こんにちは、皆さまお元気でしょうか?
さて気がつけば12月、ふとここの投稿欄を眺めていたら何と今年はひとつも記事を投稿しておらず、これ何事かね、と言えば、単に忙しかったからであります。ありがたいことでもありますが、ひとつのことが終わったらまた別のことが…と今年は時間の流れが連鎖しており、比較的同時並行で物事を考えたり作業することに慣れている僕と言えども同時に出来ないことはやはりあって(文章を書くことと音楽を作ることの実作業は同時並行で進められないように)、そうなった結果ここが放って置かれている…という状況に陥っていた訳でございます。楽しみにしていた方がもしいたとすれば、申し訳ございません!
とは言え、書くことがなかった訳では全くなく、いやむしろ書いた方が良かったことがたくさんあったのですから、じゃあ書きましょうよ。ほぼ2023年なこのタイミングで…と思い筆を取っている次第です。
書く内容と項目を考えていたらこれまた長くなりそうだったので、かなり削ぎ落とし気味に、日記帳のように進めていきたいなと思っております。と言って書き終わった後にどうなっているかは分かりませんが…たくさんある僕の悪癖のひとつは説明が足りないことへの執着であって、それは即ち言葉と文字への執着を意味しています。ディティールをしっかりと伝えるにはある程度は細かく書いていくしかなく、そうなれば自然と長くなるのはなかなか避けられないところ。だからと言って書き方を変えるのは実に癪に障るなあ…と思っていたところ、最近出た町田康の『私の文学史 : なぜ俺はこんな人間になったのか?』の中で町田さんが似たようなことを仰っておられて、端的に言えば「細かく長く描き過ぎてクレームが来る」というものでしたが、町田さん曰く「知るかボケ」とのことでしたので、僕も「知りませんがな」とマイペースに進めていきます。いざ時空の旅へ!
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さて2022年よこんにちは、ということで年明け1日目に何を聴いていたかというと、年末に買っておいたカセットテープでありまして、『London Pirate Radio Adverts 1984-1993, Vol.1』というものでした。タイトルが全てを物語っていますが、ロンドンで飛び交っていた海賊放送のコマーシャル部分を集めた…という割と変態気味な内容のものです。フィールドレコーディングものやこういうアーカイブもの、大して持っていないのですが割と好きではありまして(結構有名なところだとウィルコの作品で有名になった乱数放送の音源集とか。あと今年はフィールドレコーディングに関する本が多数出版されて読んでいた為、Chris Watsonや『Sound From Dangerous Places』といった作品も聴いていたりしました。隠れトピック)、話のネタにもなるし…と軽い気持ちで買っていざ聴いてみたら、良いんですよね。当然ですけど日本のラジオとは全く違う。そもそも日本のラジオはやはり行儀が良いというか一定の”品”は保っている感じで、FM放送に至っては(時折気に触るくらい)洒落ているジェントルマンな雰囲気が演出していますが、こちらはイギリスの海賊放送ですので、すごくダーティ。恐らく海賊放送局の近所にあるっぽいお店のCMとかも入っているのですが、それが江戸っ子口調なちゃきちゃきした感じで繰り広げられたりしていて、非常に良い意味でなんか雑。サウンドアーカイヴと呼ばれるであろう文化史的な側面での価値もある録音集ですが、そういった学術的な趣を差し置いても最高。元々ラジオ放送ですから一種のアンビエントとしても機能する実は万能なやつですが、多分元日からこれを聴いたのは全世界でも僕だけだろうな…という不思議な全能感から2022年は始まりました。
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2. Teisco EP-9 (1月19日)
さて、少しだけ2021年に話が戻るのですが、ギターを買ったんですね。前々からもう一本エレキギターが欲しく、かと言って必要性があった訳でもないのでかなりゆるーく探していました。なのですが、緩いと言いつつ条件だけは異様に揃っていて、
①ビザールギターと呼ばれる、フェンダーとかギブソンではないマイナーかつ個性的なギターであること
②アコースティックギターのようにボディに空洞の空いていて「箱もの」とも呼ばれるセミアコースティックギターであること
③当然カッコ良いこと
の3つを見事に押さえなくてはならず、実はそれなりにハードルの高い審査がありました。ややこしいね。
ということで中古楽器店とかハードオフとかでそろりそろりと物色していたところ、見つけちゃったんですね。それはTeiscoという(その筋の人からすればめちゃ有名な)日本の昔のメーカーが作ったEP-9というギターで、全ての条件を完璧に押さえていたんです。何よりも③当然カッコ良いことにばっちり嵌って見せたギターで、見てくれはエピフォンの名機であるカジノとそっくり、カジノを一回り小さくして少しだけ痩せたような形をしています。それもそのはず、どうやらこのギターは日本でもビートルズ旋風が巻き起こった時期に製造されていたようで、要は流行にあやかったやや軽薄なギターでもあるのですが、60年以上前の楽器であることに違いはなく、当然風格がすごい。ムードがすごい(本筋と全然関係ないけど、EP-9という機械的な品番は「オウテカ…?」と思わずグリッチノイズを彷彿してしまうインダストリアルなノリなのも最高)。
なのですが一個だけ懸念が…それはメ○カリで出品されていたものだったのです。フリマアプリで楽器を買うことには一抹の不安がありました。というのも、数年前にメ○カリで日本で70年代に製造されたフラットマンドリンを見つけ、見た目がハイパークールだった為迷うことなく即決、届いたものも想像以上に風格があって大満足…だったのですが、ヘッドとネックの繋ぎ目に塗装の剥がれがあり。「そんなこと書いてなかったけどなあ」と思いつつ特に問題はなさそう…だったのはほんの数日のことで、とある日にチューニングしていたところ、びっくりするくらいの大きな音を立ててヘッドが向こう側へ「飛んでいきまして」、何よ何よと見たら塗装剥がれがあった箇所からネックがポッキリ真っ二つに折れている、別れてしまったふたつを繋ぎ止めるのは8本の弦のみ…とちょっと詩的に書いてみたりもしましたがともかくそういう状態になったのです。ネック折れという現象を目の当たりにした時に一番感じていたのは「想像していたのと違う音が鳴ってる~~~~」ということで、というのは、ネックが折れるというのは視界の情報としては木材が折れる動作それだけですが、実際はそこに弦が付いているのでありまして、ということはネックが折れた時も弦は振動することで音を発するのであります。なので想像が作り出した「ぼきっ」という可愛いサウンドはこの世界には存在せず、実際は「ぽぎゅらがじゅあんらんごろん」となり、加えて最後の「ごろん」の箇所は幾重にも残響しているので、より一層虚無感が増します。
そんな苦い想い出もあり当然一抹の不安は覚えつつ、まあ今回は大丈夫だろう…と信じて購入したところ、届いたギターは非常に状態が良いものでした。細かい傷以外には損傷がなく、細かく入ったクラック(塗装のひび割れ)は味わい深く、電装系もばっちり現役ときて、俺は勝った!!…と思いきや、全く考えていなかったところに大きな落とし穴がありました。なんと8フレットから後ろの音が出ない、というか同じ音しか出ないのです。要は、ネックが反り過ぎていて本来鳴らしたい箇所ではないフレットに干渉してしまっている…という楽器としてかなり致命的な状態でした。しかも。大抵のギターにはトラスロッドと呼ばれる金属の棒がネックに入っていまして、それによってネックの反りをある程度調整できるのですが、このギターにはそれがないのです(後に判明するのですが、トラスロッドではなく「本当にただの金属の棒」がネック内に入っていました)。ネックが反り調整も出来ない状態ではその固体をギターと呼んで良いかすら非常に怪しく、当然演奏なんて出来ません。またもハズレくじを引いてしまった…と絶望するも、その他の要素=即ち90%を占める見た目のカッコ良さは理想通り過ぎて簡単には諦めきれず、どうするかなあといくつかのお店に相談するも「これは修理出来ないですね…」とやんわり断られブルーになっていました。
したところ。普段使っているスタジオの方にさらっとお話ししてみたら「ここいいですよ」ととあるリペアさんを紹介して頂きました。このスタジオの楽器は大体そこで調整してもらっていて、これまで断られたりダメだったことは一度もないですね、となんとも頼もしいことを仰る。善は急げと連絡してみれば、全然できるっしょ、みたいな最高のトーンでお返事が来てこれまた非常に頼もしく、ではでは…とお願いして楽器を預けたのが去る2021年12月末のこと。
で、そのリペアさんから「終わりました」と連絡が来たのが1月中旬。意気揚々と取りに行ったら、見事に直っていました。しっかり全ての音が出る。しかも思っていた以上にすごく良いサウンド!ピックアップはジャリっとしたトーンでフェンダー系とはちょっと違うニュアンスで、そこに箱鳴り感も乗っかるので、ユニークだけども芯のある非常に良いサウンドでした!今度こそ俺は勝った!!という訳で、ICUにいて余命僅かだったおじいちゃんからなんともタフなおじいちゃんへと瞬時に生まれ変わった僕のギターをご覧ください。惚れ惚れするねえ。
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3. caroline 『caroline』(3月11日)
UKのバンドでRough Tradeからのリリース…というだけでもう一定の「良さ」が担保されているようなものですが、それにしてもこのcarolineは素晴らしかったです。音楽性の中心にあるのはミニマルなフォーク、ただし特定の地域では括れ切れない不安定な響きのもの。批評筋ではアパラチアン…とよく表現されていて、それも分かるのですが、そこにまとめちゃうのはもったいないと個人的には思います。というのは、これはよく分からないけど総合的にフォーキーだと「感じる」響きだからユニークなのであって、ヨーロッパやアメリカだけでなく中東やアジアンな要素もあるサウンドを特定の地域に落ち着けようとする行為それ自体がナンセンスだし、このバンドが持つポストモダンぶりこそが最も重要だと思うからです。それでもそれでも本当にあえて言うならば、最も近いのはGY!BEの無国籍感ではないかなあ。carolineは8人の大所帯バンドなのですが(ここでもちょっとGY!BEとリンク)、彼らの音楽は常に音に溢れているのではなく、緩急によって厳密に制御されている。日本人が好む「侘び寂び」と表現されるような渋みがあり、しかもその渋みがパンク / ハードコアからポストハードコアに至る鋭さと徹底された冷たさとも明らかに繋がっている。つまるところ僕の理想に近しいことを、比較的自分と性質の近しいイギリスのパンクロッカーたちがやっているのでした。最高ですね。
”ミニマルなフォーク”ということをベースにしていて、そこに少しポストロックやアンビエントのようなアプローチを混ぜつつどこか感情的…というのが、数年間を経た今mihauというバンドに対して客観的に感じるカラーなのですが、色彩感こそ違えどcarolineのそれは僕たちが考えてきたそれと近しく、親近感と愛情、そして同じ分量の悔しさと焦燥も感じます。
