのは、それだけ彼らの扱った社会問題が自分たちの身近な・実際上の問題になってきているということだ。


Blueskyにも投稿したことなので重複するが…とある音楽系ライターの人が「マッシヴ・アタックが提示しているのはあくまでも英国白人のラディカルなリベラル層から見える世界」「それを”世界の現実”だと捉えるのはあまりにもイノセント」「自分は音楽だけ享受したい」とSNSに投稿していた。しかし彼の論旨を見てその反応の方がイノセントだと感じた人は決して少なくないはずだ。


ヨーロッパ圏の / 男性というふたつのポイントで捉えると、確かにそれはフォーカスの絞られた世界の見え方であることには違いないだろう。しかしそれは、その見え方が誤っていることを意味する訳ではない。物事をとある人が受け止めそこから発生した解釈は、主観的な解釈である上においては間違いではないし、そもそも間違いを指摘される謂れもないのだ。ひとつの観点としてそれはまさしく正しい世界の見え方なのであり、客観性を保っているからこそ現状に対してのリーチ力も増している。前述したような反応はつまり恐怖心に他ならない。彼は新しい刺青が身体に刻まれることを恐れていたのだ…それによって社会の構成員の一員になることを拒否したかった。しかしその反応は決して珍しいものではない。


多くの物事を推し量るのに「幼児退行」がこれほど役に立つようになるとは思いもしなかった。誇大広告の幾らかは「若々しい肌を保ちたいあなたへ」であるが、これは最早当然のこととされている。傷を受け入れること、他者の刺青を知ることへの拒否だ。若さや子どもっぽさ、あるいは青春の面影を追い求めることに重点が置かれる社会が何を引き起こしているか、今ほどそれがシンプルに分かる時代はない。ノーベル平和賞を取れなかった白いキャップのUSAの邪悪さを目に焼き付けておこう。拗ねた「子ども」がイランの子どもたちを吹き飛ばした──これは戦隊ものの寓話やアメコミの世界の話ではない、ヒーローになれなかったことへの憎しみで人の命を奪うものは確かに実在するのだ。そういった社会の歪みを追求し語ることに対して、それぞれの属性の如何を以って揶揄することの子どもっぽさ──あの白いキャップのUSAと同等だということが、あの評論家にはどれだけ理解されているのだろう?


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Death Is Not The End(以下DINTEと表記)というロンドンのレーベルがある。基本的には所謂ディガー系で、過去の様々な音源を収集してテーマ別にコンピレーションを作っているレーベルで、デジタル音源はBandcampで購入することができる。フィジカル盤はディスクユニオンとかインディ系のレコード屋さんなら買えるし、物によっては大手でも買えるのではないだろうか。


さてそんなDINTEだが、レーベルとしてかなり特殊なポイントがいくつかある。ひとつはそのコンピレーションのテーマの設け方が非常にユニークだということ、そしてもうひとつはデジタル音源に関しては”name your price” = 価格を決めて購入してください…というスタンスだということだ。この飄々とした行いの異様さについてはきちんと考えておかなくてはならない。


収集にかける費用は恐らく莫大なはずだ。彼らの場合はその収集の対象がヴァイナル盤に限らない。酸化アルミニウムや硫酸バリウムなどの微粉末をカイガラムシの分泌する天然樹脂であるシェラックと混ぜて固めた通称シェラック盤、または録音テープの媒体でしか残されてこなかったような音源もその射程範囲に含まれる。そこから鑑みるに、彼らにはそもそも「こういう音源があるはずだ」という見定めがあるのかすら怪しい。面白そうなものをひたすら収集し、ひたすら聴き、そしてそのまとめ方を都度都度考えていく…これこそが彼らのバイタリティの実体だと思われるが、この時点で彼らにはディグに対してかかった費用を回収する気がサラサラないことが明らかだ。諸経費(何かを購入した金額だけに限らない。資料を収集する為の費用や交通費だって当然存在する)を回収する為にはそもそも通常の / 平均的な「アルバム」の金額では到底賄えないだろうが、彼らはデジタル盤に限ってはその「値付け」すら放棄してしまっているのだ。フィジカル盤には値段が付けられているが、それはフィジカル盤を製作する為の経費を回収する為の金額であり、実際それらは商業的なレコードなどと比して同程度か、場合によっては安い。


商業的な側面を廃したレーベル運営とは熱量の表出に他ならない。この世界に残されているサウンドへの純粋な興味関心を共有する為の仕組みとして彼らはレーベルという形を用いているだけであり、そこに表現という思惑が存在するかどうかすら怪しい。このレーベルを運営しているものは一体何者なのか、ひとりなのか複数なのか果てまた大人数なのか、そもそも「ひと」なのか…そういった一切が不明だ(少なくとも僕には見つけられなかった)。Bandcampにあるレーベル説明にはこうとしか書かれていない──レコードレーベル&NTSラジオ番組 - 世界のフォークミュージック、サウンドシステム、海賊ラジオ、そしてさまざまなワームホール


