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>>> some words? = thinking (or sinking)

mihauと名付けられた僕の身体の外側の意思、あるいは棺桶としての彼女たちについて

こうして文章を書く場を自分自身で設けた、または課した、ということは、ある種の欲望なのか、あるいは責任感なのかは正直分かりません。ただしこの場を作るということに関しては、(バンドとしてではなく)レーベルとしてホームページを作ると決めた段階で真っ先に頭を過ぎって行ったことでした。それは「宣伝として必要である」という経済的な意味合いというよりは、そういう空間が欲しいな、と単に思ったことが大きいです。とは言え、これまで個人ブログなど持ったことがなく、むしろそういう存在に対して疑問感すら抱えてきた人間としては、その心の変容の具合が自分自身でもなかなか理解できなかったりもしていて、人間とは液体のように流動的な存在なのだな、と感じてもいます。そして実際に、人間の身体の約60%は水分なのですから、それもある意味では科学的な根拠に基づいているのかな、とも思います。


とりあえずここに関しては、平野 望というひとりの人間が気の向くままに言葉を並べていく空間にしたいと思っています。もちろんレーベルという名の土地の一部分を借りているので、音楽のこと、バンドのことが主になるとは思いますが、それだけである必要性も正直全く感じていないので、まあ、ゆるりと、書くべきと感じたことを書いていければ良いな、とまるで意気込むこともなく捉えている次第です。願わくば、この文章を楽しんでくれる人がいれば、それはとても素敵なことだと思います。


さて、こうして土地が開拓され、言葉を置いていくことが出来る空間が発生した時点において、一番初めに何について書くべきか。ということは割と悩ましい問題です、ですが、どう考えてみても、そこへの解答は必然的にひとつの筋道を辿っていくのでした。即ち、そもそもこのレーベルを立ち上げることになったきっかけであるもの、バンドについて、dysfreesia + mihauという人間同士の繋がりとコミュニティについて書くべきだと思うので、ちょっと進めてみたいと思います。


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2019年8月10日現在において、dysfreesia + mihauは(バンドが素直に奏でている形としての)音源を表明していません。あなたが現時点で僕たちに関して感知できているのは、その不可思議な言語、あるいはただのアルファベットの羅列のように見える名前と、数枚の写真程度です。複数の女性と、男性がひとりが写ったその写真もしかし、雄弁ではないでしょう。


言ってしまえば僕たちは今、おしゃべりになることを意識的に控えています。

それに対して、そうして欲しい、と言っているのは、他ならぬ僕です。


正直に述べるのであれば、この文章に目を通してくださっている方───そう、それはまさに今ここのセンテンスに目を通しているあなたであり、同様に、あなたと同じような行動をしているまたはしていた他の誰かのことです───に対して、僕(たち)はかなり不誠実…という言い方は少し過剰かなと思いつつ決して外れてはいませんが、もっとソフトな表現をするならば、優しくはない、何れにせよかなり秘密主義的な立ち振る舞いをしている、という認識は間違いなくあります。当然と言えば当然です。


実際の僕(たち)のこと、どんな表情をするかとか、どんな空気を醸しているかなど、多少の人間性を知っている / 知らない、そのどちらにせよ、(今から言葉にすることを信じてくれるかどうかはさておき)僕は自分自身をどちらかと言えば誠実で真っ当な人間だと思っているので、その不誠実さについて日々心が痛んでいます…というのは、はっきり言って大嘘です。どちらかと言えば、と恐る恐る前置きする必要は全くないくらい、今の状況を楽しんでにやにやしていたりします。それでも僕の誠実さはある程度担保されると思ってはいるのですが、それは多分、僕の思考の救い難い捻れと、この点に関して”だけ”はやたら自分自身への評価が高いという不思議な現象によるものだと思っているので、あまり相手にされない方が賢明かもしれません。


しかし中には、何故にそんなことしているの、と問う方もいらっしゃるかもしれないので、それに関して述べておくと、それは何もかも、僕の抱えている違和感から表出しています。近年の極めてコンビニエントである諸々の風潮に対して非常に違和感を覚えている、のです。