同じ時期にBig Thiefの新作『Dragon New Warm Mountain I Believe In You』もリリースされていて、むしろこちらの方が話題になっていた感じがします。僕もこの作品は好きで確かに素晴らしいと思うのですが、その一方で過剰評価されているようにも感じます。この差はなんだろう…と考えれば演奏家とリスナーの距離感に依るものだと思います。エイドリアン・レンカーの歌とcarolineの歌は発されている箇所こそ非常に近しいけれど───人間の心の奥深く、閉じかかっている扉の向こう───前者のそれはどこか寓話的で幼げな好奇心があり、だから人肌の熱と優しさを感じるのですが、後者のそれはこちらにわざわざ近寄っては来ません。入りたければ入ればいい、出て行くのだって自由だ…というこちらの方が実はオープンなのですが、彼らの心理に入り込んでいくのは勇気の要ることだとも思います。carolineこそが今年のベスト。
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4. Harold Budd 『The Pavilion Of Dreams』 (3月11日)
carolineと同じ日に買っていたHarold Buddの名作もこの時期にはよく聴いていました…というか、この作品は折に触れて聴き続けているのですが、レコードでは持っていなかったのでこの度無事に再発盤を入手したのです。再発したSuperior Viaductというレーベルが僕はすごく好きで、ここからリリースされるレコードは大抵ドープでキワモノで最高なのですが、その最高の群れの中に自分の好きな作品が堂々と入っていったこの感じも気持ちが良い。
作品そのものの幽玄さや耽美性は実際に聴いてみて感じ取って欲しいのですが、これに非常に貢献しているマリオン・ブラウンのサウンドにも是非耳を傾けてみてください。僕がこの作品を聴いていたのはジャズに傾倒していたのとほぼ同じタイミング───大学生の時なので、20代前後くらいなのですが、彼自身の作品よりも先に『The Pavilion~』であの美しいサウンドを耳にして、うっとりしていました。そうなれば当然マリオン・ブラウンその人の作品を聴いていくわけですが、ESPやインパルスなど所謂フリージャズや前衛ジャズの名門レーベルから出ていた彼の作品のサウンドがまた実に刺激的でありました。前衛とアンビエントの乖離を感じる人は多いようですが、実際のところは非常に簡単な話です。アンビエントも実にヤバい、刺激的で、ドープな音楽だということですね。
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5. 三上唯さんの個展に行く (3月29日)
下北沢で個展をやります…という情報を仕入れ、三上唯さんの個展に行きました。Joni Void +N NAOのジャケットをお願いし、それが本当に素晴らしい出来だったこともあって、彼女が描く絵の雰囲気を実際に見てみたく、いざ下北沢THREEへ。何度か行ったことのあるライブバーですが、彼女の絵がたくさん飾られているお店の雰囲気はいつもと少し違っているように感じられました。あそこに飾られることで三上さんの絵の繊細さが浮き彫りになり、その繊細さがお店の持つラグジュアリー感を引き出しているような、そんな相互作用でしょうか。
月並なことを申し上げるようですが、ひとつの作品を実際に目で見ることとネット上で見る感覚は当然異なります。三上さんの絵がユニークだと思うのは、その感覚のどちらに彼女の絵の本質があるのかが分からないし、どちらに本質を見出すのかをこちら側にそのまま委ねてしまうところがあるように感じるからです。彼女の作品がそれぞれに持つ具象性と抽象性は、この世界と繋がっているけれど断絶しているような、ラジオのチューニング中に突然キャッチした不思議な音楽のような、そんな浮遊感を僕に残していきます。
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6. OUT TO LUNCH (4月3日)
久しぶりにFOLKY FOAMYをやろう…と言い出したのが誰かは定かでないですが、「やろう」という意思を皆が持っていたことが分かっただけでもラッキーだったと、久しぶりに会って皆と話していたまさにその時思いました。主催してきたFOLKY FOAMYというDJイベントにとって、コロナがもたらした3密という前提と原則はただただ大打撃でした。集まれない騒げない訳ですからそりゃ開催できないよね、となって気付けば数年経ち、しかしそのままでは年月がただ経過していくだけですから、今年こそは何かやろう…と年始に結集した我らは急ピッチで準備を進め、ようやく開催したのがOUT TO LUNCHでした。
今回のFOLKYはライブも交えた催しに…という変化は後述する波のようが齎しました。そこから生まれたご縁がたくさんありました。ライブ陣として共演してくださったdiueさんとの出会いはまさにそのひとつです。彼女は普段の僕の行動圏内からは微妙に手の届かない箇所にいらっしゃる音楽家ですが、彼女はより「見せる」ということ、そして「魅せる」ということに重点的な方でした。見ていて非常に面白かっただけでなく学ぶこともとても多かったです。彼女から得た学びをどうやって活かしていけるだろうか…とあれ以来ぼんやりと考えています。
同じくDJとして参加してくださったYuji Yamanoさん、そしてマーライオンくんも最高でした。彼らの選曲はポップなんだけどドープ…という絶妙な線状にあり、FOLKYがもともと持っていた「ジャンルによる縛りでなく、ただ良いと思う音楽を流すこと」というテーマをとても意識してくださっていました。Yamanoさんは初対面、逆にマーライオンくんはそれなりに前から知っているけど初共演(しかもDJ)という、お互いにイレギュラーかつ急なお願いだったのにも関わらず快く出演してくださったこともとてもありがたかったです。
かなり急ピッチで進めたイベントだったにも関わらず、無茶なスケジュール振りの中で出演を決めてくださった演者の皆様、そして何よりもそんな無茶振りだらけのイベントに来てくださっただけでなく、たくさんの拍手をくださり、たくさんお酒を飲んでくださったお客様の皆様にこの場を借りて改めて感謝を伝えたいです。ポストコロナの生活の真っ只中、最初に企画・再スタートしたイベントが非常に好調だったことでとても自信が付きましたし、まだ続けられるなとも安堵しました。たくさんの初めましての方(前述した三上さんとは個展のタイミングでは会えなかったのですが、こちらでお会いできました)、いつもありがとうございますの方、そんな皆様と同じ空気を共有できたことが僕はとてもハッピーに感じられました。このハッピーをまた皆さんと共有できたら素晴らしいと思います、ですのでこれからもどうぞたくさんよろしくお願いいたします。
・触れておきたいこと①
FOLKY FOAMYは237さんとBUZZY ROOTSのおふたり=AkariさんとIzumiさんとの共同企画なのですが、今回のOUT TO LUNCHにAkariさんは不参加でした。しかしそれはネガティブなものではなく、むしろその対極にある結果です。コロナ以降で大きく変わったと思うのは、色々な形で人生が動いた人が多くいたことです。彼女がその中のひとりであることを非常に喜ばしく思います。タイミングがあった時からまた一緒に遊べたら素晴らしいですねAkariさん!
・触れておきたいこと②
“OUT TO LUNCH”というタイトルは、エリック・ドルフィーの名盤から拝借しました。言葉が直接的に持つ「ランチの為に外出する」というニュアンスがFOLKYの番外編を示すと同時に、エリック・ドルフィーというオーセンティックなジャズから望まずともはみ出てしまう不器用だけれど愛すべき人への敬意を込めました。ラインナップが揃ってきた時に感じたのは、ポップな要素の中にある「毒」をきちんと表出し示しておくべき…ということで、その点でもドルフィーは最適だったのです。
ということも踏まえ…237さんとIzumiさんがdiueさんのラジオに出演してイベントの告知をしてくださった時、エリック・ドルフィーの音楽性を「フリージャズ」と仰ったことがとても面白かったです。というのは、これは昔から続く「エリック・ドルフィーとはフリージャズなのか問題」というおじさんみたいな議論を導き出すものだからなのですが、ほどほどに抑えつつ僕の見解を述べると、彼のアドリブプレイは明らかにコードを遵守していて、むしろ極めて真面目過ぎるほど徹底してコードに忠誠を誓っているが故「前衛ではあるけどフリージャズではない」となります。ドルフィーは確かに通常の美学的な観点からずれたメロディを紡ぎ出すので、そこから生じる異化作用が前衛的な印象を濃厚にするのでしょう。ということは、ある意味で言えば───親しみやすくお洒落とか言われてしまいがちな流暢なメロディを求められる「ジャズ」からは遥かに解き放たれていた「自由なジャズ」である、ということは出来るかも知れません。
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7. particle (4月3日)
OUT TO LUNCHで使用したdysfreesia (particle)という名義に関して。mihauとは異なる少人数での編成を具体的に考え始めたのは今年の年始のこと。もともと人数の多いバンドだったことが災いして、コロナ以降の生活と環境の変化によって全く動けない時期があり、昨年末から再び動き出しはしつつも別の切り口が必要かもしれない…と感じていました。加えて、以前から弾き語りへのオファーがチラチラあったこともここに関係しています。時々書いてきたり言及してきたのですが、もともとひとりで完結していた音楽を「外に出す」為にバンドをしているので、弾き語りを人前で演奏することは前提自体がひっくり返ってしまうので違和感がありました。その一方、オファーがあるということはそういう風に聴いてみたいと思ってくださる方がいることを意味してもいるので、何かちょうど良いところを…と頭の片隅で考えていたりもしました。
それに対して「ああ!!」と思ったアイデアがあり、OUT TO LUNCHで初演するか…と自分から237さん・Izumiさんに「演奏します!」と宣言していたのですが、タイミングが悪くもうひとりの都合が付かずアイデアが試せないという事態になり、しかし自分から言った手前引き下がることもできず、慌てて初演の代替を考えた結果にあったのがparticleでした。つまりあれは「ふたりでやることをひとりでやることに置き換えた演奏」で「弾き語り+ αという構図とは別」、むしろ逆からのアプローチだったのです。
自分ではコントロールできない要素を配置する…ということが他の人と音楽をやること / 他の人に聴いてもらうことに関して僕が持ち寄る最大の美意識だと思っています。その時だけの音楽を常に表出させること。それはそのまま僕たちの生活と挙動とリンクします。録音を通じて過去にアクセスすることの途轍もない美と同じように、現在の儚さを、手に取られることもなく瞬間的に忘れられようともぼんやりとその感触だけが残っていく、ただそれだけの為にある美について、真剣に考えたいのです。
プラレールにトーマスを走らせ、おもちゃを配置して…みたいなことをいつ考えていたのかはもうはっきりしないのですが、もう少し深くアプローチすることもできたかなと思いつつ、面白かったです。ひとりで演奏することの内省を、ある意味では深くすることにもなったと思います。人の心の奥底で鳴るサウンドはあんな感じだと思いませんか…手に付けられないほど個人的で、フェティッシュで、ノスタルジックで、暴力的な?
