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some words?

- thinking (or sinking).

intonarumoriの手引き

“por se quotes”の映像を、薄暗い部屋の中でぼんやりと見つめています。今となってはなかなか触れられないものがあの映像にはたくさん収められていることに、そしてそれが過去の僕たちから現在へ残されたノスタルジックな印象として作用していることに対して、とても驚いています。


あの映像を撮るにあたって、ミツくんとは多岐に渡って色々な話をしたのですが、そこに「移動」という概念についての話はなかったように記憶しています。ところが彼の頭の中では、あの楽曲と移動は密接に関連していて、結果的にそれが顕著に表現されたのでした。

波打つ砂浜を移動するカメラ。

移動する列車。雪の中を歩く女性。

彼女は砂浜を歩いて、やがて沈黙する。停止する。

その一連の挙動を、移動することなくパソコンのモニター越しに眺めている男がいます。その愚鈍な男には、その映像が撮影された数ヶ月後には、移動すること自体が微妙く難しく困難になる状況が訪れるとは予測できませんでした。しかしその男は、彼自身があの曲に置いてきた「近い未来が眠る場所」という言葉と現在が共鳴しているのを強く感じています。彼がそもそも想定していたものとは異なる形の、しかしいずれにしても良くはない未来が今到来しているのを感じています。


その男と同じように、多くの人にとっては、その「近い未来」とは密閉された部屋の中にありました。そしてその男に限って言えば、そこにおいても尚、意識だけは常に砂浜を歩いています。まるで夢遊病のように。

───

壊れゆくこの土地へ 僕は居残る

水彩の子どもたち 羽ばたきラブソングを


もし君が手を離したくなるなら おわかれ

幾度目のトランジション

絡めた腕のキスを忘れずにいて

(por se quotes)

“近い未来が眠る場所”

夢の覚めぬ おまじないを

───


“por se quotes”に当てはめた言葉たちも然ることながら、『verbena (for john and sarah)』のテーマを「距離」と設定したこと自体に関しても、奇妙な関係性というか、歪な鋭さというか、鈍痛を感じています。未来を垣間見た、という表現は蓋し誇らしく聞こえがちですが、僕の今の実感がもし正しいのだとすれば(誤っているような気も同じようにするので)、残念ながら良いものではありません。それはどちらかというと、自分自身の愚かさを認識させられるものです。きちんとその先にあるものを捉えられていたのなら、僕の現在はまた少し違った形をして存在していたはずでしょう。


ソーシャルディスタンスという概念がまだ希薄だった(僕は知りませんでした)時期に、人と人、あるいはそれはそのまま土地とも言い換えられますが、それらの間にある距離を巡る内容の作品を作ったことには、少なくとも個人的にはですが、大きな意義がありました。しかしあれは、どう考えてみてもコロナ以前の世界で鳴っているものです。今の世界において、あれと同様のものは創りようがないでしょう。コロナの災禍の只中を経過している以上、これから距離の概念はどんどんと変容していくと思います。僕たちが現在という時間をまるっと忘却しない限りは、あれらと同様の「距離を巡る言葉たち」は二度と再現できないと思います。

そして、それに並行している事象も挙げておこうと思います。ここまで書いて、そう言えば、と振り返ってみれば、FOLKY FOAMYの際にも部屋同士を繋げるということを書いていました。昨年の10月のことです。結局のところ、僕自身の感覚や認知に限って言えば、コロナ以前から変容してはいないようです。それにもまた、気持ち悪さと後味の悪さを感じています。

即ちあれらは失われていく一時をたまたま捉えただけであって、長く続いてきた困難や葛藤のほんの一部分を切り取っただけに過ぎないのでしょう。現在のコロナウイルスのあれこれは形を変えて到来した厄介さのひとつであり、その厄介さは常にこの世界を覆っていた、という表現もまた正確なのかもしれません。


永遠に人間は同じ円を巡る生き物なのかもしれません。

少しずつ変わりながら、少しも変わらない生き物なのかもしれません。

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4月・5月と開催されたBandcampのアーティスト・サポート・デイ、皆さんは何を購入されましたか。僕はいくつかの買い物をしました。基本的に僕はフィジカル信仰の強い人間なので、レコードを頼んだものが多いのですが、デジタルトラックもいくつか購入しました。そのうちのひとつが、敬愛するジム・オルーク先生によるSteamroomシリーズです。この楽曲群はあまりにも膨大なアーカイブスであり、さらにはほとんどが長尺曲なので、いずれは聴きたいと考えつつずっと保留にしていたのですが、今回が良い機会だとばかりに購入してみました(全然本筋と関係ないのですが、このオルーク師匠によるSteamroomシリーズに関してはよろすずさんのブログの解説がとても素晴らしいです)。