例えば気になる事象が発生した時、今の僕たちは必要とする情報を驚くべきスピードで処理し、把握することができます。知る、ということに限って言えば、昨今の僕たちはかなりの優等生だと思いますが、しかし僕の違和感はその先にあります。そうして知ったことに対して、僕たちは極めて薄情であり、愛情を傾けることのできない存在になりつつあり、知られたものを蓄える能力に関しても著しく退行し始めているように感じています。知識を積み重ね、それを自分自身の経験を混ぜ合わせながら再構成し、継承し語り継ぎ、次の世代へと繋げていく、その連綿とした営みにこそ、目まぐるしく想像するのも到底困難で不可能な程に長く続いてきた人間社会の原点があると僕は思うのですが、それがこれから先の未来へも同様に続いていくのか、という点に関して、僕は非常に疑問です。僕たちは気付いていないだけで、あるいは目を逸らしているだけで、比較的瀕死の状態にあるのではないか、というのが僕の正直な感慨なのです。


もちろんそれらの営みは、数列化し処理されていくデータベースの中に格納されることで未来永劫続いてくのかもしれません。それ自体は人類のネクストステップだ、という具合にも実際思います。記録されていくことも、その数を爆発的に増やすことができるでしょう。それによって手を差し伸べてあげられる事象はたくさんあるはず、いやむしろ、なくてはならないと思っています。しかしそのデータベースの中にいる僕たちは、空気の共有と五感によって感知している現実的な存在と比べると、少し形が違っているのではないか、とも感じています。それらは確かに数字としては嘘を付いていないのでしょうが、実際に触れ、その含有を五感によって汲み取っていく経験を前にしてしまうと、極めて虚ろな存在であるように思えるのです。僕たちの身体は、経験と積み重ねてきた時間により想像以上に綿密に構築されているのであって、単なる平淡な数字として表すことはできないと考えています。あなたが感じ取る可能性を持つ僕(たち)は、数字の羅列の中では正確に存在することがそもそも出来ません。僕たちは皆、一種のバグです。乱数的な存在です。あなた達を脅かす可能性を抱えた、致死的なウィルスであるかもしれません。


明確に申し上げて、僕は強欲であり、同時に寂しさを抱えている厄介者です。あなたの愛を傾けて欲しいと思っています。しかし困ったことに、僕は誰かにとっての利便的な存在ではありません。僕のひとつの側面と、別の側面同士が反撥していることなど当然でしょう。お湯を注いで3分で形を成す事のできるような、常に笑顔を失わずにいられるような、そんな美しい線描による存在では全くありません。多くの過ちを犯し、多くの人達を傷つけてきた存在です。だからこそ、面倒かもしれませんが、僕のことをその情報だけで見つめて欲しくない、と考えています。僕の不健全さや欠損の具合を、あなたの感覚によって実際に感じ取ることで、認識していって欲しいのです。僕の何某かを判断するのであれば、僕から発される言葉や音を聴いてからが良いと思います。音は嘘をつくことができない不器用かつ不自由な存在です。それによって僕の言葉が真実か嘘かどうかを判断されるのが、とてもスマートかつ素敵な方法だと思います。


加えて今のタイミング「だけ」は、僕(たち)は極めて厄介な存在であることを意識的に選択できる状況にあります。僕(たち)は意識さえすれば、その全てを掴み切ることのできない謎の多い存在としてある、あなたの行動によってようやく僕(たち)を知ることが初めて出来る、そんなアンチ・コンビニエントな存在であることが許される状況に置かれています。自分自身がアブストラクトな影になる感覚には、実に多大な快感が伴っています。かつ、それがあと1ヶ月後━━━2019年9月22日に引かれた線を超えてしまえば自ずと失われていくと自覚しているからこそ、それを出来る限り楽しんでおきたい、とも考えています。