(Yuji Yamanoさんから頂いた写真です、どうもありがとうございます!)
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8. 波のよう (4月3日)
彼女たちに出会えたことが今年の大きな収穫のひとつです。potatopotatoというバンド自体は前から知っていて…というのはmihauのまめちゃんが彼女たちと共演していたことを知っていたからですが、そのユニークな名前のバンドがさらにユニークに…というか浮遊感が浮き彫りになった「波のよう」なんていう形容詞をそのまま名前にするそのエキセントリックさを携えて僕に再認識されたのはTwitterでのこと。リツイートで飛んできた「三上唯さんが手がけたアートワークによる作品が出来ました」というポストを通じて何の気なしに聴いてみたら、素朴な歌とサウンドを爽やかで情緒的な空間で包んでいて、dysfreesia + mihauでやりたいこととリンクすることを彼女たちが高らかに鳴らしていたのです。そこまで遠くない関係性の人たちだったこともあって、嗚呼これは…とちょっとした悔しさも感じながら、いつかお会いすることもあるかもなあとぼんやり考えていました。
…とか思っていたら、OUT TO LUNCHの話し合いをしている時に237さんから「アメリカから一時帰省する友人のバンドを呼びたい」と提案があり、バンドの名前を聞いてみたら波のようだったという偶然よ。あれやこれやと当日を迎え、実際にお会いした皆さまは人見知りとクールさが混じっているような方々で、人前で演奏するのもすごく久しぶりということもあって結構緊張されていたみたいですが、あの音源に詰まっているささやかな心の高ぶりをきちんとあの場で演奏されていて非常に素敵でした。あの表現の仕方って簡単に思えて全然簡単でなく、バンド自体の抑制が聴いているという一点だけに絞ってもすごく才能を感じます。
発売されたCDを物販で購入したところ、カラー刷りの冊子を一部一緒に頂きました。そこに書かれている内容が実はかなり重要なもので、おまけにするの勿体ない…考え直しなよ…というものだったのですが、中でも面白かったのがメンバーの片山さんの文章の中にビル・エヴァンスのヴィレッジ・ヴァンガードでの名演の録音である『Waltz For Debby』と『Sunday At The ViIlage Vanguard』でのマイキングに関する著述があり(変態っぽいよね)、なるほどねえぇぇぇぇ…と読みました。すごく繊細で良い耳を持っているからあの音楽が出来るんだ、と非常に納得させられた次第です。
山本さん(a.k.a イモさん)とは音楽性だけでなくもう少し踏み込んだ話もし、彼女から「自分と同じものを感じる」という平野評の言葉を頂くことが出来て、とても面白く喜ばしい出会いでした。山本さんはアメリカに戻ってしまい、次にお会いできるのは何年後…という規模感での話なのですが、また一緒に演奏したいですね。演奏に留まらずたくさん面白いことが出来そうだと思わせてくれる、そんな演奏家に出会えることが僕の音楽活動に付随してくる大事な祝祭感です。
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9. 自転車 (4月6日)
最近僕と話した人からすればもう飽き飽きする話でしょうが、自転車を買ったんですね。昔から自転車は好きで、自分自身の自転車遍歴についても正確かつ結構細かいことを覚えていたりもします。一番初めに乗っていたのは補助輪付きの黄色い自転車。側面に動物のイラストが書いてありました。熊とライオン。象もいたかもしれない。その次は母親が近所の方だか同じマンションの方からもらったんだか買ったんだかの中古の子ども用マウンテンバイク。一丁前にギア変速がリアに付いていて、しかも軽かったので結構荒く乗り回していたのですが、割にタイヤがゴツく、砂利道とかでも全然へこたれないタフなちっちゃい子でした。その次は無印良品のシティサイクル、これが初めての「それっぽい」自転車でザ・シティサイクルなやつ。艶消しの銀で多分ステンレス製だったんじゃないかしら。オプションで純正のカゴをフロントに付けたりして。これに乗った時はちょっと大人の仲間入りみたいな気分でした。さらにその次は近所のホームセンターで買ったただのママチャリ。名も知れないただのママチャリ。高校生の頃に買った自転車ですが、個性的なものから統一的・画一的で周りから浮かず目立たないものへ…というこの遷移は幼年期から思春期における心の動きと密接に関係していて我ながら興味深い。「普通ので良い ≒ 普通のが良い」と今思えばやや抑圧的に買ったこのママチャリは大学生の頃にも持ってはいたのですがほとんど乗ることもなくなり、外に出して雨風に晒していれば当然錆びていくのであり、錆びていけばどんどん乗る気持ちが薄れていく…という悪循環に陥りました。乗るたびに気分が下がるとなるとそりゃ乗りませんよね。結局その自転車は実家自体が引っ越すタイミングで処分され、それと同時に僕と自転車の蜜月は終わったのです。
…と思っていたのですが、20代後半頃にクロスバイクなら乗れるのでは?軽いし?と神の啓示が訪れまして、まあまあそこそこのクロスバイクを購入しました。アメリカ製の白い自転車で、フロントとリアに取り付けられたギアからはロードバイクの影響をバシバシ感じ、太い訳ではないけど細い訳でもない(今思えば)ちょっとモッタリとしたデザインの新車。クロスバイクなので軽量かつ太過ぎないタイヤが付いていて乗り回しのバランスも良い。さあこれからバシバシ乗ったるぜえ…と思っていたのですけれども、歴史は繰り返すというかなんというか、まあその自転車も手放しました(ここでは書きませんが、その自転車には購入初日からワクワクハラハラする冒険談があります。また別の機会に)。その原因は新しい実家の立地にありました。というのは新ヒラノハウスは八王子市の山麓にあるものですから、どこに行くにも坂がキツいのです。クロスバイクだから坂も楽だろう…と思っていた俺は実に甘ちゃん。自転車が軽かろうとギア変速が充実していようと坂は坂であって、当然きつい。自転車を乗る時に「とりあえず坂を越えて…」と初手が決まっていることは想像以上にヘヴィでした。もうそれだけで萎え萎え。購入初日から乗る気がサーーっと引いていくのが分かりましたが必死に誤魔化し乗ったりしていたものの、乗るたびに疲れる。疲れの訪れと共に歩いた方が楽じゃん。早いじゃん。という恐るべき結論がどんどん裏打ちされていき、まあまあそこそこのクロスバイクも売られていきましたとさ。おしまい。
と言って終わらないのが僕の偏屈ぶり。何故ならば自転車への気持ちが冷めた訳ではなく、いやむしろ、タイミングが来たらまた迎えに行くからね…とまるで両親が決めた許嫁と結婚し自分の元から離れていく恋人を見送るような気持ちでずっといたからです。諦めの悪さでもあるし、自転車に乗らないことを環境のせいにして自分の体力のせいにしない狡さでもあります。その屈折したマインドが定めた次の自転車を買うタイミングとは即ち実家を出る時、そのワンポイントでした。
そうこうしてようやく実家を出た僕は、(新居の周辺が坂だらけでないことを綿密に確認してから)新しい自転車探しをしまして、ようやく購入したのです。スポーツバイクというよりはヨーロピアンなクラシックスタイルのシュッとした子です。前回のまあまあそこそこのクロスバイクに比べてグレードも上、クロモリの細身のフレーム、トップチューブが地面と平行になるホリゾンタルの形状でかなり軽い。タイヤも俄然細く、ハンドル形状を除けばほぼほぼロードバイクと同じような設計です。慎重に乗らないと軽々とスピードも出てしまうので緊張感はありますが、そのプレッシャーが自転車に乗ることの楽しさを何段階もステップアップさせてくれます。本当は写真とかメーカー名とか出したいのですが、盗難されちゃったりしたら嫌ですから伏せます。だもんで僕から言えることは、大変カッコ良いのです。あれに跨っている僕は普段の5倍くらいで盛れていると思います。自転車素敵ですね、おしゃれですね、とか言われちゃたらもうたまらない…好き…言ってください…好き…
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10. サボテン (6月14日)
自転車ともうひとつ前々から気になっていたのは植物でござんして。というのは僕の部屋は極めて実務的というか、レコード、楽器、音楽機材、本、それらを収める棚、机がふたつ、PCといった物たちが密集している具合で、良く言えば比較的ハードコア寄りの趣味の部屋兼秘密基地という趣なのですが、悪く言えば、生き物の感触が皆無ということです。他人を寄せ付けない感じがすごい。
だがしかし、生き物の感触を意識的に排除しているかと言えばそんなことはなく、むしろ緑のある生活には大いに憧れているのですが、じゃあ君に育てられるの?となるととても微妙。僕の母親は植物を育てるのが好きで、僕には名の知れない花々をささやかな庭に招き入れて慈しんでいましたが、それと同じような細かい世話をできる気は全くしません。となれば、我らビギナーが迷わず行き着くのはサボテンでございます。かく言う私も多くの慣例と同じようにサボテンに手を出したのですが、過去2回トライしたところ2回とも枯らしました。日当たり自体は悪くない実家の部屋でしたが、住まう人間が偏屈と根暗を兼任していたのが大きな問題。明るいのが苦手。部屋は暗い方が落ち着く。蛍光灯なんか以ての外。カーテンが開けられたの3年に1回。とこうなれば、住まう人間には心地良くてもサボテンにとっては地獄です。一方、水はあげねば…と強迫に駆られていた偏屈な僕は定期的に霧吹きしてましたが、半年くらいすると根元が怪しくなり根腐れしていて死なせてしまう…というのを2回繰り返しまして、嗚呼僕はあかんのだ。あかんやつだったのだ。と身に染みて理解しました。
とは言え育てたい…次は水草とかかな…ホテイアオイとか繁殖力がすごいからあんまり枯れなそうだけど、増え過ぎることもあるらしいからな…と頭の片隅で考えておりましたところ。サボテンを水で育てる方法があるよとインターネットで見かけまして、写真を見るとまあ可憐で素敵ではないですか。ググってみてください!
という訳でトライしてみました。東急ハンズでサボテンとガラス製の透明な鉢を購入。サボテンの胴体には水が触れないように気を付けて浮かべてみればまあ素敵。8月くらい?に根の黒ずみが気になり、もともと生えていた根をカットしてもう一度生やし始めてみたら、あれよこれよと根は伸び続け、今では白い細やかな根っこが見えています。水換えさえきちんとしていれば、カビに気が付いて取り除くことを怠らなければ、サボテンの水耕栽培は最も簡単な植物の育て方だと思う昨今。僕みたいに愛だけはあるけど生活力のない皆様には大変オススメです。そして何よりも僕が言いたいのは、うちの子が一番可愛い!
