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>>> some words? = thinking (or sinking)

ghosting, ghosting, ghosting

昔から私は、街で行き交う全ての人が「生きている」だなんて信じられなかった。


あそこにいる誰もにそれぞれ別個の血が流れていて、異なる記憶を持っていて、異なる感情を抱えているだなんて、私には理解するのがとても難しかった。実際にそうだとして、到底処理なんてできなかった。そのそれぞれが個別の物語に沿って進行していると言うのか。名前も違う、顔つきも違う、よもすれば時間軸すら違うかもしれない。そう、それは目に見えるものに限った話ではない…もうすでに消えてしまった者やまだ姿を表していない者にも、それらは存在する / することに"なる"。かつてたくさんの者が踏み、これから先に見知らぬ人物が踏んでいくことになるのが私の足元である。それら全てに物語を付加していくとなれば、もう到底私の拙い知覚程度では使い物にならない。目の前を駆けた綾に勘づくので精一杯で、私自体はそれを追いかけることもできないのだから。


時折誰かの昔話や想い出話を聞いて、その深淵ぶりに驚くことがある。記憶が手に負えないほどの複雑さと脆さによって蠢いているのがよく分かるからだ。目の前で語る人の中に何人も「誰か」が存在している、その「誰か」も「誰か」を包括していて…何処かの境界線を越えると、それは永遠とほとんど等しくなる。永遠の生でも、永遠の死でも私の言おうとしていることは変わらない。


しかし厄介だったのは、私の考え過ぎる性格だった。私の性分は、その永遠へと続くように見える袋小路に一度進めば、引き返すことが非常に困難だったのだ。その道を回避する為の方法こそが「幽霊」のシステムだった。少なくとも私の知らない人たちは一人残らず幽霊なのだ、と盲信すること。そうすれば、私はそれらについて深く考えずに済んだ。


人間のしたことなら考えなくてはならないけど、幽霊のしたことなら仕方ないよね、しょうがないよね、どうしようもないよね、で簡単に解決できることがたくさんあったのだろう。それは恐らく無意識的にしていたことで、それもあってか幼い頃から私は幽霊が怖いという感覚がよく分からなかった。皆が怖いというから自分でも怖いと思わなければならないと感じ、ある時期まではそのように嘘の主張をしていたが、それもいつからかぱったりと止めてしまった。私にすればキャンキャン吠えてくる子犬の方が怖かったし、前歯で噛んでくるジャンガリアンハムスターの方が怖かったし、足音もなく静かに駆けているゴキブリは今でも怖い。しかしこの幽霊の仕組みを意識するようになったのは、恐らく『マトリックス』を観た後からのような気がする。あそこにいたのは演算処理されてデータとなった人間であり、それに対して本来であれば、人間の尊厳だとか倫理観を基に現状を鑑みて思考するべきだと思うが、私に訪れた感慨は「この感覚を知っている」だった。私にとってそれはとうに現実のものだったのだ。


例えば、新宿駅の構内を目を閉じて進んでみる。人の息遣いや雑音だけが私の肩を叩いていく。それ以外は何もない。ゆっくりと歩いてさえいれば、面白いもので誰ともぶつからない。何かが掠めていくような気配はあれど、私を脅かすものは何もない。それが幽霊の確認の仕方だ。そうして街の至る所で私は幽霊を感じる。幽霊は確かに生活している。そして彼らの多くは、私と同じように音楽を聴いている。


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ソローってのもやっぱし詩人で?

詩人というのとはちょっと違うかな。でもやはり偉大な文人ではある。森の中で一人で暮らした男なんだがね。

あ、あの人ね、と無知を演じすぎぬよう気を配ってブルーは言う。前に誰かから聞いたっけな。自然を心から愛してたとか。その男ですかね?

間違いない、とブラックは答える。ヘンリー・デイヴィッド・ソロー。で、このソローが、あるときマサチューセッツから出てきて、ブルックリンに住むホイットマンを訪ねてきた。だがその前日、ソローはまずこのオレンジ・ストリートにやって来たんだ。

何か特にわけが?

プリマス教会。ヘンリー・ウォード・ビーチャーの説教を聴きに来たんだ。

綺麗なとこですよね、とブルーは言い、中庭の芝生で過ごした快いひとときを思い出す。あたしもあそこにゃよく行きます。

たくさんの偉人があそこに行っている、とブラックは言う。エイブラハム・リンカーン。チャールズ・ディケンズ。みんなこの道を通って、教会に入っていったんだ。

幽霊たち。

そう、我々のまわりは幽霊たちであふれている。


───ポール・オースター 『幽霊たち』より


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把握していないものや知らないもの、分からないものは何もかも幽霊の仕業で、幽霊の所有物───この考え方はもう少し大人になってから、違う点でも私を助けるようになった。