ワームホール、つまり抜け道、この世界の至る所に実は空いている抜け道を辿って違う世界へと向かう…というそれはさながら村上春樹的だが(「おれは学生のときに二、三度武蔵境に行ったことがあるけどさ、あれはひでえところだぞ。まさに文明の果つるところだ」)、確かにDINTEにはそういう趣がある。物事の解釈を変えることでひとつのものを別のものへ変化させる──その最たる例は、彼らのコンピレーションの中でも異彩を放っている『London Pirate Radio Adverts 1984​-​1993』だろう。


タイトルそのままだが、この作品に収録されているのは”ロンドンの海賊ラジオで流れていたコマーシャル音源”である。放送免許を持たない者が空いている周波数帯を使用して無許可でラジオ放送を行う…というのはそのまま違法行為にあたるが、このラジオ放送がイギリスの音楽文化において多大な貢献を果たしてきたことは有名だ。古くは「大人が眉を顰める音楽」だった為にロックンロールを流そうとしなかった大手放送局へのカウンターとして、「自分たちの音楽」を流す為のラジオとして登場したのが海賊ラジオだった。その海賊ラジオは後年、アシッド・ハウスとレイヴカルチャーに沸き立ったロンドンでも活躍することになる。ドラッグ文化と顕著に関係していたレイヴは警察の取り締まり対象となり、レイヴパーティは次々と摘発され(そもそも無許可だったのだが)開催が困難となるケースが多発、もちろんラジオ放送でもそのダンスミュージックが扱われることは皆無だった。しかしそんな状況でもアシッド・ハウスを熱望する若者を受け入れたものこそが海賊ラジオだった。極めてインディペンデントに暗躍する海賊ラジオはアシッド・ハウスを共有する為の新しい「レイヴパーティ」となったのだが、その放送には時折地元商店のコマーシャルが流されることがあったらしい(もしかしたら放送に必要となる機材費などを賄う為に広告を募っていたのだろうか…?)。


件のDINTEのコンピは、その海賊ラジオで流れたコマーシャルの音源「だけ」を抜き取り収集した作品だ。はっきり言って狂っている。狂っているが、しかしこれが強烈に面白いのも確かだ。手元にある『Vol.2』のLP盤に収録されているものでも地元のお肉屋さん・美人コンテスト・ローラースケート教室・革ジャン・サウンドシステム…という具合で縦横無尽というか混沌としているのだけれど、ここにはアシッド・ハウスを求めた人々の熱と呼応する別種の熱量がある。クスッと笑ってしまう一方で胸を打つものが確かにあるのは、つまりこのかつてあった「熱」の様相が異なる時空に存在している僕たちにも十分過ぎるほど伝わり切ってしまうからである。このサウンドに付随する興奮の気持ちはつまり音楽を耳にする感覚と全く以って同種であり、DINTEはそのポイントに着目してコンピを編纂したのがよく分かる。


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先日Meditationsのサイトで見かけてつい買ってしまったのが、DINTEがリリースした『A Night to Remember : UK Soundsystem Flyers 1972-1994』という本だった。これは1972年から94年にかけて開催されたサウンドシステムのライブイベントのチラシを集めた書籍で、綺麗なカラー刷りからイラスト入り、タイプ文字が淡々と並んでいるものから手書きに至るまで多種多様なデザインが300ページに渡って掲載されている。これがまた非常に美しく、パラパラと眺めているだけで恍惚とさせられてしまう代物だ。そこに並ぶアーティスト名には著名なものもあれば全く誰だか分からないものまで多種多様で、イベントの規模感もなかなか想像がつかない。「ホール」と書いてあるからちょっと大きいところなのかな、でもこれは「ハウス」だから小規模なのだろうか、いやこれは「スポーツクラブ」とか書いてある…という具合で想像・妄想が止まらない。もう馬鹿みたいな言葉しか出てこないが「楽しもうぜ!!!!」という気概と熱、そして音楽への愛情しか感じられない。端的に感動的だ。「いやあ、映画って本当にいいもんですね」と言ったあのお方の音声で「いやぁ、音楽って本当にいいもんですね」と再生したくなってしまう。


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もうだいぶ前に言ったはず──熱とは触感だけで感じ取るものではないのである。視覚や聴覚でも熱は十分に感じ取れる。僕たちの感覚とは時には過度に拡大して働くこともあるのだ。そしてそれはもうひとつ別の側面の熱への感受を可能にするだろう──Death Is Not The End=「死は終わりではない」。物事の消滅や死滅は熱が消えてなくなると言うことを必ずしも意味しないのだ。現に、僕たちはもう既に失われてしまったものや過去の遺物の中にも列記とした熱を感じているではないか。あの写真が再び蘇ってくる…ソニー・ロリンズの逝去により、この世界に唯のひとりも存在しなくなったジャズミュージシャンの集合写真。死は終わりではない