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11. ディスクユニオン (6月28日)
僕が知ったのはツイッターのポストでしたが、ディスクユニオンが個人情報の漏洩をしたみたい。と話題になっておりまして、その翌日にはディスクユニオンのオンラインサイトがクローズ・お詫びの文言だけが表示されるようになり、さらに翌日には登録しているアドレスへお詫びとご報告のメールが届きました。
色々なスタンスや捉え方があるのは当然ですので細かく言うのは避けますが、僕個人としては個人情報の漏洩云々よりもあのサイトを見れないことが大打撃でした。Discogsとは別方向のアーカイブとして、ディスクユニオンのサイトが音楽好きに多大な貢献をしていたことに気付かされたのです。実際のところ、ユニオンよりも巨大な企業やAmazonでさえも把握出来ていない・取扱いしていないレコードやらをユニオンが網羅していることはかなりの「あるある」で、新譜情報もカタログ情報も取り敢えずユニオンのサイトで確認する…というこの動作をしているのは僕だけじゃないはず。そうですよね。しかも他のお店よりも安いことも多いから買っちゃう。みたいな。俺ら経済回してるぜ。みたいな。
ですので9月頭にユニオンのサイトが復旧した時の「おかえり!!」感はすごかったです。これまでありがとうユニオン!これからもありがとうユニオン!ということで、これを書きながらユニオンのサイトをチェックしております、まさに今!
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12. 野菜ジュース (7月12日)
強がりではなく本当に、歳とったなあ~~~~~~みたいに感じることが僕にはほとんどなく、それは歳下の方々と話している時の伝わらない話だとか(PHSって伝わらないんですね)、聴いていた音楽の差とかそういう外的なものに由来するのがほとんど。お肌の調子が…太った…みたいな自覚症状がほとんどなく、もしかしたら観察力がないだけの話なのかもしれないですが、ともかくそんな中での唯一の例外は「野菜」への興味なのでした。
「野菜」。野菜取らなくっちゃとか、20代の頃は思わなかったもんなあ。僕はお肉大好きっ子ではないので、毎日ハンバーグ!ステーキ!焼肉!パーリー!みたいな食生活とはずっと縁がないのですが、それっぽいのはミートソースへの異常な執着心忠誠心とお菓子への些細な浮気心ですけれども、やはり心のどこかでは「野菜」が引っかかり続けるのでありまして。とは言えサラダとか毎日食べるのって大変じゃない…と感じているそこのあなた!野菜ジュースというものがあるんですよ!知ってました?
飲んでみるかあ。と近所のスーパーで何本か試してみて、一番野菜感があるもの(フルーツ感は求めていなかったので野菜感重視でした)、飲みやすいもの(トマトジュースには苦手意識があったので、それらしいものは排除)というかなりシンプルな二項を条件で篩にかけた結果、伊藤園の1日分の野菜に決定!ずっと飲み続けています。美味しい。なんか飲みたくなる。
肝心なのは野菜ジュースを飲み続けていることによる効力。自覚があるのはなんか透明感が出たかしら?お肌に?ということと、お腹の不調が減ったこと、そして何よりも俺野菜ジュース飲んでいるから!健康に気を使っているから!という自己満足と達成感を強行できる、という感じでしょうか。この辺を埋めることによって自己肯定感が少しだけ上がることに気付きましたので、自身を卑下する傾向にある皆様にもお勧めいたします!
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13. Jamire Williams 『But Only After You Have Suffered』 (7月14日)
僕のような未だフィジカル重視の頭固い奴のあるあるは「新譜追えない」というもの。だもんで、このJamire Williamsの新作も非常に気になりつつチェックしたのは今年になってからでした。去年買えば良い話じゃん、と言えば本当にその通りなのですが、昨今の円安の影響で輸入盤レコードも4,000円越えが普通になってくると、そんなにポンポンと買うことが出来ません。そうなるとなんとなく優先順位が付いてきて、これは後から…と設定されたレコードがそのままなかったことにされてしまう現象が多発していまして、この『But Only After You Have Suffered』というレコードもまさにそれ。で、こういうのは聴いたら大抵傑作ばかりなのがセオリー、これもまさにそのコースを勇み良く進みました。
Jamire Williamsは作品ごとに要素を「入れ替える」ような演奏家ですので、何が飛び出てきてもそんなに驚かないところもあるのですが、最近の彼はその要素をミックスすることに興味があるようで、この作品もそういう志向のものです。トラックベースのヒップホップと言えばそうなのですが、そこに用いられる音楽的な要素は雑多で、サイケロックみたいなものもトラッドフォークのようなものもなんでもあり。見た目的にもクレバーでジーニアス感がある彼ですが、音楽的にはさらに変態になっていて端的に「すげえ」という。
ヒップホップの流儀を持つジャズというのも全然珍しくなくなりましたが(リスナーがそれをジャズと受け入れるかは別の話)、この作品で提示されているものはその一個先という感じで、音響の感覚から作曲編曲に至るまで非常に硬派。ヘヴィなメタルっぽさすら時に感じるのですが、それの鳴らし方は非常に余裕があって有機的でもある…という奇妙さも随所に見受けられます。ここまで音響芸術的な側面のジャズが増えてくると、その揺り戻しとしてはこれまでのジャズ歴史を総括しながら要素をもっと削ぎ落としていて緻密な即興ベースのそれに…という気配を感じるのですが、どうでしょうか。新しい形のフリージャズとか来そうですけど。
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14. Duane Pitre 『Omniscient Voices』(7月14日)
前項のJamire Williamsと同じタイミングで買ったこちら。レビューを見てて興味が出たので買ったレコードでしたが、大変良い。一台のピアノとエレクトロニクスを混ぜ合わせたモダンクラシカルでミニマルかつシンプルな楽曲集なのですが、サウンドが変わっていて、異様に「硬い」んですね。ソロピアノ作品って大体が膨よかで優しく聴き手を包み込むような…感じで録音されることが多いし、この手の生音を含んだエレクトロニカに関しても然り。ですが、これはサウンドがパキパキしている。作品紹介によればピアノは「ジャストチューン」され…ということはかなり厳密にチューニングがされたものであるようで、普段僕たちが聴いているピアノのサウンドは「ジャスト」じゃないのかもしれないな、とも思いました。
生で演奏されたピアノをハードウェアのシンセサイザーに通した上で、Max/Mspで自動生成された音楽を録音している…ということでこれはサウンドの響き以上に電子音楽だった訳ですが、この独特な空気感は体験したことがなくて心地良いです。
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15. tooping (7月23日)
以前からライブやDJなどで声をかけてくださるほいさーさんからオファーを頂き、OUT TO LUNCHで出来なかった演奏形態をここでこそ…と胸に刻み、”tooping”というこの名義を始めることが出来ました。
演奏家や楽器そのものにマイキングをするのではなく、演奏する場にマイクをいくつか仕込み、そこにエフェクト処理を加えながらミックスを変えていく…という形態がこのtoopingですが、僕はそれを「その場で鳴った音全てで演奏している」と捉えています。小さな会場での自由即興の演奏では作家が発する本当に微かなサウンドにこそ本質があるし、僕たちの日常の膨よかさを演出するのは間違いなくバックグラウンド的なノイズにあります。
この音楽のアイデアはDavid Toopの演奏をYouTubeで見たときに浮かびました。開けた空間に音の鳴るものを敷き詰め、それを選別しながらサウンドを形成していくDavid Toopの演奏には事前に演奏を規定するルートが(恐らく)存在していません。即興的に鳴らされていくそれはパフォーミングアートに近いので、人によっては「音楽」ではないと捉えるかもしれませんが、少なくとも僕はそれをとても音楽的だと感じて見ていました。それぞれの音の持ち主が囁きあいながらその場に平等に存在する…という在り方は、拡大的に解釈すれば望ましい社会の形でもあります。響きそのもののキャラクター、それの重なり合いによって生じるハーモニーや歪み、リズミックな要素の同期とすれ違い…この有機的な動きは実に社会的で、異質なものがきちんと共存できるということはこの上なく素晴らしいことです。これは社会が積極的に目指すべき到達点であり、同様に、そこに例え旋律がなくとも非常に「音楽」的だと僕は思います。
この「場所そのもので演奏する」アイデアに、以前からあった弾き語りにほぼ近しい小さな編成での演奏ととエフェクト処理の要素を混ぜ、客観的にも「音楽」的にまとめ上げていきたいのが”tooping”です。曲そのものはmihau用に作曲・演奏されたりされなかったりのある程度ポップなものでもあるので人肌感はありつつ、違う「音」へのアプローチを喚起させることができればとても良いと思っています。
toopingはリアルタイムでミックス処理を変えていくダブエンジニア(というのが一番近しい気がするのでそう呼んでいるのですが)と演奏するスタイルで続けていきます。今回一緒にやってくださったのはjunkroom_factoryことオカシンペーさんでございます。シンペーさんは普段は絵描きで、僕たち関連のアートワークも手掛けてくださってますが、音楽活動としての協働は初めてです。とても良い意味でmihauとは違う形のアプローチが出来そうなので、こじんまりとした距離の近いライブなんかも映えそうですね。ほぼPAのない演奏とかね。いずれにしても非常に楽しいものになりそうなので、今後ともよろしくお願いいたします。
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16. Wu-lu 『Loggerhead』(8月1日)
