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>>> some words? = thinking (or sinking)

図形の歪 / つぼみの視座 / ザ・ビーチ・ボーイズ

この文章はmihauが運営しているintonarumori (playing)への投稿と同じものです。

mihauのメンバーにより、毎週しりとりをしながら文章を綴り繋げています。

よろしければそちらもお楽しみください。


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intonarumori (playing)を始める際にわざわざ「mihauのメンバーにより運営されていきます」と自分で書いておいて、それをこのタイミングで破るのもどうかなあと思いつつ…ただこういうのは思いついたらやってしまうのに限ると感じたので、今これをぼそぼそと書いています。7月5日の23時を過ぎたところです。ちょっとでも気分を乗せるべく、音楽はLeroy Hutsonの『Anthology 1972-84』を流しています。ちょっと蒸しっとした初夏の夜には非常にマッチしています。


というわけで、今回は平野 望が書いています。混同されているように感じることが多々あったり、初めてここの文章を読まれていることもあるかと思うので記しておきますと、私はdysfreesia + mihauという名義で音楽の活動をしています。私個人の名義(dysfreesia)とバンドであるmihauという構成から成っている為、ここの運営はmihauの皆が行っていること・その一員ではない私がしかしこれを書いていること、それらはそのまま自分たちで設けたルールを呆気なく破ったことを意味しているのですが、これにはそれなりに理由があります。というのも、現在私はやや体調不良の状態にありまして、隠遁するように日々を過ごしている為です。世間から切り離されるような感覚は始めこそなかなかしんどいのですが、時間が経過してくると自然と不思議な静寂が訪れてくるもので、世界はこんなにもひっそりとしていたのだ、と少し驚きながら2020年の7月を迎えています。


周囲の方々に対して現状を話していた訳ではないのですが、自ずと察知してくださったり、どこからか噂を聞いたのかで、ひっそりと連絡をくださる方がちらほらいらっしゃいまして、ちょっと驚いています。とは言え、皆さんには非常に迷惑をかけている次第です(申し訳ございません)ので…ささやかな生存報告と感謝としてこれらの言葉をここに埋めておきます。どうもありがとうございます。生きています。


文章を書くことはとても好きなタイプなのですが、今に限って言えば、すごくしんどいです。というのは、今の状態になってから悉く文章が読めない / 書けないというのが続いていて、かつ、それらを自分で認識すること・認めなくてはならないことが非常に辛かったりするからです。なので、これに関しても、ちょっとひいひい言いながらなんとか進めています。


「読めない / 書けない」ということはそのまま「考えが何も浮かばない」ことを意味しているようですが、実は違っていて、私の場合はむしろ考えがずっと回転し続けている感じです。突風に晒された風車が常に回っていて、それらの全てが昼夜問わず喋ることを止めてくれず、それらを何とか聞き続けていたらあらゆる感覚の扉が開きっぱなしになり、その閉じ方が分からなくなってしまった…というのが今の私の状態に近いと思います。


もうひとつ、別の表現もあります。歪な図形が脳のすぐ下にいつの頃からか嵌り続けていて、しかし頭の頭蓋骨の設計自体はずっと楕円を保っているので、脳の中で生まれた考えがその図形を撫でるように側面を巡っていくと、やがてその面の至る所に空いた無数の隙間からそれが溢れ落ち続けていくのです。そしてそれは止まる気配を一向に見せません。


しかしこれらも、後々振り返ってみたら少し違う見方になるのかもしれません。何かが狂ってしまったのかな…とも思う一方で、「少し変わっている」だとか言われ続けてきた人間ではあるので、あるべきところに至ったような整合性も感じています。Everything In Its Right Place、です。しかしここが私の正しさの在処だとしたら、なんとも嫌な場所だなあと思います。そしてここに至って私は寂しさと直面しています。ここはあまりにも殺風景過ぎるので、もう少しだけでも線が確かである場所へ移動したいと考えながら、とりあえず腰を落ち着けている次第です。