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今回結成に至ったmihauというバンドに関しては、2018年の1月にアイデアが到来し、そこから徐々に動き始めた、というプロセスを経ています。しかし僕個人としては、十代半ばの頃からバンドを始めたいと考えていました。そういった細やかなアイデアが状況に敗れ去り、あるいは人との出会いが足りず実現できない(しきれない)ということを繰り返してきたので、十年来の願いが結実した、というなんだか感動的で殊勝な趣も確かにあるのですが、実際のところは、十代の頃に考えていたことが実現しないまま、しかしなんだかんだと生命維持装置によって延命だけはしてきた結果、今になって発露した、というのが僕の感じていることとしては正確です。


これは他の点でも感じることが多々あるのですが、ある視点によれば、僕の青春は未だ終幕できていない、ということですから、それって美しいことなのかな、輝かしいことなのかな、と疑問に思うこともあります。年齢的には大人と呼ばれる頃合いになって久しく、周囲の人たちに比べて、自分自身の変化のなさや停滞ぶりに驚くことが多くなってきたからです。しかし、青春にケリが付いていないという状況にはヘヴィな局面もままありますが、大凡センシティブで素晴らしい経験であることも事実であり、だからこそ大切な気持ちや時間の最中にあるのだとも思います。実際のところ、僕には十代の頃が楽しかったという記憶があまりなく、美しい記憶は年齢に関わらず音楽に関することばかりという体たらくで、そう考えていくと結果的には今が一番楽しいじゃんね、という状態に常にあります。それがいつまで継続するかは分かりませんが、少なくとも続く限りは甘受し尽くしてやろう、という欲望を僕は抱えています。


mihauに関して、色々な人に言われましたし、これからも言われ続けるのだろうなとも思っているのですが、バンドが皆女性によって構成されたのは単なる結果論に過ぎません。様々な都合や状況によって人が抜けた穴を埋めていった結果、気付けば皆女性になった、というだけの、確固たる信条が綺麗に欠けている詰まらない話でしかないのです。そもそもバンドを立ち上げた時には、バンドはちょうど男女半々によって構成されていたのであり、僕の理想はむしろそちら側にあった、ということは、書き記すことによって何かしらの価値や感慨を生み出す場合もあるかもしれません。


ただしこの男女のバランスに関して言うと、然るべくしてなのだろうか、と考えている点もあることは確かです。僕個人の歴史を紐解いていくと、多くの局面で僕を支えていたり応援してくれる人は昔から女性だったことへ自然と辿り着きます。転機をもたらしたのも、困難な状況にある際に支えていてくれたのも、ほとんどが女性でした。何が因果しているのか、前世の行いが悪かったのか何なのかは未だにはっきりしませんが、兎にも角にも昔から男性社会において疎まれ排斥されがち、またこちらとしてもマッチョイズムなノリに嫌悪感を抱き続けてきたそんな僕でしたが、如何なる状況においても女性たちは僕を見捨てずにいてくれましたし、今も友人の7・8割くらいは女性だったりします(人によっては自慢のように捉える方もいらっしゃるかもしれませんので、一応お断りを入れておきますが、何で男の子の友達があまりできないんだろうな、と僕は日々自問していますし、長年解消されない大きな悩みのひとつであります)。なのでこれは当然の帰結なのかもしれない、と考えることはよくあります。着地するべきところに着地したのだな、という感覚に包まれてもいます。


しかしそれが因果してと申しますか、僕は自分自身とバンドとを切り離して考える必要があると考えるようになりました。バンドの一員として、ではなく、ひとりの人間とバンド、として活動することを意識し出すようになったのです。その考え自体は、完全に作曲を僕が担っていた最初期の頃合い、バンドが動き始めてから朧気に考え続けてきたことではあったのですが、のんちゃんがmihauに正式に参加することになった今年の5月のこと、それによりmihauが全員女性になったことが決定打となり、結果実際にそうした、という流れを汲んでいます。


