兵士のように構え、私は自身の手へ狙いをつける
教えてくれる雑種の犬たち
私が私自身の敵になり得ることも恐れていない
私が説いたその瞬間に
私の小道は混乱した船へと導かれている
船尾から船首へと一貫した反乱
ああしかし、あの頃の私はずっと老いていた
今の私はそれよりも若い
-----
書くのは容易かったが、これをポストするかどうかは些か迷った。これをあなたが目にしていると言うことは、つまりそういうことだ。その理由に関しては、ひとつを除いて、自由に想像して頂いて構わない。ただひとつだけ私からそれを指定しておくと、彼がこれを、少なくとも近々には目に通さないことは明らかだからこそ書き記しておきたくなった。父のことだ。父と私に何があった訳でもない。
私にして、両親のことを語るのは少し難しい。多くの家族が、いや恐らくほぼ全ての家族がと言って良いと思うが、個別の問題を抱えていると思う。我が家もそうだった。そして私自身がその問題を濃厚にしていたと自覚があることが、尚更私には複雑だった。少なくとも私は家庭を不和にはしたくないが、だからと言って親しくしたいのでもなかった。これは矛盾しているようで、明確に繋がっている。家族だからといって何もかもが明け透けにできる訳ではない───特に私のような、そこまで話し上手でもないくせに、考えていることはいちいち誇大妄想気味で、かなり乱暴な側面も持っている出来損ないにとってはそうである。10代半ばくらいには家族と精神的に離れていることを感じていた。家族の中で私だけが歪な生き物に思えて仕方なかった。
いやしかし、父に限って言えば…?
少なくとも彼は、まだ私と共通項を持っているというか、彼も私とは異なる居心地の悪さを抱えていたように思えて仕方がない。それは家庭に向けてのものではなかったのかもしれないが、彼には窮屈に思える世界が、何処かには恐らく存在していたと感じる。
私は父を愛しているし、尊敬している。しかしその感情に付して、あるいは比例してかもしれないが、私にとって長い間掴みきれず、するりと逃げ出してしまう人のようにも感じられたのもまた確かだ。実際、私がまだ幼い頃の彼は仕事で忙しく、家にいないことも多かったように記憶している。しかしその盛りを過ぎてから比較的家にいたはずの彼にしても、私はそこにいないように思えた。空気のようだったり、存在感がないのではない───むしろ逆である。彼の存在は常に大きかった。彼が家にいてくれることは、どこかで私を常に安心させてくれた一方で、同量程度に私を緊張させもした。実在と何かがずれていた彼の存在は、まるで常に席だけは用意されている主賓のようだった。そこに座るべき人は、気紛れに登場しては消えていく。
生涯大切にする本のひとつとして、ポール・オースターの『孤独の発明』を挙げることに迷いはない。私が本作を挙げる理由は実に明瞭である。父と息子にありがちなマッチョイズムに依る感情の交差 / それにより構築されていく関係性とは異なる種の愛情、視座によっては「拒否反応」となる感情の動きがこの文章を駆動させているからであり、それはそのまま私と父にも当て嵌められるところがあったのだ。加えて、ここに書いてある”父”は明確に私の父とは違う人物像だったが、しかし私の父「でも」あり、私自身の姿「でも」あったことにも震撼とさせられた。空虚な人間とは確かに時折散見されるが、しかしそれは周囲の人間たちの受動の問題である可能性も常に孕んでいて、私たちの感じる空虚がそのまま彼に中身がないことを示すとは限らない。
実際のところ、表層的には淡白だった父にはむしろ豊かな内事の世界があったと思う。その豊かさが表に出てくる瞬間が、時折だが確かにあったのだ。それを発見することは、私にとっての喜びであった。そのひとつが彼の話し方だった。彼の声には、これを聞いておかないといけない、とたちまち暗示がかけられるような響きが常に込められていた。静かな口調に温かい声色、必要なことだけ口にする謙虚さ、そしてそれらを裏付けするたくさんの(表には見えてこない)動機や経験の数々も含め、私はそれが至極好きだった。しかし一方で、彼と話すことがそこまでたくさんあった訳ではなかったように思う。私の彼の声に向けた好感は、その頻度の少なさにも由来するのかもしれないが、だからこそ私は彼の何を知っているのかと疑問に感じることも非常に多い。彼は車が好き、彼はゴルフが好き、彼はビールが好き、彼はステーキが好き…しかしそれらは彼の表層であり、その本質とは程遠い位置に刺された目印の旗でしかない、そして時に目印は、注意を逸らす為に存在することもある。私の父とオースターの父が重なって見えるところは、恐らくこの点に終始する。私は彼のことを知らない。知らないことがあまりにも多い。