都知事選の当確情報が先ほど回ってきて、「バンクシー愛好家」こと小池さんの勝利ということでした。これに関しては大凡の予想通りだったなあというところで…私はリベラル寄りの考えをする立場である以上、残念ではありつつある程度の心の準備はしておいた次第なのですが、しかし少し意外だったのは若い世代の中で小池さん以外に投じた方の割合が高いという統計結果についてでした。私と同じ30代に次いで10代・20代の方々に野党陣営が支持されている傾向を目の当たりにして、(こと東京に限って言えば、ですが)少しずつ状況が変わってきたのかもしれないと感じました。しかしその傍ら、極めて排他的なナショナリズム寄りの候補者への投票割合が最も多かったのも10代・20代だったという結果にも非常に慄いています。


たまたまなのですが、今日はNetflixで『シンドラーのリスト』を観ていました。最近の過ごし方のひとつが映画を観ることで、1日複数本を観るのが日課になってしまったのですが、その中でスピルバーグ再評価の動きが自分の中で巻き起こっています。スティーヴン・スピルバーグという監督は長年私の中で「現在のJ-POP」的な立ち位置にありまして、端的に言えば「分かりやすさが先行し過ぎていて美意識に欠ける」という認識だったのですが、いま改めて彼の作品をつぶさに観ていくと、物語のシンプルさが先行し過ぎたが為に見落としていたところがたくさんあったことに気付かされました。構成の仕方や映像の撮り方・視点、それらが総じて映像の中にいる人間を「実際に」生きているものとして瑞々しく描くことに貢献していたのです。しかもそれらは非常に良く出来ているだけでなく、映画への愛情が痛いほど伝わってくるものばかりでした。それは私が敬愛するガス・ヴァン・サントやジム・ジャームッシュのような所謂「インディ」寄りの監督たちの作品の手触りと共通するもので、今の私はスピルバーグを何処か馬鹿にしていた自分自身のさもしい浅はかさを猛省しています。


『ターミナル』をキッカケに始まったスピルバーグ再訪は、過去の名画のあらゆるシーンの振り返りやフラッシュバックと共にその印象を鮮やかに刷新し続けながら、今日になってようやく初見だった『シンドラーのリスト』へ辿り着きました。今の過敏な神経の状態においてはかなり苦しい内容の作品で、凄惨な殺害のシーンが続く中盤辺りではギブアップするべきかとも思いましたがなんとか乗り越え、終盤の「この車を売ればあと10人助けられた」(確かこんなニュアンスだったはず)のシーンに至る頃合いには泣き過ぎて枯れていました。観る人にすればこれらの台詞は「ヒロイック過ぎる」ものなのでしょうが、それらを素直に受け止めることができるようになった私は、そんな自分に対してちょっとした成長を感じもしました。


80年代後半から90年代前半にかけて生まれた私の世代は、特に10代の頃には冷笑的・嘲笑的であることが格好良い(そして大凡のイコールとして"正しい")という価値観に晒されていました。それらは社会と自分たちとの間に意識的に距離を設けるという考え方であり、そうすることで「ゆとり」という言葉を以ってして無理解を振りまいていた周囲から自衛をしていたのでした。当時から「ゆとり」という言葉に対して距離を感じ、自分自身をマイノリティだと感じていた私でしたが、しかし同様に冷笑的で嘲笑的だった自分自身を随所に発見することが未だに多々あります。そしてその最近の一例が、まさに今回のスピルバーグの一件でした。彼の作品を馬鹿にしていた私は間違いなくあれらの冷笑を引きずっていたのだと思います。


今、若く生まれ出でてくれたつぼみのある位置について考えています。それを当人たちがどう見つめているか、そして私たちがどう見つめているかについても考えています。私にとってそれがどんなに危うい箇所に芽吹いたとしても、そこに芽生えたつぼみの良し悪しや美醜に関わらずそれを受け止めることのできる人間になりたいと思います。受け止め認めてあげること、そしてそれについて真剣に考えていくことが私にとっての責任だとも感じています。数十年前に大勢の人間を死滅させたナショナリズムの近接を恐れながら、しかし私はそれに間違いなく関与した一員なのです。そうして何かを(自分の中に / 外に)認めてあげることが、多少なりとも社会を良いものに変化させていく潮流の一部分となれば良いと考えています。