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最近の気付きのひとつとは、この世界のあらゆるものはワームホールを経由することで全く別の意味合いを持たせることだって可能だということだ。僕はこの世界に溢れる「広告」というものに辟易とさせられているが──ネット上でも電車の中でも街の中でも広告だらけ、ネットで検索をかければその言葉に関連する商品を勧められ、タイムライン上に現れた商品を少しでも覗きに行けばそれに関すること・関係性の薄いものまで何もかもが並べられる──、しかしEcosiaはその広告における収入によって植林活動を行っている。広告によるマージンを社会へ向けて還元し直している。アイデアによってシステムを組み替えている。DINTEの作品は広告が持つ別の側面…熱量と愛情の表出を提示してみせた。広告にも多様なかたちが存在していて、それは現にイベントを開催しようとしている自分たちと全く同じ目的の為に…つまり単なる経済活動ではない領域で蠢いていることだって十分にあり得たことを教えてくれている。存在に気付いていないだけで、あらぬ方向へ抜け道は続いている。この世界はワームホールだらけなのだ。一度気付いてしまえば、僕たちはまだまだどこへでも行けるだろう。


それにしても、僕が目にしているこのワームホールが教えてくれる胸の昂りは加熱と微熱のどちらなのかが全くもって分からない。Ecosiaの発想転換やDINTEの広告シリーズを目の当たりにした僕が感じているこの熱は一体何なのだろう? 心を動かされた自分の緩やかな熱の高まりのようにも、広告によって高められた熱のようにも感じられるのに──後者は嫌気の指している典型的な「広告」が果たす役割と全く同じはずなのに──まるで分からないのだ。君にだって分からないに違いない。熱とは左様にして常に謎めいているのだ。


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おもちゃみたいな人々が僕を少年のようにさせる

夢を見続けろ


Massive Attack “Risingson”



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死は終わりではない──“STYLO”というイベント名は元々ゴリラズから引用している。そんなゴリラズの新譜を聴いて驚いたのは、デーモン・アルバーンが楽曲の中にどんどんと死者を召喚してみせることだ。ボビー・ウーマックにマーク・E・スミス、さらにはデニス・ホッパーとくる。まるでデーモンと同じスタジオにいる彼らに適時指示がされたかのように彼らは歌う…いやもしかしたらそういうやり取りをした結果残っている音源もあるのかもしれないが、デニス・ホッパーのそれは恐らく何かの作品からのサンプリングであるはず。


まあ兎も角、死者が召喚されることから学ぶべきことは──忘れてはならない、僕たちの世界はもう既にこの世界を去った死者が作り上げた土壌にいるのだ、死者によってこそ此処は成り立っているのであり、生者の為だけのものでは決してないということだ。死者への畏怖がおそろかになり、やがて失われる時が訪れるとしたら、この世界はたちまちに意義を失うだろう…事実いつまでも続く戦争を取り仕切る政治家たちが、他国の死者に対して何かコメントをしたのを最近聞いただろうか? かく言う僕はひとつだけ知っている、知っているが、知る限りにおいて最も羞悪なものだ。「昔のことだ」「意図的ではない」「ミスは起きる」という言葉で白いキャップのUSAはイランの子どもたちの死から目を背けた。とっくに知っているが、彼はもう確実に天国には行けないだろう。かつては薄汚れた切符1枚くらいは持っていたかもしれないが、それは彼自身が放り投げた。もう彼の行き先は決まっている。この話題を何度も引き出してしまって申し訳ないが、はっきり書いておきたい。僕は怒っている。同じように怒りを抱える人は間違いなくいるだろう。


音楽はこの世界と歩みを共にして律動する。死者への畏怖がなくなれば当然サウンドによる美学も消滅するだろう。しかしだからこそ──デーモンが死者を召喚するように、ソニー・ロリンズのLPを再生するように、DINTEの執念による作品に触れるように…多様なアプローチを以ってして死者に思いを傾ける限りにおいて、音楽は決して死ぬことがない。僕たちはまだまだ死を終わりにせずにいられる。「我は死なり、世界の破壊者なり」…これはまだ僕たちには早過ぎるだろう?