昔は───それこそ音楽を聴き始めた時期や、あるいは小説の世界にどっぷりと浸かり始めた時期、私はこの世界にある全ての音楽を聴くことができ、全ての小説を読むことができるとずっと考えていた愚か者だった。しかも、それが出来っこないと気付くのに数年かかった。逆に言えば私は、その気付きに至る数年間を躁的で危うげ、陽気でもある不安と共に過ごした。聴くもの・読むものに尽きないのは今でも変わらないけれど、それらを「全て」知らなくてはならないということは一種の強迫観念として機能していた。


幽霊の仕組みを意識することは、その強迫観念を可逆的に塗り替え解消することを意味していた。「知らない」ということに対して私は悪気を感じ背負うことから逃れられたのだ。知らないということ自体は何も悪くない。私は巨大な知識に対して、興味の向くままに蓄えていけば良いのだと考えられるようになった時、だいぶ肩の荷が下りた。


知らないことと知りたくないことは明らかに違っていて、少なくとも私は強欲だからこの世界の何もかもを知りたいと望んでいる。私の知識が誰かを助けることができるかもしれないからだ。それは私にとっては直接的な喜びだった。偽善的と言われるかもしれないし、それ自体に関しては仕方がないとも思うのだが、しかし確かに私の核の一部分ではあった以上、それはそう書いておこうと思う。知識はしかし、諸刃の剣であるとも今では分かっている。私は知ることを通じて、恐らく本来は縁のなかった痛みとも顔見知りになった。それ自体の是非は、少なくとも今は、正直分からない。しかしだからこそ思うのは…幽霊の所業にだってそれぞれに意味があるということである。


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私は一九八二年にはじめてジョイ・ディヴィジョンを聴いた。だから私にとってカーティスは、つねにすでに死者だったことになる。一四歳ではじめてそれを聴いた瞬間はちょうど、ジョン・カーペンターの映画『マウス・オブ・マッドネス』のなかで、サター・ケインがジョン・トレントに、すでに彼の現実を侵食していた小説を読ませる瞬間のようなものだった。バラード、バロウズ、ダブ、ディスコ、ゴシック、抗鬱剤、精神科、オーヴァードーズ、リストカット──私の未来の人生のすべてが、その音のイメージのなかに集中して詰まっていた。それをじぶんのものにしようとしはじめることさえできないほどに、そこにはあまりにも多くの刺激があった。それに彼らじしんでさえじぶんたちがなにをしているのかわかっていなかったのだから、私になにができたというのか。


マーク・フィッシャー 『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』より


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Radioheadは「私を痛めつけないで」と歌った。"Give Up The Ghost"という曲である。後に同じタイトルの曲をMinor Victoriesが発表し、さらにその楽曲の弦楽リワークのバージョンも出たのだが、そのオーケストラル・バージョンと名付けられた楽曲は非常に素晴らしく、もっとたくさんの人に聴かれるべきだと常々思う。スティーヴ・ライヒ直系のミニマルなアレンジに適度なドラマチックさが加えられた曲だ。あれを聴く度、身体の底から力が抜け落ちていくのがよく分かる。しかし曲がピシリと終わった途端、何故だか身体が暖められていることにも気付かされるのだ。



しかし"Give Up The Ghost"…幽霊を諦める、とは面白いタイトルだなあと思っていたのだが、これが慣用句として存在する言葉だとは後に知った。ポジティブな言葉なのかと思いきやそうではなく「壊れる・死ぬ」という意味になるらしい。というのは、ghostはそもそもspiritと同義で、魂や生命力を表した言葉だからだそうだ。


このことを知ってすぐに頭を過ぎったのはアルバート・アイラーのことだった。フリージャズの名サックス奏者である彼には、自作曲である"Ghosts"という十八番があった。それは力強いマーチのような楽曲で、そこで聴こえる彼のサックスの艶やかさと力強さにはいつも驚かされた。なるほど彼のあの曲は、一般的に恐怖を象徴する幽霊ではなく、厳かで聖なる霊を描いていたのだった。



彼は謎の溺死を遂げた。自殺とも他殺とも言われているが、彼が「父」と呼んだジョン・コルトレーンの極めて現代人らしいガンでの死や、あるいは未だ現役で活動する「子」=ファラオ・サンダースの目覚ましい生よりも異様な顛末である。しかしキリスト教上の三位一体の考えに基づけば、それは全て一つの物事だ。多くの人が考えている幽霊とは、では一体なんなのだろう。彼らは同一のものに対して、少し形が違うことを理由に怖がっているということなのだろうか。


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コルトレーンが父、ファラオが子、そして私は聖霊 (Holy Ghost)である