先日共演させて頂いた千葉広樹さんが参加されている『Steamroom 5』、最新作『Steamroom 48』、それとリュック・フェラーリ的なコンクレート作品『Steamroom 10』に加えて購入したのが『Steamroom 16』です。2013年6月17日に六本木スーパーデラックスでライブ録音された音楽とのことですが、実はこれを聴くのは初めてではありません。というのも何を隠そう、この大凡7年前の今は亡き六本木スーパーデラックスにおいて、僕はまさにこの演奏を聴いていたからです。6日間連続でジム・オルークのライブをする───名付けて「ジムO 六デイズ」という、なんともとち狂っていて最高な日々の連続による素晴らしい企画の一コマがこの音楽に当たります。仕事の都合がつく限りこのイベントに行った結果、中二日を除いた四日間は六本木にいました。あんなに六本木にいた一週間はそれ以後経験したことがありません。六日間の通しチケットを買うと特製の音源が貰えたのも素敵な想い出です(またも蛇足ですが…前述した千葉広樹さん参加の『Steamroom 5』もこの企画内・18日に行われた演奏で、こちらも当時観ていました。言わずもがな最高でした)。

さてさて、『Steamroom 16』はイベント初日の模様の一部分を収録したものです。ジャケットに使用されているテントは会場に設置されていたもので、当時実際に見ました。見たどころか、終演後には触りました。よくあるテントの、しっとりとした生地でした。色は黄色だったような気がしますが、薄暗かったのではっきりとは思い出せません。テントの色彩よりも、その触感と演奏の内容の方がより鮮烈に記憶に焼き付いています。


この日は前半と後半に分かれて演奏をしていて、前半はテーブルトップギターによる即興音響実験という内容。その時点で既に音楽に心酔 / 浸水していて、さらにもう一個聴けるんだあ今日最高だなあ、とか考えながらジンジャーエールを飲んでいたところ、どこからともなく音楽が聴こえてくるではありませんか。始めのうちは微音だったものがだんだんと大きくなってきた頃合いには、演奏が始まったことに気づいた会場の誰もがジムさんの姿を探すのですが、彼は見渡す限りどこにもいません。そして多くの人がふと気付くのでした。会場の隅にオブジェのように設置されたテント、そこに蠢いている人の影が照射されていることに。その人の動きに併せて音楽が流れてきます。それはどこかおもちゃ箱のような質感でした。環境音がコラージュされ次々と飛び出てくるのですが、そのどれもが丁寧で繊細、かつチャーミングでした。そうしてしばらくコラージュ音楽が続き、それが終わった時に遊びに満足したような様子でジムさんがテントから出てきて、恥ずかしそうに笑ったこともよく覚えています。あの人、今でもそうだけど、なんかちっちゃい子どもみたいなんですよね。


先日middle cow creek fallsこと朝倉さんと話していた中で、この時のジム・オルークのテントでの演奏をふと思い出しました。あれはテントという個室の中で、記憶を遡っていく経験を具現化したような音楽でした。たまにありますよね、旅先でぽんと思い出し、やがて去っていく、その場限りの記憶のフラッシュバックのようなもの。あのテントは、ジムさんの記憶の触媒のように働いていたものだったのでしょう。そして数年経った今、それが布製の屋根ではないにしても、閉ざされた個室の中で僕は記憶を遡っています。そしてあの時と同じ音楽を聴いています。

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[東京大学駒場博物館 特別展 Musica ex Machinaー機械じかけの音楽ー ホームページより以下引用]


未来派に属する画家であったルイージ・ルッソロ(1885-1947年)が、1913年におこなわれたパフォーマンス「未来派の夕べ」の折に霊感を受けて起草したのが『雑音芸術未来派宣言』である。そこでは機械の氾濫する都市に生きる人間の感覚に近づくため、雑音による芸術によって音楽の概念を広げようと提案されている。宣言の実践としてルッソロは、助手のピアッティと共に雑音楽器イントナルモーリを制作した。音の種類によって名称が変わり(未来派が親しんだ擬音を多用)、その数は1921年には27種類に達している。

ウルラトーレ(うなり楽器)、ロンバトーレ(とどろき楽器)、クレピタトーレ(パチパチ楽器)、ストロピッチャトーレ(こすり楽器)、スコッピアトーレ(爆発音楽器)、ゴルゴリアトーレ(ゴロゴロ楽器)、ロンザトーレ(ブンブン楽器)、シビラトーレ(ヒューヒュー楽器)などである。さらにルッソロは1920年代に入ってからルモラルモニオという電動の鍵盤楽器を考案・制作している。それゆえに今日ではルッソロを電子音楽の祖とみなす向きもある。

[Wikipediaより以下引用、一部意訳]


楽器は完全にアコースティックで、電子ではありませんでした。 ボックスにはさまざまなタイプの内部構造があり、さまざまなタイプのノイズを発生させていました。[中略]イントナルモーリ(イタリア語で「ノイズメイカー」を意味する)は音を立てましたが、すべて音響機器であるため、それほど大きな音量ではありませんでした。


第二次世界大戦中にパリが爆撃されたとき、ルッソロの楽器のほとんどは破壊されました。残った他の楽器の消息は分からなくなりましたが、オリジナルのスケッチは残存しています。そしてオリジナル楽器による録音もいくつか残っています。またこれらの情報源に基づいて、3つの復刻された楽器も存在しています。