父の持ち物で強烈な印象を放っているものがふたつある。ひとつはビートルズのベスト盤のCDであり、もうひとつはミヒャエル・エンデの『モモ』だった。しかし私がそれらを記憶していた理由は非常に短絡的で幼い感じがする。前者に関しては、私が小学校低学年の頃に放送し熱中していた『ビーファイター』という特撮ヒーローものと「響きが似ていたから」であり、後者はもっとシンプルである。何せ『モモ』だ───この世界に存在している本の中で最もシンプルで、覚えやすいタイトルではないだろうか。”リンゴ”よりも”モモ"が覚えやすいのは当然だ。
面白いことには、そのふたつには別の、しかし極めて私的な共通点もある。共々、父が聴いていたり読んでいたところを一度も見たことがないのだ。これはなかなか興味深い。私は父の大きな印象を、彼の様子や仕草で書き刻んだのではなく、彼を迂回した音の響きだけで形成していることになるのだから。彼と共に創造してきたたくさんの想い出以上に、彼の不在とその持ち物によって私は父を形作ってきた。余談だが、私は同様のことを母型の祖父にも行なっていた。アルコール浸りだった祖父のことで私が最も記憶しているのは、私の母と彼との口論の喧しさである。ふたりの人間から発せられる、極めて耳に障る高音のハーモニーだった。それが故か、私は彼が死ぬまで、彼のことを怖いとしか思えなかった。彼の骨を見つめても、それがあの耳を劈くような高音を発しているように感じた。今でも口論をしている人を見るのはとても恐しく、それが高音だったりすると尚のことげっそりと、そして胸が張り裂けそうな心地がする。一方で、その高音が私の中の因子として存在していることも同様に恐ろしい。
さて、『モモ』は父の本棚の常に目立つところに置かれていた。それが故、私は実際にそれを読むより遥か前に、モモが不思議な女の子の名前であることを知っていた。ようやくそれを読んだのは、あの本の適齢期とされている10代前半でなく30代になってからであり、その時分の私はビートルズを構成する4人の名前はおろか、“リンゴ”の本名がリチャードであることも知っている程度に大人であった。では、父は果たして『モモ』をいつ読んだのだろう。単純な時系列で考えると、それは20代になってからのことには違いない───『モモ』は1973年にドイツで刊行されており、日本での初版はざっと調べた限りでは恐らく1976年である。私とちょうど一回り違う。モモは私の12歳上のお姉さんである割には、非常に童心的かつブレがなく、冷酷なほど本質的でもある。
ある程度分別がつく年齢になってから読んだことも関係しているだろうが、これは本当に児童向けの書物なのかと首を傾げてしまうほど、『モモ』には現代社会への批判が込められている。その点に関して顕著に批判されていることも多いようだ。例えば、児童書を複数著している上橋菜穂子氏は「物語を理屈や思想に奉仕させてはいけない」と発言されている。私の見地からすれば、彼女が示そうとしているものは子どもを見くびり過ぎだと思うし(そう、私たちはかつて知っていたことを忘れたがるが、子どもは大人が思っているよりも遥かに賢く狡く本質的である、あなたにだってその感覚の覚えがあるだろう)、それは単に大人の論理からして都合の良い子どもの理想像を夢見ているようにしか聞こえない。氏の仰ることもその主旨自体は理解できるが、いやしかし、理屈や思想に全く奉仕せず、見向きもしない物語が───あるいは個々人の歴史のようなものが───存在できると、氏は本当に思っているのだろうか。
昨年末のことだ。慌ただしく引っ越しの準備をしている中で、学生時代のとあるレポートがひょんと出てきた。それは当時専攻していた社会学の授業の為のもので、父本人が語った個人史を基にまとめられた9ページ程度のレポートだった。そんなものを書いていたことはすっかり忘れていたが、この紙切れに見受けられる当時の私のちょっとした愛情によって、たちまち時間が蘇ってきた。このレポートでの言葉遣いはまさしく父を模していた。私はそれを、父が語っている時のように───慎重に言葉を選び、真摯に語りかけるようにして───書きまとめていたのだった。そんな些細な労苦も見受けられる大凡10年前に書かれたレポートを、引っ越しの準備などそっちのけで読んだ。途中からは涙が溢れてきた。何が涙の理由だったのかは正直よく分からない。私はただ、それを読むには平常心ではいられなかったのだ。