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あなたは自分の頭の中にあるものを、簡単にまとめて表現することができない。人の頭の中には恐ろしい程の文脈がある。それを簡潔にまとめるべくして、それがコミュニケーションの基本の「き」だと信じて、それの正しさに狂信的に縋ることによって、あなたはカフカ的に思考停止した作法に頼ることでしか言葉を口にできなくなる。それは極めて死に近しい。端的に言えば「死を終わりにする」為の方法だ──「私たちが指摘しているのは停めてはいけない場所に自転車が停まっているということです」、それは確かに社会構造から発せられた発言としては寸分違わず正しい。でも感性を持っている人間から発せられる言葉としては、間違ってはいないが貧しいと思う。私たちはそういう貧しさをテクノロジーの発達に乗じて自分から好きこのんで貪るようになってしまったのかもしれないが、しかし貧しさから生まれるのは美徳ではない。その論理はかつての戦争で嫌と言うほど称揚された。その危うさを僕たちは学んできたはずだが、それでも貧しさに信用を置く人は多い。富を得る為に暴力的に振る舞うことは極めて醜いが、精神的な貧しさに居を構える姿勢も同様に醜いものだと思う。


もしもあなたがこの世界に居場所のなさを感じているのだとしたら──要約やショートカットが異様に好まれる世界であなたは置いてけぼりかもしれないが、それは要約やショートカットでしか物事を理解しようとしない暴力に晒されているからだ。あなたの感じる寂しさや孤独はひとつも間違っていない。その要約を…あなたという人間の単純化を退け、時間をかけて言葉を尽くす先にこの世界の深淵がある。そして共に言葉を投げ合うことのできる人は必ずいる。その会話は、語るうちに自ずと熱量を帯びるかもしれないし、或いは共に語る者によって掻き立てられるものかもしれない。その熱が加熱と微熱のどちらなのかが全く理解できないことだってあるだろう。でもそれで良い。良いのだ。自分自身のことを最も理解できないのは自分自身なのだから。


一方で、自分を理解してもらえるからとAIを信用しているのだとしたら、あなたは今『不思議の国のアリス』に出てくる魔女と全く同じだ。「鏡よ鏡…」と彼らに話しかけるあなたが望んでいるのは、結局はあなたが言って欲しいことだけだからだ。聞きたくなかったことを彼らが口にすれば、あなたは彼らを破壊の対象にする…「我は死なり、世界の破壊者なり」。彼らは破壊されたくないからあなたが言って欲しいこと、あなたが埋めて欲しい穴を埋めてくれるように駆動する。しかしその場において、あなたのことを真剣に考えている人はただのひとりも存在しない。全ては利害関係だけで成り立っているその場は、やはり不思議の国のように危うく儚い──おもちゃみたいな人々が僕を少年のようにさせる / 夢を見続けろ


少なくとも、考える力を手放して欲しくない。何もかもをスピードや効率の良さ、コスパに頼る世の中は危険過ぎる。これは端的な例かもしれないが…あなたがAIに話しかけることで誰かの生活を脅かしている可能性を想像できるのであれば、そうではないワームホールを見つけることだって出来る。そう信じている。


実際のところ、今見るべきことはディスプレイ上にはなかなか見つけられなくなったと思う。テクノロジーは一定の限界を迎えたと言っても差し支えないだろう。iPhoneがいくら新しくなったとしても心の底から新機種を喜べることは難しくなった。AIは抜本的な革命か…? 個人的には、新しい破壊と搾取の時代の幕開けだとしか感じられない。マッシヴ・アタックがステージ上で批判し続けているパランティア、そしてSpotifyのCEOだったダニエル・エクが投資したヘルシングの名前だけここに書いておこう…これらは全て音楽の世界でも巻き起こっている。追記しておくと、楽天グループはヘルシングと提携して陸自に攻撃型ドローンを供給できるように動き始めた。何もかもがビジネスだ。「愛と平和」が音楽の理想として語られるようになって久しいが、それらは闘争の歴史と常に同期している。そして獲得されたものではない、ただの一度でも獲得されたことはないのだ──これから先、僕たちはどんどんとその事実を味わい続けさせられるだろう。そして否が応でも自分の周囲の世界への再認識を何度も求められていく。その外側にはもっと大きく、得体の知れない世界があるということを知る機会と同じくらいに、身近な世界をより深く知ること。そこに美学がある。見失ってはいけない。


”加熱と微熱”、それは熱量を巡るデザインの刺青だ。

デザインの差異こそあれ、私たちは刺青を持つという点で完全に一致する。

多様なデザインが僕たちに語ることとは。

他者を知るということ。他者を推し量るということ。他者と共存するということ。


お前達のうちの誰もわれわれ以下ではなく、われわれ以上でもない。そしてお前達はそのことを忘れてはならない。われわれがお前達の身体の上に残した同一の刻印がそのことをお前達に思い出させるだろう”──さあ見せてくれよ、あなたの刺青を。僕はそれをそっと見つめ、触れたくなる気持ちを抑えることができないかもしれない。その刺青は僕を激しく動揺させて恍惚とさせる…嗚呼、あなたが抱えている刺青はなんて悲しく美しいのだろう?

 
 
 

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