前述したように、僕はこれまでの時間の中で多くの男性に嫌われる、あるいは全く構われないという傾向にあったが故に、女性に対して巨大な尊敬の念を抱いています。憧れを抱いています。言ってしまえば、女性には勝てないし、そもそも勝負をする必要性もないと思っています。それが何の為の闘争なのかが全く理解できないからです。男と女は対立するもの、ということ自体は分からなくはないのですが、構造が違う限り理解が及ばないことはあるでしょうから、しかしそれを理由にした戦いは極めてナンセンスというか、何故男性はそんなに威張っているのだろうね、君たちは皆女性の中から育まれたというのにね、というのが僕自身の正直な考え方です。


しかし、いやだからこそ、僕は男性の側にいるのだ、ということを強く意識することもよくあります。どんなに距離が近かろうと、僕は彼女達と完全に同化することはできない、彼女たちが切々と感じている痛みや、繊細な感情の揺れに完全に寄り添ってあげることができない、というひとつの諦念のような、あるいは乗り越えようのない規則のようなものを学び取ってきたことは、僕の人生においても数少ない貴重な学びのひとつであったかもしれません。またそれが僕に与えてきた影響も計り知れないでしょう。


そんな考えを持つ僕の懸念とは、複数の女性とひとりの男性、という構図にありました。mihauの中に属し、自分自身の席を用意することによって、僕はmihauの一部を担うことになりますが、僕の立場で彼女たちの社会に加わってしまうと、ひとりの男性によって複数の女性が支配し指揮されている集団、という旧態然とした家父長制のような、割と危険な構図に必然的に落下していくのであり、僕にはそれが恐ろしいことのように、そしてまた回避するべきことのように思えました。少なくとも現代においては、その構図は極めて前時代的な趣を擁しているのであり、現在活動する集合体としては実に不健全であると感じたのです。


例えばバンドの中に他の男性がいたり、あるいは僕自身がリーダーという立ち位置でなくバンドの一構成員であれば話は180度転換し、僕も当たり前のようにバンドの中に属することができたように思います(そしてそこにこそ、現在という時代が抱えている数少ない美の可能性のひとつが結晶しているとも思います)。しかしそれが現実から逸れていった時点で重要だったことは、置かれた状況に対して最も適切な関係性を用意することでした。男女の性差によって社会的・力学的な関係性について考えなくてはならない必要が生じること、それを懸念すること自体が、これから先の時代に笑い話にできるような状況になり、即ち社会的にきちんと男女が平等になることでどんな選択も当然として受容されるようになれば本当に素晴らしいと思いますが、少なくとも現在はそうでないと思っています。今という時代は、戦後の世界全体が模索しながら、女性の地位についてあらゆる方が闘争している時期に未だあります。そしてそこに猛反発する人がいる以上(その多くが男性であることがまた象徴的だと思いますが)、僕が考え得る限りにおいてベストであるのは、この選択肢でした。


ただし自分でも書きながら痛感していますが、この話はかなり微妙な線を沿っています。僕は「ガールズバンド」という言葉(存在ではありません)が大嫌いで、それは簡単に言えば、何故女性にだけそんな寒々しく痛々しい称号が与えられるのかが理解できないからです。その言葉には、使う方がどれだけ意識しているかは別として、男性の抱える選民意識や優越感がべっとりと貼り付いているように思えます。ということも踏まえて、mihauをそういう厄介な枷から解放したいのであれば、早い話、僕がバンドの中に飛び込んでしまえば何もかも済んでしまいます。「ガールズ」じゃなくなりますからね。ところが僕はそうしなかった、そうできなかったのは、悪しき名前と悪しき人間関係の構図とを天秤に掛けてみた時に、後者の方がより羞悪である、と判断した為です。ただしこの点に関して言えば、それぞれの考えによって僕が非難されることも充分あるだろうなあ、と考えています。