ここには興味深いことがたくさん書かれている。幼い頃には蒸気機関車に乗り、カトリック系の幼稚園でフランスパンを初めて食べ、東京オリンピックと同年に発生した震度5の新潟地震を経験し、アポロ月面着陸を映像で見つめた少年の夢はコンピュータに関わる仕事に就くことになり(その夢は叶わなかった。ただし、パソコンが初めて我が家にやって来た時の父を思い出す。これまで見たことがないほどに彼は嬉しそうで、しかしいつも通りに静かな装いのまま喜びを霧散していた)、激化していく学生運動への違和感と共に「自分とは違う世界が動いている感覚」を抱いた。上京して通った大学では動機も何もなく思い付きでヨット部に入った。大学には結果5年間在籍し、卒業したのが1979年とある。
さらに、私の認識していた父とはやや異なる側面もそこには記されている。父の父、即ち私の祖父はマイルス・デイヴィスが好きだっただとか、小学校の頃に器楽クラブに入っていただとか、幼い頃に山田耕筰と会っただとか、兄の影響でビートルズやベンチャーズが好きだったとか、初めて買ったレコードがフォーク・クルセイダースだったとか、吉田拓郎が好きでよく聴いていただとか………音楽の気配が至る所からするのだ。これだけ音楽の話が多いのにはしかし理由があり、このレポートを書く頃には既に音楽に「発狂」していた私は、父に執拗に音楽の話を質問していたのである。ボブ・ディランの名前がレポートの中に出てくるのは、私がディランの話を強引に振ったに過ぎない。しかしそれを踏まえても、つまりこれらが父の自発ではなく私の誘導によって引き出されたことを差し引いても、ここに書いてあることは実に興味深いし、それを私が忘れていたことにも驚きを隠せない。私は忘れていただけで、彼の音楽を実は「耳にしていた」のだった。
『モモ』にはこんな印象的な件がある。
「すると、もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったら、どうなるの?」
「そのときはおまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうにも言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた昼夜と年月すべての時間をさかのぼってゆく、と。人生を逆にもどっていって、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出ていくのだ。」
「そのむこうはなんなの?」
「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽にくわわる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ。」
20代以降に『モモ』を読んだ父は何を感じていたのだろうか。それはまだ聞いたことがないし、これから先に実際に尋ねるかも分からない。しかしある程度は想像がつく───父は音楽を感じていたのだ。何れにしても、私は父の中に『モモ』の物語があったことを誇りに思う。そこで音楽が常に鳴っていたことも、私の胸を締め付ける。音楽の存在こそが、父の内側の繁みを確信させる。
——
言うまでもなく───と書くことは、それを言っておかなければならない状況にあることを明確に示唆している訳だが───この空間は私の独白の掃き溜めに過ぎないと認識していたし、実際その他の意味合いは全く持ち合わせていない…いや、その構造上持ち合わせることができない。これは何かに至るまでの私の思考の流れを記述しているだけなのだから、私自身に関連する何かを告げる為の広告にすらなり得ない。これは一種の操作された「ハプニング」でしかない(”私たちは事故である / 起こるのを待っている”)。
しかし、独白という言葉が一応は公開されている文章に当てはまるのか、ということについて少し考えなくてはならないと感じたのは、今年の頭から2月くらいにかけてのことだったと思う。これは意図せず読まれてしまった日記や手記ではないからだ。そもそも本当の独白であれば、それを公開することは全く求められないし、公開されることが選択肢として浮上すること自体があり得ない。「表現」だと言われたことも以前あったが、それにも非常に違和感がある。この程度の駄文で何が表現できていると言うのだ?