ここ数年来の話になるのですが、ヒップホップとハードコアというレベルミュージックの二大巨塔に非常に興味があります。ラップしたいとかめちゃ速く演奏したいみたいなことでもあるんですが、それよりは質感の話のような気がします。つまり、ザラッとした、ローファイな感触への興味かなと。あとは鬱屈したエネルギーの発散方法へのアプローチという視点?になると思うのですが、ずっと長く抱えていたこれらの要素が近年より顕在化してきたのです。フォーク的・ジャズ的な比較的柔らかい質感の音楽と同じように硬い質感の音楽も昔からとても好きでよく聴いていたのですが、以前は90sオルタナがほぼ独占していたその枠に80sハードコア辺りの音楽性が流入してきています。これには僕のアイドル=Sonic Youthが間違いなく関係しているのですが、最近はここにイアン・マッケイの影響も加わってきました。ストレート・エッジ志向との共鳴…というか再発見もありつつ、ここでは思考的な話はあまり関係ないので音楽性に絞ると、マイナー・スレットとフガジを繰り返し聴いていたところからブラック・フラッグやバッド・ブレインズへの興味が大きくなりそのままSSTとDischordへ…というすごく分かりやすく典型的なルート上にいるのが今です。
という中で、今年聴いてすごく印象的だったのがWarpから出たWu-luのアルバムでした。何故って、この音楽がまさにハードコアとヒップホップが混ぜ合わさったとてもエッジなものだったからです。グランジ的ではあるのですが90sのアプローチ(静から動へ…)とはなんとなく違って、KORNのサウンドを再吸収してグランジ的に解釈しているような。この混濁っぷりはまさにポストモダン的で、音楽に関する考え方としては後述するThe 1975と共通するものを感じます。
もうひとつ感じたのが、黒人が白人の音楽を飲み込むことへの抵抗のなさです。black midiのモーガン・シンプソンにも共通する点だし、それこそバッド・ブレインズがその先駆と言えそうですが、音楽面において彼らには人種的なカラーの感覚が希薄というか、視点がもっと自由で風通しの良さを感じます。2022年に至っても社会構造は圧倒的に白人に対して優位であり、音楽にも白人対黒人という弛緩と緊張を繰り返す関係性が存在し続けています。ケンドリック・ラマーに象徴的なヒップホップの進出とブラック・ライヴス・マターにはその香りが色濃い訳ですが、「それだけではない」ことをWu-luは明らかにしています。
黒人の社会進出や不均衡の是正を進めるべき・白人が積極的に自分たちの利潤追求ベースのシステムを見直し崩していくべきという立場に僕はありますが、黒人が白人社会に異議を申し上げる=「そうである」ことへの追求と同じように、黒人が白人文化に歩み寄る=「それだけではない」ことも大事だと思っています。そこにある一種の寛容さも、棘を削ぎ落とすには重要です。UK音楽はこの「それだけでない」ことの歴史でもありますが、この一種の寛容の姿勢には、アメリカ以上に人種混濁的で厳格な階級社会であるイギリスと国柄も関係していそうです。この階級についてのあれこれは後述するマーク・フィッシャーの所にも出てくるので、やはり繋がっているなあと思います。
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17. マーク・フィッシャー (8月11日)
マーク・フィッシャーに関しては時折書くことがありましたが、シンプルに言えば僕は彼の考え方が好きです。何故ならば、資本主義の歪みはおかしいと思うから。です。シンプル。僕の思考のベースは社会主義に依拠していますが、一方であれは神のシステムだとも思っています。人間には使いこなせない。欲望があるから。となると、僕が思う望ましい社会システムは「社会主義的な志向を持ちながらそれではない仕組み」となります。マーク・フィッシャーが提示したポスト資本主義社会へのアプローチはそういった点で僕の思想とも近しかったのです。
なのですが、ポスト資本主義思想は現在の左派の目標地点であることが明確でもそれを根拠とする理論が示されていませんし、マーク・フィッシャー本人も亡き今、どうアプローチしていくべきか…というところで流れは滞留しています。今年邦訳が出た『ポスト資本主義の欲望』という本もその感覚を───光は見えているが、トンネルは長く続いていて終わりがあるとは到底思えない感覚を生々しく体現しているようで、とてももどかしい本でした。この本がそもそも講義録であり、しかもマーク・フィッシャーの自殺で講義そのものも中断しているから、尚更その印象が強いのでしょう。
ですが、ここに残されている彼の思想の断片から得る発見も多いです。僕が一番面白いと思ったのは、人種的な差別を撤廃するのは階級制度である…というアプローチの仕方でした。人種的な対立はお互いを攻撃する・排斥することに直接繋がりますが、現在の階級においては人種的な対立が希薄化し、存在しないケースも起こり得る。階級社会では対立の軸は下部と上部の関係性へと向かう、その結果人種差別は無くなっていく…というこの考え方、全てに賛同はできないのですが、とても面白いと思いました。思考を紐解く、あるいはそれを組み替えていくプロセスは意外と身近にあったりするのだなとも思います。
最近思想の本を手に取ることが多くなりました。ここまで勉強することへと興味が湧くとは自分でも意外でした。今から大学に行き直すことも全然ありだなと、最近はよく思います。実際のところ、10代の終わりくらいで学びたいことが明確にある人ってどれくらいいるんでしょう。かなり珍しいように思うのですが…。所謂就職活動云々とは乖離した別の位置で、年齢を問わず大学への進学が容易に出来ること、何度でも学び直す機会があることってとても大事だなあと思います。そういう風に社会が変わっていくと良いのですが…
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18. Peter Rehberg 『at GRM』(8月15日)
自分でもびっくりしているのですが、ピーター・レーバーグの死に対して非常にダメージを受けています。それには彼自身の活動はもちろんのこと電子音楽の名門であるEditions Megoがなくなる…ということへのダメージも関わっているように思います。Megoのリリースの充実ぶりは「偉大だった」と言って全く差し支えないですし、一時代を築いた…という表現ですら適切ではありません。一番しっくりくる表現は多くの演奏家やアーティストの受け皿であり憧れの向かう先であった、これからもそうあり続ける、そしてそこに帰属できること・依存できることがこれ以上ない幸福であった…というものだと思います。
Editions Mego周辺の動きで最近ユニークだったのはPortraits GRMというレーベルです。色々と端折りますが、磁気テープレコーダーや特注のシンセサイザー、ミキシングボードなどを備えたフランス音楽研究グループ=INA GRMは実験音楽の制作と周知を目的に公費によって(ここすごく重要)設立・運営されていた機関です。既に録音された素材から音楽を構成するミュージック・コンクレートの手法を研究していたこのINA GRMですが、この機関が現在の音楽家に対して制作を依頼した、あるいはINA GRMの為に制作された音楽のリリースをしていたのが新設されたPortraits GRMというレーベルで、これを運営していたのがピーター・レーバーグとEditions Megoでありました(繋がったね)!
しかしピーター亡き今Portraits GRMも終わるのかな…と思っていたところ、Shelter Pressというこれまた近年の実験音楽・電子音楽に多大な貢献をしているレーベルが肩代わりして運営していくそうで、Editions Megoの終焉によって閉ざされそうだったピーターの意思がこちらでは生き続ける…という非常にエモい展開をしております。さらに劇エモだったのが、ピーター・レーバーグが亡くなってから初のリリースがピーター・レーバーグその人のリリースだった!という。
ピーターがPITAとしてGRMの為に演奏したコンサートの模様を収めたのがこの作品とのこと。抒情的なA面に対しB面はより実験的な内容で、それぞれ使用する機材も変更されています。2009年はMacbook、2016年はモジュラーシンセと機材がガラッと入れ替わる訳ですが、その7年間の間に彼の思考の中でどんな波があったのかは今となっては分かりません。以前ここの別投稿でピーターについて結構書いたのですが、この人の思考の連なり方は本当に分からない。分からないからこそとてもスウィートだったとも思います。PITAに関してはこういう音源がまだありそうな気がするので、続々とリリースして欲しいです…彼の音楽を聴くことはそのまま彼を偲ぶことと同義なのですから。
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19. 京都へ行く (8月20日)
タイトルそのまんまなんですが。前に行ったのが中学生の修学旅行だった(気がする)ので大袈裟でなく多分20年弱?ぶりとか…だもんで、そもそも以前京都で何をしたのかの想い出が綺麗サッパリなく、生八ツ橋を作ったことしか覚えていないという愚かな私なのですが、だからこそ気分的には初京都であった訳でござる。夜行バスで東京を出て、ほとんど寝れないまま朝方に京都に着き、京都タワーを見たときの変なざわつき。そもそも京都タワーってこんなに駅に近かったのか…という驚き。東京と違って電車よりもバス文化であり、あんなに一日中バス移動していたのも久しぶりだな…というノスタルジー。そういうものに囲まれていた二日間でございました。
目的はふたつ。ひとつめはブライアン・イーノ展でした。これがなかったらそもそも京都に行こうだなんて考えもしなかったはず。そもそもイーノのインスタレーションが日本で見られる機会がそこまで多くないのに加え、彼自身もかなりアクティブでこそあれ高齢には違いなく、万が一何かあった時に後悔しないように…という気持ちもありました。私が京都で見たあれらのインスタレーションは平たく言って「最高」で「永遠に見てられる」というものでしたが、感想を連ねていくとそれだけで長文になりそうなのでここで割愛しておきます。とか言いながら蛇足なのですが、会場もすごく良かった。無骨なデザインの古い建物を使用して…という視点はまさに京都にある愛しきメンタリティの一部のように感じましたが、イーノ自身もそれを汲んでいた気がします。すごく繊細な所作。
もうひとつはMeditations。この人ちょっとヤバくてキてる人だ……という判断をすぐ下すことの出来る音楽人ワードこそ「めでぃてーしょんず」という呪術の言葉でありますが、東京においてもこのレコード屋さんの引力の凄まじさは常日頃感じます。Meditationsが伝わった際の「あなたこっち側の人ね」みたいな認識のされ方とか、ニヤつく瞬間です。そうなれば当然実店舗を見てみたい訳であり、京都に行ったら絶対に寄りたい…という密かな渇望がこの度実現しまして、バスに揺られながら行ってきました。