ただし改めて認識したいのは、女性と男性の社会的な立ち位置を変えていくことは取り組み次第でいくらでも可能だったとしても、根元的な差異=身体の構造については(医療的・外科的な手法を施す、あるいは機械技術を駆使することを除けば)どうしようもない、ということを受け入れながら、それを如何に互いに補完し合うか、という点にあると思います。僕が日々耳にしているmihauの不思議な質感のサウンドとは、まさしくその彼女たちの身体構造によるものが大きいと感じています。僕の発することのできる音と、彼女たちの発する音はその始点・視点どちらにおいても異なっていて、その混ざり具合にこそ、ユニークな点があると思うのです。こと音楽の中において、僕たちは互いを補完して支え合っているように(僕には)思える以上、他にするべきはバンドを社会的な力学の柵から解放することでした。というような思考の過程を経て、前述したように僕自身はバンドの外側に自分の席を準備することとしたのです。


さて話が大幅にずれましたが、そんな考えもあり、僕はバンドの外側に佇む自分自身に対して、別の名前を与えることにしました。dysfreesia、という名前は、とあるタイミングで自分自身に与えていた路上での名前であり、ヒップホップのラッパー名のような感覚のもの、遊びばかりが先に迸る名前でしたが、それを今回の音楽活動に用いることに関しては比較的自然だったと申しますか、抵抗が全くなく、これもまた辿り着くべき箇所に辿り着いたのだな、と感じています。


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dysfreesia + mihauという試みは、吐き出され(てしまっ)た僕の言葉をどう終末させて眠らせるか、という観点に準じています。インダストリアルな観点にすり替えてみれば、産業廃棄物をどう処理していくか、ということと同様です。そういった意味で、彼女たちは僕の言葉の向かう寝床であり、棺桶であります。少なくとも今の時点で言えば、ですが、その棺桶は実に素晴らしい質感です。しかも尚素晴らしいのは、それがもっと良くなっていくだろう、と思わせてくれる点にあります。場合によっては、あなたの吐き出した言葉が眠る先としてもおすすめしたいくらいですが、しばらくは僕が独占したいと思っていますので、そこに関してはご理解ください。


ここまで記述してきたことも踏まえて申し上げると、mihauというバンドは、僕ではありません。彼女たちは僕の聴いているもの・見ているもの、それらが心の中に描いていくものを忠実に再現する為にいる訳ではありません。棺桶である彼女たちが抱えているものは、たった一台の映写機ではありません。彼女たちは、複数の映写機を納めたひとつの優しげな部屋としてあります。僕が吐き出した有象無象の言葉に対するテーゼとアンチテーゼを兼ねるものとしてあります。客観的な視点としてあります。林の中から常に僕の様子を注視している、姿を見せない虎の群れとしてあります。そしてもっと言うなら、最終的に彼女たちの存在意義とはここに行き着くのですが、僕が誤った道を歩んだ際に背後から撃ち殺す為の手段としてあります。そして僕の亡骸は、彼女たちの中で眠ります。そういう仕組みにこそ、mihauの全てがあると思っています。


僕の言葉の示すものや、メッセージ(という言葉は光源を含み過ぎていて非常に危ういと思いますが)と呼ばれるようなもの、分かりやすく書くのであれば、その詩があなたの心の中に描いていく何か、喚起させるものは、あなたの隣人が抱えているものと異なっていて当然です。あなたが空の紙コップを見つめた時、バニラ味のアイスクリームをその中に収めるものとして思い浮かべているのに、隣人はそこにオレンジジュースを見つめていて、さらにその隣人は可愛いハムスターが収まっている姿を想像している、という状況はざらにあることです。そしてそれはそのまま、僕たちにも当てはまります。僕の言葉を彼女たちの中に収めた時、彼女たちが考えていることや言いたいことはそれぞれ異なっているでしょうし、そもそも僕自身が頭の中で繰り広げていたイメージからかけ離れている、そんなことは当然です。僕の考えるバンドの面白さとは、異質なものを如何に共生させていくか、というアイデアにこそあります。彼女たちは、僕の言葉に対する違う価値観の表出を意味しています。それを交えていくことで、世界はどんどん拡散していくでしょう。扉は開かれていき、意識さえ保つことができればどこまでも行けると錯覚させてくれるでしょう。