書くこと、読むこと、演奏すること、聴くこと、送信機と受信機、それらの事象を巡る複数の矢印は、時折違う方向を指し示す。それは時に大きなアンビヴァレンスを張り巡るが、そのひとつに「聴きたい / 聴かれたくない」「読みたい / 読まれたくない」のパターンが存在している。作者が廃棄したり忘却した(い)ものを、受け手は垂涎モノの価値あるものとして求めていくケースだ。こういった「廃棄 / 忘却されたアーカイブス」が珍重されるばかりか、それこそが作品や作者そのものの魅力として語られているケースも多々ある。その最たる例がカフカの作品群であろう。死を目前とした彼は友人であるマックス・ブロートに、自分の遺稿や草稿のノートを全て焼却するように求めた。しかしマックス・ブロートはカフカの作品に惹かれるが余り、約束よりも作品を選択した。時間が不可逆的に進行する限りにおいては、死者には何もできない。遺書が効力を持つことは確かにあり得るが、それは観念的な拘束であり、破ることは実に容易い。時間は時に暴力的になるが、その暴力は必ず生者から死者に向かって行使される(最近読んでいるレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』において、似たようなことが宗教を通して以下のように触れられていた───或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、結局のところ、生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的嗜好の面で隠蔽し、美化し、正当化する努力に他ならない)。捉え方次第でマックス・ブロートの選択は屈辱的な裏切りとも、真摯な愛情とも、そのどちらにも容易に変容する。実際のところ、そのどちらでもあったのかもしれない。
書くこととは、構成や編集の技術を除けば、ある程度は取捨選択の連続でしかない。浮かんでくる言葉を並べるだけでは、それを目を通した他者に理解を求める限りにおいては、少なくともいくつかの点で問題が生じてくる。その問題点を懸命に発見し、時間をかけて研磨していくのが物書きである、とは言えるかもしれない。その研磨の作業にどれだけ時間と比重をかけるか / かかるかは、技術的な問題も前提としながら、しかしある程度は本人の気質に依るのだと思う。オースターの初期の作品には自身の遅筆ぶりを悩んでいるような著述が幾多も見受けられるが、その姿には人間的な感情の揺れがじっとりと滲んでいる(この点でも私はこの小説家を愛さずにはいられない)。
而して、カフカの小説には他人に「読まれたい」という欲求がまるで感じられない。出版を拒否される苦い経験を持ちながら、商業的に成り立たせる為に内容を整えると言うような、そういう類の社会的 / 外的要因に揉まれた痕跡もないし、そこに直面した際の反動や開き直りですらない。あの文章に滲んでいるのは、ただただ思考の湖に自ら飛び込み沈没していく、徐々に水が身体を圧迫していく際の息苦しさや肌の緊張でしかない。感情を切り詰めたからこそ生まれる異形の切迫感は、他者が介在する限りにおいては表出の方法がないと思う。彼の文章において他者は主格に関係しないように努め、積極的に関係を拒む。機能的に言うならば、迷宮に迷い込む主体にカメラを極端に接近させる為に、他のものは無下とされ、見えない背景へと回される。本の中の主格にすれば拒否に感じられるそれが、書き手にすると他者の排斥 / 除籍を意味する。著述が極めて個人的な行為だったからこそ、彼は主格を積極的に孤独に陥れることが出来た、とも言えるかもしれない。現実では起こり得ないことを、自分の世界だけでは実現させることが出来たのだ。カフカにとって他者とは、もしかしたら単に鬱陶しいだけの存在だったのだろうか。
それぞれ別のルートを辿りながら「記述には覚悟を要する」という同じ結論に辿り着き、今年に入ってそれを語った口をふたつほど知っている。ひとつはレーベルのデザイナーであるおきぬさんの口であり、もうひとりはmihauのマキさんの口だ。前者は、彼女から預かったままどのタイミングで公開しようか悩んでいる手記に由来し、後者はintonarumori (playing)で既に語られている。文章を書くことには多少なりとも覚悟がいる───とは確かに正確であるが、それには「他者に目を通される」文章、という枕詞が不可欠だ。カフカの文章に覚悟があったのか…と問われると、私は幾らか疑問に感じる。カフカの著述は時に無鉄砲で無防備であり、無邪気に主格を迷宮に陥れているように感じられるところが多々あるからだ。言うなればカフカの小説はかなり極端なエゴイズムであり、彼の独り言であるように私は思う。
