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some words?

- thinking (or sinking).

3月31日の声明

3月31日の早朝にこれを書いています。

昨夜も小池都知事がアンポンタンな記者会見をしていて、率直に言うと、特に補償などお金が絡む問題に関して彼女たちは何にも考えたくないのだなあということしか感じず、というよりもそこに対する俊然たる意思すら見受けられて却って潔いというか、人間とはここまで愚かになれるのだなあということをあの会見から感じました。それ自体は予想通りでしたので、がっかりはしていません。バンクシーの主義・主張・作品の意味合いを調べもせず「あのバンクシーの作品かもしれないカワイイねずみの絵が都内にありました! 東京への贈り物かも? カバンを持っているようです」と投稿した愚の権化のような方ですから、それくらいはもう当然です。むしろ今日も調子良いですね、絶好調ですね、くらいの感じです。


2月22日のSTYLO#2が分水嶺であり、同時に瀬戸際だったことが、今となってはよく分かります。あの時点でもコロナ関連の話題が持ち上がっていたのは確かでした。あの日のMCで、一週間遅れたら出来なかったかもしれない、というようなことを口にした記憶があるのですが、それがそのまま現実になってしまっている感じがあり、私としては非常に気が重いです。


実際あの後予定していたライブは中止になってしまい、バンドの活動に関しても予定が立てられず動けない状況になっています。中止になったライブの会場、我らが神楽音をお借りしてバンドの録音をするアイデアもあったのですが、それは取りやめにしました。しかし今となっては、無理をしてでも何か行動しておくべきだったと感じています。ここまでコロナの状況が酷くなるとはあの時点では想定していませんでした。というより、楽観視していたのでしょう。


それに関わる諸々のやり取りの中で、多数決で何でも決めるな、など軽く揶揄されたりもしましたが、その言葉から僕の考えていることが周囲に何にも伝わっていないことが同時によく分かったりもしています。そういう意味においては、色々なことを考え直す良い機会として今が存在しているのかもしれません。そんな最中、僕は残酷さについてよく考えています。

言うなれば、今回の動きは、その反動と内省の結果なのかもしれません。


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dysfreesia名義で『qrops use teo』という作品を発表しました。

この文章が公表される頃には既に配信されているでしょう。


そんなに多くを語る作品ではないと思うので、いくつかの些細な顛末だけを記していきます。


『qrops use teo』は26日のお昼時に思いついたアイデアから生まれました。それをぼんやりとした状態のまま持ち帰り、26日の夜に楽曲の大枠を構成し、翌27日にその骨組みだけの状態の楽曲を聴いてもらいながらjunkroom Factoryにジャケットを依頼、29日に詰めの編集作業、30日にジャケットが決定という具合に進行しました。発端から6日程度、総作業時間で言えば恐らく6時間くらいでこの曲は形を成しました。


『verbena (for john and sarah)』の制作過程の中で、これなら僕自身でも出来るかもしれない、と感じる方法論の発見がいくつもありました。”por se quotes”のポストプロダクションや、松山さんとの3回に渡ったレコーディング経験に依るものです。かつJoni Voidの作品からも大きな影響を受けました。今回のこの曲は、私による、私自身に向けた教育の過程を残したものであり、その先に見つけた果実だと思います。

とは言え、僕がバンドに拘る理由の一つは、ひとりで楽曲を創ることへの興味よりも、それを他の人たちと共有した時に何が見えてくるのか、という点にこそあります。それは揺らいでいません。ひとりで創作することに意義が感じられず結果バンドに辿り着いた私が、それが動けなくなった途端にひとりで創作している、という事はこの上ない皮肉だと思います。しかし同時に、このプロセスを経ていないと私は何も生み出していなかったでしょう。


ジャケットは先日知り合ったjunkroom Factoryが提供してくださりました。彼はmiddle cow creek fallsの1stのジャケットを手掛けていたアーティストです。具体的ながらシュールレアリスティックでもあり、抽象と具象を自在に行き交う絵を描いている方で、僕には彼の絵が時にグロテスクにも見えます。今回の曲が思い付いた時、ジャケットは彼の絵が相応しいと感じすぐさま連絡をしたところ、ふたつ返事で了承頂き、しかもその二日後にはいくつものアイデアを投げかけてくれました。彼のその柔軟な感性とそこから生み出される絵に私はいつも驚かされていますが、今回のジャケット案に関してもその通りでした。公開していないものも含め、全て素晴らしい作品だったのです。


「はじめに聴いた時少ない登場人物を同じ場所で観察し続けたモノクロ映画ぽい印象を感じた」というjunkroom Factoryのコメントを29日に耳にして以来、それがとても心に残っています。今思えば、これは極めて鋭い指摘でした。それはまさに、私が今置かれている状況に違いないからです。部屋の中で閉じこもっている男。しかしそれは恐らくそのまま、あなたの姿にも転用できるはずだと思います。


昨今のコロナの状況を考える度、私の頭にはマーク・フィッシャーの著した『資本主義リアリズム』という本のことが絡みついて仕方がありませんでした。実際にSNS上ではその本への言及をいくつか見つけていて、同じことを感じている人がいるのだなあということに対して少し安心したりもしました。手元にあるはずの本を探してようやく、それが友人に貸したまま返ってきていないことに気付き、しかし少しでも早く読み直したかったので買い直しました。そんなこんなで最近はそれを読んでいます。


「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。

これは『資本主義リアリズム』に書かれている一節で、元々はアメリカの思想家であるフレドリック・ジェイムソンとスロベニアの哲学者であるサラヴォイ・ジジェクの言葉だそうです。この本を買った当時にもその言葉の質感が非常に印象的でした。しかもこの本が書かれたのは2009年で、日本語訳が登場したのが2018年、そこには約10年の隔たりがあるわけですが、それでもこの言葉の有効性が未だ高いことに対しては小さな絶望も感じます。


しかし今、確かに私たちは過去の人たちよりも資本主義の終わりを想像するのがたやすい位置にいるのでは、と感じています。この世界が何処に向かうのかは私にも分かりませんが、しかし現在という混迷───その言葉を私はここ数年口にしているのですが、それが常に色濃くなっていることには非常に驚いています───が何かの終焉と幕開けを暗示しているのは間違いないと思っています。まだ知らぬ何かは間違いなく到来するのです。私はもしかしたらこの波に飲まれて死ぬのかもしれませんが、それにしたところで、それが悪いものであるばかりとは限らないでしょう。そんな小さな希望を胸にして。