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イントナルモーリ、というこのおもちゃみたいな楽器のことをいつ知ったのかはよく覚えていません。というより、その響きだけをなんとなく覚えていて、その言葉が楽器を示していたことは綺麗に忘れていました。ただ思い出すのは、その音響装置がなんだか人間のようにも感じられたことで、それは改めてイントナルモーリという言葉が何を示しているのかを確認した5月6日の段階でも同様でした。軽薄というかささやかというか、掴み所のない存在───それほど大きな音量では鳴らないノイズメイカーとは、そのまま人間のようではないですか。


そして事実、イントナルモーリとは「機械の氾濫する都市に生きる人間の感覚に近づくため、雑音による芸術によって音楽の概念を広げよう」とする適応を具現化するモデルでもありました。考えてもみれば、それは人間が常に行っている行動と同様です。不器用であっても、時には対応しきれなくとも、人間は変わっていきます。そして環境も変わっていきます。でも同様に変わらないものも変われないものもあるでしょう。

永遠に人間は同じ円を巡る生き物なのかもしれません。

少しずつ変わりながら、少しも変わらない生き物なのかもしれません。

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intonarumori、という仕組みを立ち上げてみることになりました。

intonarumoriは、mihauのメンバーにより運営されていきます。僕もお手伝いこそしますが、その主軸はmihauにあります。通常であればこれに対する説明を続けるべきなのですが、実はこれが非常に難しいのです。理解してしまえば簡単なのですが…というのは、intonarumoriとは不定形であり、特定の仕組みに依存しないメディアであり、あらゆる言葉や生活の集積のようなものだからです。それはあらゆるところに表出していくでしょう。僕たちがintonarumoriと呼ぶものは全てintonarumoriとなります。その仕組みの鍵は、あらゆる環境に飲み込まれながら人間はどういう具合に思考していくのかを記録していくこと、そしてそれを発信していくことにあります。

そう、intonarumoriの根本のアイデアは、普段の僕たちがどういう人間なのかを皆さんに知ってみて欲しい、という点にありました。どういう人間が、何故音楽を演奏しているのか。それを知ること、あるいは垣間見ることはとても有意義だと考えています。

mihauの「おかしなところ」が僕にはよく分かるのですが、しかしそれが他の人にも全く同様ということはありえないでしょう。何故なら距離が違うからです。intonarumoriという試みが、皆さんとmihauとの距離を、僕とバンドとの間にあるそれと全く同じには決してしないでしょうが、しかしそれはまたユニークだと思います。僕には体験できない距離を、皆さんはそれぞれ味わえるはずだからです。僕にはそれが少し羨ましくも思えます。

今回試みるひとつのintonarumoriは「とりあえず」mihauの皆による言葉遊び、もっと短絡的に言えばしりとりによって続けていく文章群という形で表出します。ある人が「いちご」のことを書いたら、次の人は「GOING STEADY」のことを書き、その次の人は「ディーン・フジオカ」のことを書く、ただそれだけのことです。僕たちのささやかな遊びをあなたは垣間見ることとなります。そこにはどんな距離が生まれるのでしょうか。そしてどんな「おかしさ」を発見するのでしょうか。

しつこいようですが、しかしとても大事なことなので繰り返します───その言葉遊びのことをintonarumoriと呼ぶ訳ではありません。そもそものそれが拡張していく楽器の概念だったことと同じように、僕たちも発信すること=伝えることの概念を拡張させてみたいと考えています。intonarumotiとは、一種の模索であり実験です。僕たちがどんなことを考えながら音楽を創っているのかを(自分たちでも再確認しながら)知覚する為の実験です。mihauを構成する人たちの人間性を伺い知ることができる「ノイズ」を吐き出す仕組み。拡張する不定形のメディア。それがintonarumoriです。そのノイズが、僕たちの音楽を知る上でもきっと面白い働きをすると思います。


───

intonarumori、は造語とのこと。


調べてみる。


どうやら調律を意味するsintoniaと、

騒音を意味するrumoreを掛け合わせたものらしい。


面白いから、言葉で遊んでみる。

分解してみよう。


mori、とはラテン語で死。

naru、はフィンランド語で縄を意味する。


死と縄、とはまるで不吉だ。


naru mori、でラテン語の翻訳をかけてみると、

死にかけた人の、となった。


死からは逃れられない。

ダブルミーニング。

into naru mori。

死にかけた人の中へ。


人間はまるで森のようだと時折思う。

時間の経過につれて、人はどんどん木を植えていく。

時に綺麗で、時に傷ついて、時には皮の剥げたような木々。

しかし森に植えられた木々の様子は、他の誰にも分からない。

内省する人間はまるで森の中へ迷いこむような仕草を見せる。

しかし常に流浪することにこそ、

そして思考し続けることにこそ、人間の本質があるのではないか。

人間はいつだって死にかけている。

死にかけているからこそ、創造する。

奇妙で複雑な森。それは不思議と美しい。

intonarumori、その流浪の森の中へようこそ。


ではまず、intonarumori (playing)から始めます。

イントナルモーリの「リ」からどうぞ。