繁華街からやや離れた場所にある小さなビルの2階にそのお店はありました。入った時に思い出したのは新宿ユニオンのクラブ館が雑居ビルの2階?3階?にかつてあった時のこと、あのダーティな感じ。下北沢のJet Setを(良い意味で)グッとナチュラルに汚したような感覚でもありました。なんだけど別にしみったれている訳ではなく、むしろ(品揃えも店構えも)高度に、しかし嫌味が全くなくデザインされている印象でした。値付けされてなく作品自体のコメントもない…という東京では半ば都市伝説みたいになっている情報も本当で、気になるレコードは値段を聞きに行かなくてはならない…というコミュニケーションが自然と発生するのもとても良かったです。ドアを開けると外側とは違う空気が流れている…というのは最近だと東京のKankyo Recordsでも感じましたが、あの非現実感にハマる人がたくさんいるのはよく分かる。
恥ずかしかったのは、当初予定していた日が店休日であることが分かって急遽予定を前倒ししたのですが、Meditationsのロゴの入っているTシャツを着ていることを失念しておりまして、お会計の時に店員さんに「Tシャツ、ありがとうございます」と言われたことでした。すごく恥ずかしかった…。そのまま少しお話ししたところ、ブライアン・イーノ展とMeditationsを組み合わせて京都に来ている人はかなり多かったらしく、いやあ分かるわあ…としみじみ。色々買いたかったのですが、NumeroのEccentric Soulシリーズ新作とトミー・マンデルという方の『Music For Insomniacs』=不眠症のための音楽という初期シンセサイザーのアンビエントみたいな作品を買って私は東京へと帰りました。
基本出不精な僕ですが、ああしてたまには遠くへ行くのも乙でございますね。次はどこへ行こうか。
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20. The 1975 - Part Of The Band” (8月24日)
The 1975というバンド、デビューした時から話題になってましたが当時の印象は「エモ + 80sポップ」という印象で、端的に言うとダサいなと思っていました。いきなり脱線しますが…僕は80s音楽への忌避感が未だにあるタイプです。それにはいくつかの理由がありますが、そのひとつは10代で熱中していたのが所謂オルタナの「ローファイ」なサウンドであったこと、若干リンクするのが80s録音に多く見受けられる”過剰さ”やリバーブの質感が苦手であったこと、そしてもうひとつは80sポップが持つ熱狂的・享楽的な価値観がすごく苦手だったことに由来しています。後者に関して言うと、物心ついた時から景気が良かった経験のない僕からすれば、バブルのことを楽しそうに語る大人は「リアルじゃなかった」し「間抜けみたい」だったのでした。そんな価値観からするとほぼ同世代の演奏家が80sに傾倒する感じは結構ダサく思えたものでして、The 1975のデビューと同じくらいの時期からシティポップという今も昔も寒いワードが使われ始めたこともやや関連して、自分とはあんまり縁のないバンドとカテゴライズしていました。
そんなバンドのイメージが少しずつ変わってきたのは”People”という楽曲を彼らが発表した時くらいからでした。思いっきりパンクロックでインダストリアルなサウンドの曲に加えて、寒々しい白塗りの化粧な格好で明らかに「マンソン」を意図しているPVが出てきてびっくりしたのですね。加えて、フロントマンのマット・ヒーリーによる「男女比率が50:50のフェスにしか出演はしない」という発言を受けてサマソニ全体のラインナップがデザインされた…という記事を見て、これまでのチャラいイメージが拭われて「かなりモダンな考え方の持ち主なのでは…」と感じもしました。そんな頃合いにちょうど新曲が公開されていて聴いたらまあびっくり。最高だったんですよね。
フォーキーな手触りの楽曲が素晴らしいことはもちろん、サビに入るとテンションが落ちる構造やサウンドデザインの緻密さ、そしてその曲に乗せられた詩───「皮肉なことに私は意識高い系なのか? ジョークのネタか? それとも自分のエゴを想像力と呼んでいる、元コカイン中毒の平凡な痩せっぽちというだけなのだろうか?」という美しい内省を綴っていく韻律のセンスなど、何もかもが抜群に飛び抜けていた”Part Of The Band”という曲は、僕の一生涯においても忘れられない大事な曲になると思います。そしてこの歌が収録された新作『Being Funny In A Foreign Language』は、これまでの作品群と違ってきちんとアルバム的で統制が取れていた印象が強く残る傑作でした。
流石ポストモダンということもあって、あからさまと言っても差し支えないであろう引用がこのバンドの特色ですが、マンソンからイーグルスへ…というこの流れは心底音楽が好きでないと成し得ないし、ある意味では理解しがたいセンスだとも思います。こういう一種不可解なバンドにも大きな人気がある…という事実には驚かされるし、同様に希望だなあとも思う昨今です。
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21. 自転車をどんどん改造している (8月30日)
タイトルそのまんまです。初めは改造していくことなど全然考えていなかったのですが、少し気になるところを交換して…と始めてしまったところ、ならここも、あそこも変えたい、となってしまいまして、気付けばオリジナルの状態から1/3はパーツが変わってしまいました。こういうところだよ平野、お前が散財しているのは…という内からの声も当然聞こえていますが、止められないのよねえ。極めて平たく浅はかに言えば、自分がただのオタクであることを思い出させてくれて、自転車サイコー。
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22. ホームページを変えたい → 変えた (9月9日)
弊Babera Recordsでは今夏にtofe nvocのリリースがありました。それに合わせてホームページを更新していたところ、いろいろなところが気になってしまい、必要もないのに少し変えました。気になっちゃったらやってしまう、これは僕の持つ悪質な病理のひとつですが(いくつあんだよ)、もう仕方ない。
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23. ハードコア (10月)
10月くらいにSSTのオンラインサイトからレコードを買おうか2週間近く迷い、あまりにも円安だったので一旦保留にして今に至りますが、未だに円安が終わらない…どうしてくれんだよ。とまあこんな感じで、何故かはよく分からないのですが、少し前述した通り今年は80sハードコアパンクの年でした。それが一番自分にしっくりくるサウンドだった感じですね。DischordやSSTのレコードをこぞって聴いたりする未来だなんて数年前には想像できなかっただろうなあ。Fugaziのライブ映像もYouTubeで見まくって、今となっては(これまた前述した)イアン・マッケイの影響でSGが欲しい。あんなに歪ませてギターを弾くことがあるかは疑問ですが…「SGなんて鬼みたいな形じゃんナンセンス」とか言っていた僕の過去が綺麗さっぱりとデリートされました。アンガス・ヤングよりも圧倒的にイアン・マッケイだろう…が僕のスローガンです。
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24. Mimi Parker - Low (11月6日)
日本時間でいうと7日?なのかしら。Lowのアランさんがなんだか意味深なツイートをしていて、そろっと調べてみたら、バンドメイトであり彼の奥さんでもあるミミ・パーカーが亡くなったとのことでした。55歳、乳ガン。日本にいて情報がすっとは入らないとは言え、全く想像していなかった。特に近年のLowはガシガシ傑作を出していて勢いがあったからこそ、それがずっと続くのだろうと思っていました。
僕の中でそれまで「良いよね!」くらいのバンドだったLowが、『Double Nagative』を聴いてから「最高じゃん!」へと変化。シンプルに美しさを追求し、ミニマルな構成へ傾倒することへのシンパシーからスロウコア(サッドコアという呼び方はあんまり好きじゃないのでこちらで)と自分との親和性は強く感じていたのですが、Lowの近年の突出ぶりにはすごく励まされ、未来を感じていました。まだまだ色々なことが出来るのだなと。だからこそまっすぐに悲しい。バンドの未来がどうなるかも分からないけれど、彼女が不在になった世界はやはりどこか空虚に思えます。
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25. Big Thiefを観に行く (11月17日)
海外アーティストのライブに行くことが久しぶり過ぎて、会場でちょっと泣くかと思いました。僕は180cm近く身長があるので、前に行くことはなるべく避けるのですが、今回ばかりは前に行きました。とか言ってたら前から二番目くらいにいて自分でもびっくり。
そうなんです、Big Thiefのライブに行ってきました。チケットが全く取れず本公演は敗北…と絶望していたら追加公演が決まり、執念の申込の結果当選しましたのです。という訳で恵比寿ガーデンホールへ。ガーデンホールってただの体育館みたい…という身も蓋も無いことを前にも感じたなと思い振り返ってみたら、Hostess Club Weekenderで来たことがあるんでした。ディアハンターとファナ・モリーナとフォーテットを体育館で見る、というかなり豪華な学祭ノリです。脱線すると今も毎年開催しているFRUEも体育館でやってますね、また行きたいです。
で。どうしても観たかったBig Thiefはそりゃもう素晴らしかったです。かなり序盤に機材トラブルがあったりして混沌とした空気が流れたのですが、それを上手く利用して曲を繋げていったバンド、すご過ぎました。思っていた以上にライブ・バンドだったことにも驚き。エイドリアン・レンカー + バンドという構図の為、バンドメンバーがしっかりとエイドリアンの動きを見ていて、彼女に呼応するように演奏をしているのがよく分かりました。
ライブでよく分かるのは、彼らが間違いなくアメリカの伝統を受け継いで音を鳴らしているバンドである、ということ。爆音なディストーションギターが炸裂する瞬間、あの無骨なエモーションの感じはニール・ヤングとクレイジーホースだなとか。シンバルがライドしかない簡素なセッティングを意識させず叩き方でニュアンスを自在に変えていくドラム、そしてドラマーのあの身体の動かし方や佇まいはリヴォン・ヘルムだなとか。アメリカンなバンドのあらゆる影を彼らに投射しながら眺めていました。
エイドリアン・レンカーはパンクロックでもちろんカッコよかったけど、個人的にはバック・ミークの出しゃばらない安定感に痺れました。なんならバンドで一番目立たず主張しないポシションにいるのですが、いなかったらバンドはそもそも成り立たなくなる…という最重要ポイントでもあるのがバック・ミークなんですねえ。エイドリアンがギターを数本変えて演奏していくのに対して、バックは一度も持ち替えずずっとハムバッカーの載ったストラトキャスターを通していたのもカッコ良かった…!
