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some words?

- thinking (or sinking).

青い夜は届かないオードブルの兆し

ここ数ヶ月のしんどさの一端には確かに訃報が関連していると痛感しています。リー・コニッツが亡くなったとか、トニー・アレンが亡くなったとか、フローリアン・シュナイダーが亡くなったとか、リトル・リチャードが亡くなったとか、ベティ・ライトが亡くなったとか、私の個人的なアイドルのような方々が次々と逝去されていて、それは必ずしもコロナウイルスの関連の死とは限らないのですが…それにしたところで、これらが立て続けに発生することが心情的に重しになっているところは多くあるはずです。


昨日(2020年5月10日)にTwitter上でデモが行われていた「#検察庁法改正案に抗議します」のハッシュタグを通じて見え始めた変化の予兆に、ささやかな希望を抱いています。そして狂ったようにNetflixで映画を観続け、そこにある懐かしい質感を胸に抱き留めています。昨日は『ビッグ・フィッシュ』と『はじまりのうた』という作品を観ました。経験したことがないのに懐かしい、というあの感触は気晴らしになります。そして芸術の力をたくさん感じることができます。あの作為的な(あるいは時系列的に仕方なくそこに位置してしまう)過去を見つめることには、場合によってはですが、一種の癒しがあります。しかしそれらも、寝る間際に確認してしまったひとつの訃報によって砕かれてしまいました。私に感じられるのは、昨夜の月の光を浴びて弱々しく輝く硝子の残骸の発光ばかりでした。多くの人と同じように、私にも進入してくる悲しみから心を守る為のフィルターがあり、私は比較的それの使い方が上手であるとも自覚していますが、しかし耐えられる量には限度があります。


昨日の訃報の屈強さには、やはり距離が関係しているのでしょう。私は故人の方を直接知っていた訳ではありませんし、知り合いの知り合いという訳でもないと思います。恐らく、ですが。それでもこの上なく痛みを感じているのは、私が彼らを一方的に好きだったことはもちろんですが、それだけが全ての理由ではないでしょう。同じ土地に住んでいて、同じように音楽を愛していて、しかもほとんど年齢が変わらない方だったからこそ、私は打ちのめされているのだと思います。夭折を美化するような嗜好には全く賛同できません。あれはあまりにも痛く、酷い代物です。彼をそこに閉じ込めることは避けたい。しかし避けられそうにもないのは、私の心が既にそれを嘆いていることから自明でした。美化している訳ではないですが、しかし確かに疑問は生まれ出ています───彼は何故そんなに「早く」死ななくてはならなかったのだ、と。その疑問の持ち方と夭折を美化する面持ちの間に、果たしてどんな差があると言うのでしょうか。そんな自分自身の残酷さがまた、私には狂おしいです。


初めてENDONを聴いたのはBlack Smoker Recordsから発売された『Boy Meet Girl』という作品でした。2018年9月に発売されたこれが現在のところ最も新しい作品ですので、私が彼らを知ったのは至極最近の話として良いと思います。昔から知っていたとか追っかけだったとか、そういう要素はひとつもありません。ただこれは断言したいのですが、「あの作品に完全に打ちのめされた」と感じているたくさんの人々のひとりが私です。あの作品の圧力というか熱量というか、一種の得体の知れなさには今でも驚くばかりです。グラインドコアとかデスメタルとか、その手の音楽を専門的に聴いていたことはないのですが(もっと言うと私には専門というものが何ひとつありません)、そんな私にもあの作品の異様なまでの真摯さはよく分かりました。あの演奏家たちが非常に率直で、遊び心に溢れていて、焦燥的に熱を帯びていて、しかも優しいことも。愛の語り方は多様でありもっとユニークなものだと、私はあの作品から学びました。


唯一観れたENDONのライブは、2019年10月13日の新大久保EARTHDOMで開催されたものです。なかなかタイミングが合わずに行けていなかったENDONのライブでしたが、この日はなんと私が追っかけているKlan Aileenも対バンするとのことで非常に「俺得」でした。実際に会場でKlan Aileenの澁谷さん(一応断っておくと、旧・松山さんです)が僕を見つけて話しかけてくれ、ENDON好きなの意外ですね、と仰っていたのが非常に印象的でした。意外に見えるんだなあと、ちょっとびっくりしたのです。


そしてその日のENDONは完璧でした。ステージの配置からして惚れ惚れするものでした。ステージの背面に壁のようにそびえ立っているのはスピーカーでした。どこのメタルバンドやねん、みたいに山積みされたアンプのセッティングですから、もちろんのこと爆音。しかも肌がヒリヒリするような爆音です。実際に剃刀で削がれているような心地もしますが、そんな音の最中にあっても、ステージの上の5人が等しく聴こえることがまた凄みでした。音楽の中にあの5人が確かにいる。そして誰かひとりでも欠けてしまえばたちまちバランスが崩れることが容易に伝わってくる、彼らはまさしくそういうバンドでした。圧倒的で、暴力的で、しかしどこまでも懐の深い演奏家たちだったと思います。結局ただ一回しか観れなかった5人のENDONですが、あれを観ておいて本当に良かったと痛感しています。


誰かがいなくなること自体はいつだって簡単でした。彼らは立ち去るだけです。本当の困難は、彼らがいなくなってポッカリと空いたスペースに何を収めるのか、いやそもそも何かを収めることが正しいのかどうかすら定かでないまま逡巡していく、その迷いと揺れにこそあります。そして生活は残酷に続いていきます。虚無が訪れてしまった今、目は冴えてしまいました。とんでもない発光体を見つめてしまったような心地でした。


時間を見れば深夜0時をスマホの画面が示していて、なんとなくおなかが空いていることに気付いた私は、途端に買っておいた優しい風味の塩の効いたビスケットのことを思い出しました。少しだけ食べようかな、もう食べられない人の分も食べなくては、と何気なく口にして、途端に虚しく悲しくなったのは、この世界には確かに実現しない、できっこないことだって確かにあるとたちまち気付かされるからです。


夜が異様に青く見えるのは、そこに同じようにある雲の白色と対比して見えるからでしょうか。目覚めてしまった私が闇雲に頼んだオードブルは恐らくやってきません。私は取り残された気分のまま、夜が明けるのをただ待ちました。そんな風に過ごした人も、きっとたくさんいることでしょう。そして再び夜がやって来ようとしています。私は少しだけ、恐れを感じています。


那倉悦生氏のご冥福をお祈りいたします。