これらを踏まえると、私がここに書き置きしているものは、実は独白に似ているだけの別物なのだと結論せざるを得ない。私はこれを、他者が目を通す可能性があることは認識して書いているが、その言葉がある程度は吟味と研磨の末に表出する宝石を示すのだとすれば「文章」と呼ぶのは不適格でもある。覚悟はあるか…に関しては、ないとは言わないが、覚悟と呼ぶにはこそばゆいし、その言葉で示そうとするような仰々しく猛々しいものでは決してない。正直に言えば、どうだって良い。他者はいてもいなくても良い。これは私のただの衝動の一種でしかない。
衝動であるからが故、これは定期的に訪れてはくれないし、生まれてきたところでどうしようもないことが多々ある。私が時折箍を外し(たように受け取られ)て動くことがあるのは、このどうしようもなさの滲みなのだと、書きながら感じた。さて、衝動はどういった所以かはよく分からないまま生まれ出でたは良いものの、生き抜くには術もなく、多くが廃棄される運命にある。この文字の連なりは、その瞬間的な動きをかろうじて封じた末路でしかない。しかし、文章としてまとめることをベースとすると、衝動は時折邪魔にしかならない。その一方で、物事に対する意欲としての衝動は非常に重要でもある。衝動と意欲は密接に関係していて、隣り合わせに位置している。継続的な意欲は習慣を持ち出す。しかし衝動は必ずしも長く呼吸をしてはくれない。習慣を意識的に作り出すことはできても、衝動は自由に作り出せない。習慣を取り戻すことは出来ても、衝動を取り戻すことは困難だ。根本の種がない状態では果実は実らない。鳥が突く為の果実が存在しなければ、次の種も地へ落ちることがない。
-----
種の話をしようと思う。避けてきた訳ではないのだが、一時期よりはそれを言葉にすることを恐れなくなってきた。とは言え、明確に書いたことはない。必要がなかったからだと思うが、今も果たして必要があるのかは分からない。現時点の私にとって非常に大きな問題を、あなたが知る必要があるかどうかは、正直私には想像がつかない。
私は昨年の6月下旬に鬱病と診断された。正確には、2017年6月にも一度軽度の鬱病と診断されていたので、再発したことになる。さらに厳密にしておくと、2017年のものは完治したと医者に言われた訳ではなく、私は自発的に病院に行くことを止めたのだから、果たしてそれが再発だったのかも非常に怪しい(こう記述していて自身でも驚愕したが、17年に”それ”に名前を付けられてから、かれこれ4年も経過していたのだった。あっという間だった。私にはそれが5分程度の経過に思える)。ゆるゆると軽度の憂鬱を繰り返しながら、しかしそれ自体とは10代半ばくらいからの長い付き合いであり、それなりにやり過ごす方法も把握しているつもりだった。いつものことと耐えながら過ごしていたが、昨年の病状は具体的に身体にも支障が出て、結果生活全体に大きく歪みが生じ、あらゆる関節が動かなくなった。ここで言う関節とは実際的なものだけでない。感情と身体を結ぶもの、異なる性質の感情同士を繋ぐもの、それらが全てが極端に動かなくなった。人間は関節だらけの動物なのだと、あの経験が私に教えてくれた。
私にとって2020年とは「ロスト・コントロール」の時間の束のようなものだった。ロストしたのは自分自身の感情や身体だったのはもちろんだが、そもそもの諸元の種である衝動がごっそりと逃げ出していたことも非常に苦痛だった。時折思い出したようにやって来る小さな衝動に関しても、ほとんどの場合コロナウィルスを取り巻く外的な要因でストップがかかった。私はその狭間で、これまで知らなかった自身の一面を知りもした。私にとって「できない」ことは非常にもどかしいのだった。書きながら改めて自覚しているが、これは小さな子どもの駄々と何も変わらない。今振り返っても、昨年の混沌が生々しく蘇ってくる。私にとってそれなりに深刻な状況だったのであり、よく生きていたなと感じもする。大袈裟に聞こえるだろうし、それは私にしてもそうなのだが、しかし昨年経験していた現実の歪み方は本当に恐ろしかった。現在に再び物差しを用意出来たからこそ、去年の経験の「おかしさ」が感情的 / 身体的な所作としてもよく分かる。