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26. David Sylvianのレコード (11月19日)
デヴィッド・シルヴィアンのアルバム『Blemish』と『Manafon』がレコードで再発される、と知ったのは9月のこと。この2作、特に『Manafon』は大学生だった僕の嗜好に大きく影響した作品でした。これまで聴いたことのなかったサウンドでした。歌があるけど軸ではない。だからと言って背景にある訳でもない。楽器のサウンドも同じで、軸ではないけれど背景でもない。全ての音が拡散していてそこまでまとまっていないのに、音楽として破綻していない───「全てが然るべくして歌っている」。この音楽に対してさらにおかしな印象を持つのは、デヴィッド・シルヴィアンの歌が極めてぱきっとしているからです。抽象的で輪郭のぼやけたような歌声だと作品全体のサウンドにマッチするはずが、彼はそうしなかった。メロディもサウンドも含めて歌がぱきっとしている…言うなれば「原初的」なことへの驚きを感じるミュージシャンと音楽って珍しいですよね。
どれだけ聴いていたかはさておき、所謂「前衛的」と呼ばれるようなフリージャズや自由即興の類もあの当時それなりに聴いていたと思います。どちらも演奏者同士の「反応」を聴けば大変に面白く刺激的だった訳で、デレク・ベイリーのそれは他者との反応ではなくとも、自分自身の何かしらに対する反応として解釈した僕にはなんとなく理解できるところがありました。そのデレク・ベイリーが参加している『Blemish』にもその反応の動きが希薄ではあっても存在はしていて、でもそれは互いに絡んでいるようで勝手に動いているようでもありました。『Manafon』は…それがさらにばらけたような印象でした。世界全体の動きをかなり俯瞰して眺めているような気分になりましたが、何れにしても、すごく面白かった。僕にはすぐに解せないし、永遠に解すことがないような気もしているのですが、そう感じられる音楽に出会えたことはとても幸福だと思います。
ちょっと蛇足気味に付け加えると、どちらもフェネスが関わっていると知って興奮したのも覚えています。世代感…と思いつつ進めると、タイミング的にはフェネスの『Black Sea』の少し後に『Manafon』が出ています。僕は後から『Manafon』にフェネスが参加していると知ってかなり驚いたのですが、何故ならば彼の音楽的な核を『Manafon』を通じて知ったような気がしたからです。『Manafon』の後に『Blemish』を聴き、『Black Sea』の後に『Endless Summer』を聴いた僕は、それらを言わば時間軸を無視して脱臼気味に追っていた訳なのですが(きちんと並べると…リリース自体の時系列で言うと『Endless Summer』→『Blemish』→『Black Sea』→『Manafon』。対して僕が聴いた順番は『Black Sea』→『Manafon』→『Blemish』→『Endless Summer』)、このように過去に遡るようにして聴いていくと、『Manafon』は(フェネスにおける『Black Sea』も、なのだけれど)進んできた過程が実は明確になったりもして、デヴィッド・シルヴィアンの孤独を思い知ったような気持ちにもなったものです。
というやたら長い前置きを経て本題なのですが、レコードで聴いたら2作の印象が少し変わったんですね。相変わらずどちらもとげとげしていてフレンドリーではないけれど、当時はヒリヒリとした鋭さに撃ち抜かれていたのに、今となっては『Blemish』は優しくもあって距離が近く、対する『Manafon』は圧倒的に遠くなったけどそこにあるものが何かは分かるような、そんな感覚になります。これらと対峙している時、僕は音楽だけでなく、経過してきた時間の蓄積と自分の関係性を聴いているような気がしてくるのでした。自分自身と周囲、さらにそれを取り巻く環境、それらの進行と加齢、それに伴う崩壊。スコット・フィツジェラルドは人生の崩壊の過程を繊細に書き続けてきた作家でしたが、デヴィッド・シルヴィアンも同じタイプの作家だったのだと、改めて思い知った次第でございます。
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27. Gavin Bryars『The Sinking Of Titanic』 (11月19日)
このアルバムに関しては思い入れが強く、すっと語るのが難しいのですが、それでもすっと語るとするならば「葬式でかけて欲しいアルバムNo.1」であり「収録曲が全部良い完璧過ぎるアルバムNo.1」ということになるかと思います。てなもんですから、ずっとレコードで欲しいと事あるごとに言ってきて、時折オリジナル盤とかを見かけて云万円…みたいになっているとウググググ…となっていてそれでも無理して買おうかなと迷っていた唯一の作品でございまして、結局あれこれ考え買わず、ちょっと悔しかったりもしつつその悔しさを感じられるのはビコーズ幸運だから。ということ。
そんなある日、とうとう驚愕の知らせが…Harold Buddのレコードを再発したSuperior ViaductがGavin Bryarsにも手を出した!!!!!!!やべーーーーーーー!!!!!!
Superior Viaductが経営しているStranded Recordsというお店のメールマガジンが週に一回くらいのペースで配信されてまして、そこにGavin Bryarsと書いてあった時のあの騒めきね…多分今年で一番上がりました平成ギャルの如く…↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
冗談でなく初めから2枚買おうかとも迷ったのですが(保存用に…というやつですね)、そう欲張るでないと仏の声が聴こえたので1枚を瞬時に予約し、入荷連絡が来たら即日に引き取りに行くマジっぷりハードコアっぷりでレコードを再生しました。曲自体のノイズとアナログ盤由来のノイズとが溶け合っていくようで、これだなと思いました。CDやデジタルでも素晴らしさは分かるんだけど、当時の音響イメージとして考えるとレコードで聴くべき作品ってありますが、これがまさしくそう。両面それぞれ25分間の音への埋没でございます。一方は沈没していくタイタニック号の甲板にいる自分であり、もう一方は最後まで祈りを止められない儚い路上の人としての自分。ある意味では、ただそこにある音を聴く行為とは突き詰めるとこのアルバムでしかできない経験かもしれません。大事にします。そしてこの時間を大事にします。あなたにはそんな音楽がありますか?
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28. 松本花とかいじゅうたち (11月27日)
松本花さんと初めて会ったのは調べてみると2019年10月でございまして、dysfreesia + mihauとして2回目のライブの時でした。僕たちがそこまでライブをしていないのもありますが、最初期の演奏から聴いてくださっていた友人です。僕もまた彼女のバンドであるSUNEを聴いて、近しいところにいるようで違うところに「も」位置している印象を持ったことを覚えています。彼女の世界観にははっきりと時間の流れがあって、それが言葉の展開によって紡がれていく、要は彼女の物語の中に僕たちは送り込まれるのですが、僕の作る曲はもっとぼやけていて、抽象的で、共通の言葉や言語感があるようでないようにも思えるような、そんなものだなと感じています。
そんなこんなで、花さんがSTYLO#2に遊びに来てくださったり僕も彼女のライブに行ったりを続けていて、前々から何か一緒に出来たらなあ…と思っていたところ。dysfreesia (tooping)の演奏を一緒にやったら良いじゃないか!と閃きまして、お声がけして実際にスタジオに入って練習もし、いざ本番…な当日のこと、LINEを見ると「コロナになってしまいました……………」との悲しい知らせが花さんから届きまして、共演が先延ばしになっていたのです。
まあそんなこともあるよね。またtoopingもやるだろうから、その時にまたお声がけしよう。と思っていたところ。花さんから「レコ発イベントをやるので一緒に演奏しませんか」とのお誘いが来ました。ここ数年の彼女の動向もぼんやり把握していて、現在は一人での演奏も多いとも知っていましたので、レコ発で違う形態で演奏すると映えて良いね!と思い、すぐやりますとお返事をしました。mihauのそらまめ氏とも演奏したいとのことで、その編成を基に構成を考えていたのですが、挙がっている楽曲のキャラクターから考えるとドラムがいた方が良い…とのことでmihauのマキさんも召集いたしまして、ここに「かいじゅうたち」が結成されたのでした。結集か?
彼女の曲は骨子がしっかりとしているのでアレンジは簡単に出来る…訳もなく、むしろ難しかったです。彼女の歌を核にしながら各々がどうやって抜き差しするか、これまでの彼女の録音や演奏とは異なる新しいカラーをどうやって提示するかについて考える必要がありました。加えて、僕に任された「ギター」なるポジションは尚のこと難しい…何故なら、極論「いらない」からであります。いらないですよね。彼女の歌とピアノ、そこを支えるリズム隊…で映えるはずなので。けれども任されてしまった以上は頑張りました。普段は歌いながらギターを弾くことの多い僕ですので、こんなにもギターギターしたギターを集中して演奏することもなかなかなく、であれば、なかなか出来ないことをやろう。ということも頭の端に置きながら、数回のスタジオでまとめていった感じでございます。
そうして当日演奏してみれば、大変盛況とのことで安心いたしました…とすごく他人事っぽい言い方になるのは、これまで経験してきたライブの中でもずば抜けてほとんど誰からも話しかけられなかったからであります。なのですが、後から人伝に「ギター上手いって言ってたよ」的な褒詞をいくつか頂いたことから、嗚呼良かったと感じている次第です。
今回の演奏に関して。イメージの中心に据えていたのは70sのティン・パン・アレーのような職人気質な感じ、そしてジョン・フルシアンテのギターだぜ!みたいなノリだったのですが、実を言うと両者のどちらもさして好きな訳でもなく大きく興味がある訳でもなく。ニューミュージックが持つ良き時代みたいなファンタジーにはほぼ魅力を感じず、レッチリであれば音響のデザインとして演奏をしていたジョシュ・クリングフォッファーを圧倒的に推している僕からすれば非常におかしな話なのですが、そのアプローチが浮かんだのは間違いなく花さんの楽曲の影響であり、「ギタリスト」な感じを当てはめた方が圧倒的に良いと感じたからでした。そうして「ギタリスト」な感じをやってみたら思いの外楽しく、またやってみたいなと思っております。かいじゅうたちもまたやるんではないでしょうか。勝手なこと言えないけども。
あと、ステージに上がった時に遠巻きで「おしゃれだねえ」と言ってくださった方にもありがとうとお伝えしたいです!聞こえてました!聞こえていないふりしていたけど!
(後日頂いた写真です、が、何故こんなに遠いのだろうか…)
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29. 驚愕のカイロプラティック (12月2日)
タイトル以上のことは何もありませんが…数年ぶりにカイロプラティックに行ったら身体がスッキリしました。現代医学を感じます。すごいハイテクな椅子に横たえられました。
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30. 自転車を改造していたらネジが破裂した (12月6日)
改造しまくっている自転車、とうとうフレームとタイヤ以外のパーツはほぼほぼ変わってしまった感じなのですが。ハンドルとフレームを結ぶステムというパーツを交換して、レンチでネジネジしていたところ、とんでもない音と共にネジが破裂してびっくりしました。金属の裂ける音ってすごいのね…「ピギャあああん」言いましたわ。その音に驚き過ぎて呆然とし、ようやく少し落ち着いてから原因を探っていくとどうやらネジの不良だったぽく、しかし裂けてしまったネジがステムのパーツにも残留してしまって外すこともできず、結果交換となりました…悲しい…それにしてもすごい音だった…。
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31. そしてあらゆるものが壊れていく (12月8日)
・ギターのチューナー
松本花とかいじゅうたちのライブ前リハの時、ギターの音が突然出なくなるアクシデントが数回あり。かなりハラハラしながら本番はハプニングなく乗り切ったのですが、翌日のバンド練の時にも同じように音が出なくなる瞬間が多々あり、チェックしていくとどうやらチューナーが故障した模様。フットスイッチの故障だろうか。買い直し。
・シールドケーブル
自宅でアンプに繋いでギターを弾こうとしてシールドを手にしたところ、なんだかおかしい。ん…と思って確認したら、プラグとケーブルの間に明らかにおかしい隙間がある。見事に断線していたのだった。しかしそのシールドケーブルは買ってからほとんど使ったことがなく…てことは初期不良だったのか…不可解過ぎて自宅に侵入した誰かが強引に引っ張ったのではと妄想してから頭がくるくるしだしたので止めた。処分。
・オーバードライブのエフェクター
とある方が作ってくださったちょい高いモデルのレプリカのオーバードライブペダル、音がとても良くて愛用していたのですが突然鳴らなくなる。これもやはりスイッチの故障っぽいのだけれど、中身を開けて確認してみたところ外観上は問題がなさそう。いじいじしてみるも全然不具合の原因が分からず。仕方なく本家を買い直し。
・iPodのSSD
もう10年とか…それくらい長く愛用して使っているiPod Classic、もう存在の何もかもが好き過ぎて、壊れても部品を入れ替え入れ替え使っているのですが。だいぶ前にHDDがダメになりSSDに換装、そこからは比較的長く保ったのですが昨年動作しなくなり、再び交換。これでまた当分は…とか思っていたら、なんと壊れた。ダメになるの早い…新しいSSDを買い直し交換。
・iPodのイヤホンジャック
SSDを無事換装、動作も問題なくしているので本体を元通りに戻していざ再生…したところ、音が明らかにおかしい。ベースの音が歪みまくっている。イヤホンの断線かしら、とも思って他の機器に差し替え試しても問題なく、そうなると明らかにジャックの問題となる。開封する際、閉じる際にどうやらどこかを傷付けたっぽくナーバス。交換パーツを見つけられたから良かったけども、これから先に枯渇してくることを考えると実にナーバス。部品を買い直し交換。
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32. 体内年齢 (12月9日)
健康診断に行ったら身長体重測るやつがタニタのすごい子で、体内年齢も分かるものでした。数値を見てびっくり。なんと16歳でした。酒・タバコやらない肉食でもないとこうなるんですね…
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33. Manuel Gottsching (12月12日)
マニュエル・ゲッチングが亡くなったそうです。僕が一番初めに聴いた彼の作品は日本でのライブ盤『Live At Mt.Fuji』という作品で、正直全然ピンと来ませんでした。何をしているのかがよく分からなかったのだと思います。過去の自分を正当化する訳でもないのですが、でもこの感想ってすごく的を得ているように今では感じていまして、というのはマニュエル・ゲッチングという演奏家は「何を期待するのか」によって捉え方がまるで違う作品ばかりを創っていたなあと思うからです。
『Live At Mt.Fuji』を買った動機はクラウトロックのアーティストを聴いてみたい…というごくシンプルなものでした。それよりも前にクラウトロックを聴いたことはなかったので、CANとかクラフトワークよりも先にマニュエル・ゲッチングを聴いた僕はいきなり訳の分からないものにぶち当たったということになります(CANを先に聴いていても同じような壁に相対することにはなりそうですが…)。クラウトロックそのものがまずかなりアブストラクトで、音楽のジャンルというよりは利便的なカテゴリー分け・国別で音楽を仕分ける為の用語ですので = J-POPと同じですので、マニュエル・ゲッチングを聴くとクラウトロックを聴くことには確かになるのですが、想像していたものとは違うものを聴くことになる可能性も高かった訳であり、実際にそうなったということです。今ならこう考えられるけど、当時は全く解せなかった。
じゃああの頃の僕はマニュエル・ゲッチングに何を期待していたんだろう…?