阿呆のように最近はビートルズを聴いています。それは坂本教授でいう『BTTB』的な動きとしてなのですが、これは何年周期かで訪れる熱狂の一環でもありました。ビートルズしか聴けない、しっくりこないみたいな気まぐれの時期が今まさに訪れているのです。なので最近はビートルズを後期から初期へ、時間を巻き戻すように、そしてじっくりと聴いています。そうすると却って発見が多かったりもして、なんだか面白いです。特にジョージのソングライターとしての発育ぶりは、時系列から逆行して聴いた方が分かりやすい気がします。どんどん曲が幼く粗暴に、しかし、いや、だからこそ直感的で無垢なものになっていくからです。


そんなビートルズ熱に対して、当時の彼らの好敵手だったザ・ビーチ・ボーイズに関してはもう少し周期が定まっていて、それは「夏になれば聴く」という元も子もないものなのですが、ともかくこの時期に狂ったようにレゲエ/ダブやロックステディと並行して彼らを聴くことは私の例年の習慣です。彼らの音楽は自分の中にありもしない夏の想い出を創ってくれ、それが私の何かを癒してくれるのですが、それがないと私は夏に立ち向かうことができないのです。私はザ・夏嫌いでして、夏が二度とここへ来ないと約束してくれるのであれば両足の小指を献上し差し上げても構わないと常日頃思っているのですが、ビーチ・ボーイズを通して感じる夏に限っては大好きです。実際にある面倒で多弁な熱が一切なく、なんだか途方にくれるほど美しい夏がそこにはあるからです。その頭の中の夏は、私が知る限りでは最も美しさに近しいものだと思います。そこにある多彩な響きだけでなく、光の塩梅や香りに至るまで、あの夏は総じて完璧であり、屈強に美しく、しかしどこか儚いものでもありました。


これはウォッシュト・アウトを聴いている感覚とも非常に近く(新作出るってね!すんごい楽しみ)、要は現実にはないものをそこに求めているのであり、単なる逃避に過ぎません。「逃げてしまうことも時には必要だ」と周囲の人たちに言う傍、自身に対しては逃避することを良しとしてあげられないという困ったちゃんこと私ですが、「目に見えないウイルスと向き合う」という言葉にするとなんだか破綻しているようで、しかし実際にそうせざるを得ない人が世に溢れているであろう今年に限って言えば、海岸に佇み夏を謳歌する青年たちの姿へ逃避することで、その何かを軽くすることができるのではないかと思います。そしてそれはそのまま、現在の私にも必要なもののような気がしています。なので私はビーチ・ボーイズを口ずさみながら日々を過ごしています。あなたにも彼らのハーモニーは優しく効くのではないかと思いますが、果たしてどうでしょうか。


小さな波乗り 可愛らしいあなた

僕の心を解きほぐしてくれる

僕を愛してくれる?

どうだろう、サーファー・ガール


という訳で、この文章はあってもなくても変わらないものとして、「ず」を勝手に引き継ぎ「ず」へ続けます。どうか平穏にお過ごしください。そしてまた会いましょう。


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7月6日20時追記

エンニオ・モリコーネが亡くなったという報が届きました。

私にとってのモリコーネは『ニュー・シネマ・パラダイス』でした。あの映画の狂おしい美しさと、見終わった後に訪れる恐ろしい程の深淵、そして細やかな人間の愛くるしさはモリコーネの音楽によってさらに輪郭をはっきりさせられ描かれていたように思います。美しい音楽はきっと天国でも既に流れ、そこで生活している人たちを楽しませていることでしょうが、モリコーネがそこに加わったとなればさらに強靭です。どうかいつまでも音楽を奏で続け、あらゆる人を恍惚とさせ続けてください。私もいずれそれを聴きに行けるように頑張ります。


エンニオ・モリコーネ氏のご冥福をお祈りいたします。

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