バンドをすること(この表現、面白いとふと思いました、doing the band / banding)、これは極めて非利便的で原始的とも言える行動です。経験済みの方も多いでしょうが、バンドをすることそれ自体は本当に厄介なことが多く、やれ日程が合わないだの、やれ遅刻するだの、やれやっぱ練習行けなくなっただの、やれ練習して決めたことを次の練習の時にはすっかり忘れてしまうだの、そんなトラブルの波の連続が当然なところがあるのですが、それらを考慮しても尚、僕が長い間探し求め、ようやく発見するに至ったこの棺桶は大変魅力的です。


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テクノロジーの恩恵によって驚いてしまう程ひとりでなんでも出来てしまう時代、周囲の状況や人間関係を完全に無視できれば、ひとりきりで王国を築き、そこで踏ん反り返る事のできる時代において、バンドをする、即ち他者と行動を密に共にする、という選択自体が僕の考えの表明になっているように思います。


多くの人が皮膚感覚として感じていることだと思いますが、昨今の政治状況はかなり破綻しているように僕には感じられます。恐らくですが、形だけをそれなりに(そう、それなりに、これがまた絶妙にしんどさを感じる点です)為していて、その中身は空虚であり、ただのまやかしに過ぎない事物が多く存在しているはずです。要はただの骨粗鬆症であり、下手くそなペーパークラフトです。今のこの国の状況は、我儘なひとり遊びと、それによって築かれたひとりよがりの王国の数々がかなり粗雑・適当にまとめられているだけで、本来の有機的な繋がりが見事に存在していない、ということになると思います。


タチが悪いのは、その薄気味悪い王国群の存在に気付いていながら、悪意や虚無を痛烈に感じながら、しかしそれを壊してしまうこと、もう一度やり直すことが非常に困難である点です。ここまで自分自身の無力さを感じさせる時代はなかったのではないかと思います。そして少なくとも僕は、経験したことのない戸惑いの中で日々生きています。その戸惑いの威力たるや凄まじく、諦念がベーシックの状態になってしまいそうで、そして実際にそうなっている人もたくさんいるので、僕はどうやって発狂しないように生活するかについて考えることが多いのですが、その中で大きな存在感を誇っている価値とは、たったひとりで築かれた独善的な王国とそのまとまりに全く興味を持てない、という点でした。ひとりで完結してしまう物事の薄弱さと脆さ・欠陥は、それ自体が魅力になるケース、または自身の孤独を鋭く認識している場合を除いて、僕を飽き飽きとさせます。その考えこそが僕の命綱になっています。


扉は開く為にあるのか、閉ざす為にあるのか。その解答は人それぞれでしょうし、その人の中でもまた、日々揺らぐものであるように思います。その揺らぎに、僕もまた苛まれています。しかし大切なことは、そもそも扉がそこに存在していることであると最近は思うようになりました。閉じたり開いたりを繰り返しながら、僕たちの日常は少しずつ変化をしていくのでしょう。それが良い方向に向かうか否かは、その扉の取っ手を握る僕たち自身にかかっていると思います。絶大な悪意による王国たちへ対抗する手段は、自分たちの小さな繋がりの中、恋人でも友人でも、そしてもちろん今回のような音楽を共に紡ぐという面倒で素敵な関係性においても、共生と互いの自立の為の仕組みを植え込み育てていくことではないかと考えています。


dysfreesiaという僕の音楽的な意思(あるいは、いや、決定的に、音と綿密に絡み合いながら共に生き、やがて死んでいく言葉の追求と遊び)と、mihauという棺桶としての彼女たちの間で育まれる繋がりや関係性によって、僕はそれを実践してみようと思っています。これは一種の生体実験かもしれません。願わくば皆様には、その目撃者となってもらいたいです。そしてそれを共に楽しんで頂ければ、尚素晴らしいと思っています。あと大凡1ヶ月で、僕を取り巻く状況は良くも悪くも変わっていくのでしょう。嵐を目前とした今、その胸の高まりと不安感こそが、僕の身体の中に巡っている血液の存在を示してくれています。

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