サイケロック? アンビエント? ハウス? ミニマルテクノ?
あの頃の考えをすっと引き戻すことは最早できませんが、代わりにひとつ言えることがあります。僕は彼の音楽によってそれら全てを聴いていたのだ、ということです。彼の音楽の抽象度の高さは、僕に音楽の聴き方を楽しくさせる方法を教えてくれたのでした。音楽にジャンルは関係ない、これはまさしくそう、僕の音楽の聴き方はまさにこれ。しかしそれと同じようにジャンル分けの楽しさは存在していて、僕はそのゲームの中にもいる。何故かというと、ジャンルで分けられないものにぶち当たった時の混乱はかけがえのないものであり、それらを紐解き思考する手助けになるのは蓄積された知識と想像力であるから = 即ちジャンルとカテゴリーに無理くり収めてみることで、その音楽の異形をより知的に認識できるから、ということです。こうしてあらゆる音楽を理解できるだなんて思い違いだし、そんなのはあまりにも都合が良すぎますが、一方こういう一手間は今強く求められているエンパシーの形成にも一役買っているように思います。彼は何を考えていたんだろう? 何に興味を抱いていたのだろう? 周囲から理解されない自分自身をどう感じていたのだろう…?
彼の名盤のタイトルである『E2-E4』というのはチェスにおける王道の初手です。物事を始める初手は彼によって示されましたが、この音楽は終わりがフェイドアウトによってぼやかされています。終わり方の決定権はこちら側に委託され、僕たちはそれを想像力で補うことになります。別の言い方をすれば、想像力によって僕たちは音楽を紡ぎ続けることができるということです。例え作者がいなくなってしまおうとも。これこそが音楽を永遠に続ける方法です。そんな、マニュエル・ゲッチングが教えてくれた些細だけどもとても大事なこと。
あなたはあの音楽をどうやって終わらせますか?
録音物には残らなかった音楽の終わりが、どういう形で過去では鳴っていたと思いますか?
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34. M-1 (12月18日)
調べてみれば2011年でした。地上波の放送が全て地上デジタル放送に移行した年です。そして同じく、僕がテレビと縁のない生活をし始めた年でもございます。つまり僕は地デジに乗り遅れてそのままテレビ難民となった人間なのですが、もともとテレビを積極的に観ていた訳でもなく、どっぷり見ていたのはお正月のお笑い番組とM-1くらいでしたので全然不都合がない。冗談でもなんでもなく、年間で視聴時間30分未満とかだと思います。なのですが!既に申し伝えた通りM-1からお正月へとリレーされる年末・年始の漫才キャンペーン期間に関してはテレビを観たくて仕方なく気が狂いそうなのです。がるる。
なので例年、ざわつきを感じつつ知らないふりをして年末年始をやり過ごしているところがあるのですが、Twitterのタイムラインは当然僕の嘘を乗り越えていく。この時期にはM-1の結果がすぐに僕に知らされる。誰が出ていたかも把握していて、前日の段階で多分これはオズワルドが敗者復活戦を勝ち取りそのまま優勝のコースだな…と観測・大会直前くらいのタイミングでTwitterを見てみれば本当にオズワルドが敗者復活戦を勝ち抜いていて「俺の予想通りだな…」なんて勝ち誇りながら夕ご飯を食べお風呂入って、さてさてとYahoo!ニュースを見たら、なんと今年のM-1はウエストランドが優勝しただと!?!?!?!?!?!?
タイタン芸人で二組出場しました!!って言って既に快挙っぽかったのにウエストランドが優勝しただと!?!??!?!?!?!?!
ウエストランドが優勝しただと!??!?!?!?!?!?!?!?!?
爆笑問題好き・カーボーイリスナーな僕としてはタイタン芸人も若干推している訳ですけれども(詳しくはありません)、比較するならばキュウの方が独自性がある上にセンスも抜群で輝かしく好き、個人的な好みはさて置いてもラインナップ中最も賞レースから縁遠そうなウエストランドが優勝するってどうなってるんだろう。と気になってしまってすぐにYouTube観るよね。そこで漫才をしているウエストランド、確かに勢いのあるとても良い漫才をしていて、これまでの彼らのネタの中でも飛び抜けているというか、別格でした。あれは間違いなく追い風に乗ったな…。さや香の方が漫才は上手いと思う、なのだけど、会場と上手にグルーヴしたのは間違いなくウエストランドだったと思います。こういうの面白いよね…
とは言え、一個気になっていること。「窮屈な世の中だけれど希望を見た」的なことを言う人が多いんですけど(Mっちゃんとかね)、ちょっと違和感がある。彼らの言う「窮屈な世の中」って何を示しているんだろう? 例えばそれが差別用語を使わないとか、ルッキズムの発言をしないとか、女性蔑視の発言をしないとかそういうことを示しているのだとしたら、時代錯誤的だなあと思います。マジョリティにとってもマイノリティにとっても居場所のある社会づくりの為の一種の思いやりや優しさと「言いたいことが言える」は直接的に繋がらないことです。関係はしているけど、言いたいことが言えた方が良いことだってたくさんあるけれど、同じような力学として「言わないでおく」方がベストなことだって当然存在しています。
「何がOKで何がNGか」ということを考える局面は色々あって、歌に詩をつける時なんかもまさにそうなんだけど、「自分がどの立場から発言しているか・表現しているか」を常に考えていくことが大事かなと最近は特に思っています。加えて、それが強者やマイノリティを一方的に支持する結果になっていないか、とも。「寛容」と共に差別意識丸出しの発言・表現が出て来たりする可能性を考えるとちょっとげっそりする。元掲示板の管理人とか元IT会社社長とかメンタリストとか、酷い例はいくつも見てきましたよね。強く批判される一方、彼らがそれでも求められ続ける土壌は確かにあって、ウエストランドが勝ち抜く土壌とそれは完全に一致せずとも少なからずリンクはしているように思います。良くも悪くも今の日本の閉塞した空気感が勝者を決めたところはあるはず。
とかいうとウエストランドアンチみたいに聴こえそうだけど、元々は単に優勝するとは思わなかった…ということから考えが膨らんでいるだけなのですよね。彼らはヒールとして機能すると思っていたけど、今年の顔になってしまうだなんて、めさんこ素晴らしい!!目の前にあるものがどうかだけでなく、表現によって社会全体の空気を飲み込んでしまうあたり、本当に現代の漫才なのだと思う。絶対違うと思っていたけど完全に読み違えていた。本当の意味で───どんな漫才でもコントでも現在を切り取り表出させる点において、優勝は彼らしかなかったなあと思います。
ウエストランドおめでとうございます!!!
ビバ爆笑問題!ビバタイタン!
次はキュウだね!
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こうやって振り返りながらまとめてみれば、2022年という年も良きこと悪いこと含めて色々あったなあと思います。そしてやはりそれなりに長い文章になってしまいました。それだったら定期的に更新しろという話ですね。反省反省。とは言えこの長期間の振り返りみたいなのもなかなか面白いですね、そして意外と覚えているものです。
毎年のこと来年はこうしようああしようと思う訳でして、当然今も来年にやりたいことが既に浮かんでいるのですが、今年はそれに対して少しずつ準備していたりで、ウキウキしつつ不安でもあります。上手くいけば良いなと思いますが、何よりも僕(たち)が納得して楽しみながら前に進められれば良いなあと思います。反面、思っていた以上に困難なことはたくさん、そして次々に到来していて、去ったと思えばやって来る。僕自身どうすれば良いのか分からなかったり、どう乗り越えていけば良いのか分からないことがあります。今年はそこに対して沸々と考え続けてきた一年ではありました。そして答えはまだ出ない。ある意味では今年もなかなかヘヴィだったと思います。加えて、形こそ違えど同じような困難が皆さまそれぞれに起こっているのでしょう。それに対して打ちひしがれていたり消耗していたり奮闘していたり、色々な形でやりくりしているのだろうとも想像します。だからこそ改めて、僕は皆さまのおかげで今年も生きてこれました。来年もまた、そうして皆さまと上手く荷を分け合いながら時間を共に過ごせたら、それはとてもとても素晴らしいことでございます。重ね重ねですが、いつも本当にありがとうございます。
それではまたお逢いしましょう、良いお年をお過ごしください。
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