ところが、こればかりは私も全く想像していなかったのだが、ここ数年来でも一番の驚きと、それに付随する至極深い内省が今年になってやって来た。去年の比ではない内省である。日付として2月22日、奇しくも去年の同日にはSTYLO#2にて演奏していた日だった。まだその翳りから抜けきれず、結果私がこうして過去のページを振り返っているのは、突然訪れた医師の診断の変化に由来する。彼女は、鬱病ではなく双極性障害、所謂躁鬱病なのではないかと私の疾患への認識を改めたのだった。
私には精神が高揚する機会がほとんどない。音楽だけが私のリミッターを外すことが多々あるが、少なくともそれを病的な高揚と感じたことはない。だから彼女の言葉は全くしっくりこなかったのだが、彼女に渡された双極性障害のパンフレットを眺めて、とても驚いた。そこにある病の特徴やら、症状やら、10代に発病するケースが多いという記載や、その病気の表面的な発露の仕方など、何もかもが私にぴたりと符合したのだ。自信満々になる、眠らなくても平気、おしゃべりになる、行動的になる、他人に攻撃的になる、考えが次々に浮かぶ、注意力が散漫になる、気が大きくなって高額な買い物をしてしまったり危険な行動をする…これら、私の調子の良い時の”気質”と”汚点”がそのパンフレットには余すことなく書かれていて、しかもそれが双極性障害における躁状態の症状として記載されており、その具体性には巨大な、経験したことのない恐ろしさを感じた。「私はそこに記録されていた」のである。
その数週間前に「あなたのこういうところが嫌いです」と信頼する友人に言われたことも、医師の診断を聞いてから後、急激に重さを増してきた。彼の言う私の難点の幾つかは、よくある訳ではなかったが、他の人からも時折指摘されることがあった。そしてそれはそのまま、躁状態における特徴として冊子に記述されていた。彼の言葉が、彼が本来言いたかったこととは違う方向から私を殴打している。本来連絡するべきタイミングなのだが、私は彼に対して何を語れば良いのか、途端に分からなくなってしまった。結果、それ以来阿呆のように黙っている。口が利けない自分自身が本当に情けないが、言葉が見つからない以上は声をかけようがない。
避ける方法もあったのかもしれない / しかしそれが出来なかった、という種の、私の行動や言動によって破綻した人間関係がいくつも頭に浮かんできては膨れていく。戻って謝れるのであればもちろんそうするが、彼たち彼女たちに私は何と声をかければ良いのだろう。そもそも私自身にも、それが誰の口なのかが分からない、確信を持てない状態であるのに、それはいささか乱暴ではないだろうか。しかも私はそれにこういう思考を加えなくてはならない───「謝っているその口は、果たして誰の口なのだ?」と。
突如として、これまで自分自身だと自己認識していた気質や性格が実は自分のものではなかった、という非常に奇妙な可能性について、私は真剣に怪しまなくてはならなくなった。それは本来私が語らなくて良いことを病が「語らせていた」可能性の検討を意味しているが、今の私には、それがどちらの口によるものなのか、そしてそれはもしかして本来の私の思考とは別の位置に"何か"があるのか、ということを考えるのはなかなかに苦しい。もしも後者のことが正確だったとすると、私には複数の人格が存在して、それぞれがそれぞれに喋っていたこともそれなりに考え得るからである。ふたつの口と、もしかしたら何処かにそれぞれ存在しているのかもしれないふたつの感情はある程度、既に融解して癒着してしまっているのかもしれないのであり───いや、間違いなくそうだと思う、少なくともふたつの口に関しては自覚がある───だからこそ、私にはそれが非常に重い。
経験したことのない至極複雑で入り組んだ心境の中で、私は春を過ごしている。私自身もこれをどう表現していいか分からず、未だに言語化できずにいる。「アイデンティティを喪失した」と書くこと自体はそう難しくない。それが意味することも明確だし、恐らく私が言いたいこともそこから大きく外れはしない。しかし、その痛々しさと馬鹿馬鹿しさがこの言葉では分からないし、伝わらない。何人かの親しい友人たちに近況を説明したが、誰一人として私を襲っている恐ろしさの本質を説明できた人はいなかった。彼たち彼女たちの優しさが現在の私を補い包み込んでくれていることは本当にありがたかったが、私の感じている恐ろしさを理解するのはまた別の話であって、正直に言えば困難だと思う。本人ですら曖昧にしか回答できないことが、それを懸命な想像でしか共有できない友人たちに何故出来ると言うのだ?