───アルバート・アイラー


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私がこういう類の幽霊の話をして、これまで腑に落ちるような仕草を見せてくれた人はいない。彼らの多くは幽霊というものが一律して「恐ろしいもの」と考え、そうではない人は単に無関心だった。その恐怖に関して何か理由があるとしたら、それはホラー映画にほとんど所以している気がするが、私からすれば、スプラッター映画を観れる感覚のほうが気が知れない。あんなに痛い映画を観れる人は人智を超えたとんでもない能力を持っていると思うのだけど、向こう側に言わせてみれば、それよりも幽霊の方が遥かに怖いのだという。不思議だ。


しかしある頃から、幽霊の価値観が変わったような気がする。いつからだろう。インターネットの発展、SNSの発展とも関係している気がする。物事の細部が以前よりも知れるようになったことで、却って幽霊への恐怖、あるいは畏怖の眼差しを存分に込めた尊敬は増したような気がするのだ。そうして過去の墓掘りをすることは確かに魅力的だが、その理由のひとつは、答えがもはや分からず、答えそのものを新しく付け加えることすらできる点にあるだろう。それを人は解釈の自由と呼ぶ───しかし解釈と、実在そのものは切り離さなければならないはずだ。


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いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない。


われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。


───スーザン・ソンタグ 『反解釈』より


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昔からあった違和感が膨れ続けている。多くの人から過去に埋もれていった幽霊たちへの意識の高さは感じるのに、今いる幽霊たちへの意識や興味があまり感じられないことに対してだ。過去に費やされる時間と、現代へ費やされる時間のバランスが崩れ、結果速度の感覚がずれ続けている気がする。これはそのまま、世界の速さと私自身の速度の齟齬と相違を意味している。実際、私は現在における速度感がよく分からなくなってしまった。今の時代における「普通の速度」とは一体どこにあるのだろう?


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「こんどこそどんなことがあっても忘れちゃだめよ」

海岸通りにさしかかった時アンヌ・デバレートは言った。

「モデラートは、普通の速さで、カンタービレは歌うようにっていう意味よ、なんでもないでしょ」


───マルグリット・デュラス 『モデラート・カンタービレ』より


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私は現在、ちょっとした事情があって世間から少し距離を置いて生活をしている。その静けさには驚くことが多いが、いったん忙しい世間と距離を置くと、悪くはないなあと思う一方で、この生活には何かが欠けているとも感じている。というよりも、速度の感覚がずれているから、これまでの生活と比較して何が正確なのかが分からなくなっているのだ。そしてもう一つ思い当たることがあって、それは今の生活の速度では人肌がなかなか感じられないということだった。私は人肌を通じて喜びを感じていたことを思い知った。人と直接会わないことは、少なくとも私には、喜びが減ることを意味していた。この熱量が新しい普遍だとしたら、それはなんとも寂しいものだと思う。


一方、前述した「喜び」と少し食い違うように聞こえるかもしれないが、私はあまり実在したいと思わなくなった。存在したくない、とはまた別の話で、要は私自身を空想物の中や、あるいは希少な動物と同じように扱ってもらったり、あるいは異なる時間軸の中に放り込んでもらった方が、少なくとも今は楽な気がする、ということだ。社会からややドロップアウトしている今の生活の向きがこれから先どうなるかは分からないけれど、しかしドロップアウトしている方が、私自身には心地良いところも確かにある。失踪したいとかそういう話でもなく、姿を少し朧気にしたいのだ。


矛盾して聞こえるのだろうか?


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部屋が静かなとき 日光はほとんど消えてしまった

知っておくべきことがある

どうやら私は去るべきだが、しかし雨が止まない

そして私には特に行く場所もない


勝てると思ったとき

あらゆる扉を壊したとき

私の人生の幽霊が以前よりも激しく吹き付ける

止められないと思ったとき

契機が王になろうとしたとき

私の人生の幽霊は風よりも激しく荒れる


───Japan "Ghosts"



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ghosting、という言葉の意味を最近になって知った。もともとRival Consolesの楽曲でその言葉を知ったのだが、その時は名詞に対してingを付けるってクール、などと考えていた。そもそもghostには動詞としての活用もあると知ったのが最近のことで、ghostingとはさらにモダンな使い方をする言葉らしい。デートアプリが勃興してからより使われるようになったその言葉が意味するものとは、即ちデート相手に逃げられることである。何度かデートをした相手と突然連絡が取れなくなった、姿を消してしまったことを「ゴーストされた」と表現するらしい(ちなみに蛇足だけれど、ゴーストされた相手が再び姿を見せることはzombing=ゾンビされたと表現するそうだ)。


これらを知った時、すごく面白いと感じた。そして同様に、現状の私の感情を彩っているちょっと複雑な色彩を一番的確に表しているのは、今時の言い方をすると「密」であるのは、このghostingという言葉だともすぐに感じた。私はどんどんと幽霊について学んでいる。そうすることで、今の私のあり方が、そして今の時点での面白さをどこに見出すのか、ちょっとずつ分かってきた気がする。


私は幽霊でありたい。

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