少し久しぶりに、私は孤独だと思った。そう、忘れかけていたが、何歳になっても、それを知ってしまった限り孤独は姿を変えて登壇し続けるのだった。孤独が私を逃すことはなかった。私は前言を撤回しなくてはならない。2020年に限らず、私にとって「ロスト・コントロール」の時間の束のようなものはずっと続いてきていたのだ。これは恐ろしい発見であった。本来の私は───何を「本来」とするのかにもよるが───実はとうに終わっていたのかもしれない。では私は一体誰なのだろう?
-----
混乱の中で幾らか考えた末、とりあえずまとまってきたことを、自分の為に書き残しておく。
マキさんが書いていたように、口にしたことが現実になるのであれば、話は簡単だ。実現させるべきことは口にしておくべきである。 それがいくらか無責任だと指摘されても、身体を与える為の一歩目はそこでしかあり得ない。加えて、温めておくべきことは確かにそうしてある(私の冷蔵庫の中で? 温めてある? 冷蔵保存してある?)。まだぼんやりとした状態でもそれを他者と共有してきたのは、その可能性を推し測りたいからに過ぎない。それが廃棄される運命にあれば、それもそれである。
私の頭の中には幾らかの光の粉末のようなものがある。それぞれがそれぞれに弱々しく主張し、しかし面白い発光をしている、ように思えてきた。その呼吸を続けさせる為に、朧気な状態でもそれを誰かに話しておくことがある。そうすればそれはすぐには死なない。それは、少なくとも誰かに一度は認識されたことになる(例えそれが結果的に死へと向かおうと)。無碍にされた死と、少しでも希望を持ったうちでの死、そのどちらが残酷かは分からない。 少なくともこれまでの私はたくさん殺してきた。殺戮から逃れたものを、忘れ去りもしてきた。だから私は、恐らく世界で最も残酷な部類の人間に該当するはずである。この周縁のことを考えたり、或いは難点と指摘されると、私と世間との間にある感覚、または時間軸のズレが克明になってくる。そして今思えば、それの多くは私のふたつの口にも関連していたのだろう。
私にはより多くの時間が必要なのだと思う。それは文字通りの意味に加えて…私自身の傲慢な時間の、私自身による恣意的な独占を意味している。そして考えれば考えるほど、結論はシンプルに落とし込められていく。私はもっとドロップアウトしたい。この世界の標準的な時間軸からゆるりと、違う方角へと向けて舟を進めてみたい。無軌道に、しかし意図は抱えたままだ。私の時間軸は早過ぎることも、遅過ぎることもどちらもあり得る。それが自分にも周囲にも疲労や苦痛をもたらすのだとしたら、私は私しか入れないシェルターへ逃げ込むべきなのかもしれない。
それを実際に行為した人物として、長年鬱病に苦しんできたスコット・ウォーカーに考えを馳せる。輝かしいポップスターとしての姿から、憂鬱を抱えてガス自殺未遂まで起こした彼は自発的にドロップアウトして、遂には誰にも真似できない、真似したいとも思われないところまで行った。短絡的な多くの人はそれを転落と表現しそうだが、それは間違っていると思う。彼はひとつの地獄からもうひとつの地獄へ転居したに過ぎない。その身のこなし方が極端で、孤高が過度であるから、未だに誰も真意を出来ず、彼は井戸の底へ落ちたと考えることで自身を納得させるのだ。それほど彼の生涯の後半に当たる時期の作品は理解が難しい。それが故か、私はそこに何度も迷い込みたくなる。1995年に発表された『Tilt』の時点で既に難解な類かもしれないが、そこから『The Drift』『Bish Bosh』、そして幾つかの奇抜なサウンドトラックと続く彼の徹底ぶりは凄まじい。最終的にはSunn O))と共に奏でるドローンメタルへ辿り着いた。彼がまだ生きていたら、何を創造してみせたのだろうか。そしてかのジャック・ブレルは、自身を崇拝していた後続の才能が吐き出したこれらの「ノイズ」をどう捉えてきたのだろうか。
私がスコット・ウォーカーに固執することには恐らくもうひとつ理由付けができそうで、彼のインタビュー動画を見たことも大きいのだと思う。それは2006年、『The Drift』のリリースに際して収録されたイギリスBBCによるインタビューで、そこで語る彼は終始穏やかで、人当たりが良く、にこやかだった。あの映像における彼の挙動には、どうしても父がちらつく。穏やかであることと彼の途方もなさや「狂気」は密接に関係しているように思えるのだが、だとしたら、それは父にも通じることなのだろうか? その穏やかさに、優しげな瞳の輝きに、時折困ったように目尻を下げる動作に、私は彼(ら)の経験したであろう地獄を発見する。その地獄は、私のものとも近しいのだろうか。それは一種の予言として機能するのだろうか。
予言という忸怩たる思いを抱かせがちな言葉だと実像がたちまちにぼやけそうだが、しかし私はそれを時折生活の最中に感じることがある。それは色々な形で表出するが、ここに書いてきたことは、最近私に訪れたそれをただ要約しているだけの散文だ。父、オースター、カフカ、モモ、スコット・ウォーカー、[そして静かに息を潜めるボブ・ディラン]、これらがひとつの景色に流し入れられれば、当然のこと混迷に映るだろう。しかし私にとってのそれは簡単かつ整然としたことで、自然に接続されている。他人にはそう簡単には解読できない暗号として、宇宙が内臓の中にある。
表出するものは、いくらか共通認識や論理に基づいて駆動する。あるいは、外側にいる人がそこに当て嵌めて思考する。しかし本来は表出しなかったはずのもの、あるいは未開拓のものに対しては、それは些か困難である。これはブルースを発見した白人たちの困惑とも、少し似ているのかもしれない。それに付随させて述べるのであれば、多くのポップ・ミュージックや調整音楽と違って、私の思考的なノイズは音楽理論で好まれるような解決の方向へは向かわない。最後まで不協和音のままである。その音が美しいかどうかは好きに決めて欲しい。私の手はそこまで届かない。
3月下旬頃からやや調子が悪くなりつつあるが、去年のような地獄はまだ見ていない。しかし視点を転換すると、既にここは新しい地獄ではあるのかもしれない。私はただ単に、まだ知らない、或いは見落としてきた真っ新な土地にいつの間にか訪れてしまったのだ。身体的な苦しみは今のところそこまでないが、放り出された私は自分が何者なのかもよく分からずにいる。これから先において、過去の私が何者だったのかが判明することも、恐らく起こり得ない。そう、ここは地獄なのだ───人口比でいうとおよそ2-3%程度しか存在を知らない地獄である。それなりに希少の部類には振り分けられるのかもしれないが、そこにいることを誇りには全く思えない。しかもここでは不可思議なことも発生する。ロジックとしてはいくら捻れていようとも、確かに時間は時折逆流してみせることがある。実に奇妙な確信であるが、いくらか口に出してみて、それが真実に肉薄していることを改めて感じている。あの頃の私はずっと老いていた。今の私はそれよりも若い。
コメント