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>>> some words? = thinking (or sinking)

もしもこれが恋なら、電撃みたいだね ━━━音楽と言葉、STYLO

方法はたったひとつ

このまましばらく音楽を鳴らすこと

男と女を自然に通り抜けながら

もうひとつの世界で

宇宙の中のもうひとつの世界で


───


僕の中で音楽と言葉には明確に関連があって、不可逆的でかなり淫らな関係性を営んでいます。それらがいつから固い契りを結んだのかははっきりと分からないのですが、というのはそもそも音楽の存在が僕の中で他の何もかもを圧倒的に引き離す程に巨大になる前からそれは始まっていたのではないか、と思うことが多いからで、知らない間に撒かれていた種が芽吹いただけのこと。ただそれだけのこと。というのも全く外れていないのではないかなあ、というのが、長年この件について考えてきた際のひとつの思考の帰結です。


そこに「実際に」存在しているかは別問題として、音の中に言葉を感じること。またはその逆、言葉の中に音を感じること。僕が好きな小説や文章のほとんどは、文章の血流の中から音楽が聴こえてきます。ただの言葉の連なりのはずなのに、そこに旋律や響きが聴こえてきてしまうことにこそ、その言葉の強度が表れていると思いますし、音楽が描いていく線描・点描・淡いスケッチ・その類、それらが何かしらの言葉を導き出して提示してくることもまた同様です。


古くから人が歌うことには言葉がストーキングしてきていて、というのは別にここで偉そうに書き下すまでもなく、例えば金曜日の夜にテレビの電源を入れてみれば、ああミュージックステーションやっているね、で、あの番組の中で歌手の皆さんが楽しそうに歌うあれ、あれらには全て言葉が付随しています。”夜明けのスキャット”みたいな、あるいはMeredith Monkみたいな言葉そのものを融解させどんどんアブストラクトにしていくような例は別として、人間は旋律の中に言葉を見出そうとしてしまう生き物なのだな、ということがよく分かります。


もっと突き詰めていけば、あの番組のB’z松本さんのあの印象的なギターから始まる音が聴こえて、ああミュージックステーションだね、という気付きをそもそも齎す訳ですけど、それ自体もある意味では言葉と音の絶妙な連なりを表象している訳でございますよね。その音と言葉を結ぶものって何よ?って考えていけば当然、一つの教育による過程であり、刷り込みだったりもする訳ですけれども、でもあの歪んだギター→ミュージックステーション、っていう連なりを今から払拭するのはかなり困難であります。


ちなみに、なんですけど、言葉のイメージを純粋に音に封じ込めていくという作業によって、結果的に違う言葉のイメージを音に与えていく過程こそが、ジャズのスタンダード演奏というスタイルだよなあ、とも時折ぼんやりと考えたりします。ミュージカルで歌われていた曲から言葉を取り除いて演奏しながら、言葉に依拠する・指図する世界とは違う方向へ音楽が進んでいくあの感じ、後期コルトレーンの”My Favorite Things”なんかが極端な例かもしれませんが、あのフリーキーかつマッドな演奏は、完全に『Sound Of Music』でマリア先生が子どもたちに歌って聴かせるあれとは抱えている言葉が別物です。コルトレーンはある意味では偉大過ぎるリリシストだなあとよく思います。


完全に話が脱線しますけれど、先日とある事情から乗り合わせたトラックの運転手さんは、しきりに”Fly Me To The Moon”を口ずさんでいました。つまんなそうに。とは言っても彼にとってつまらないのは音楽ではなくて、自分自身の足枷になっている日常なのですが、あれ。あれだよあれ。彼は本当に言葉の示すものに従って月に連れて行って欲しいと望んでいるのか、あるいは使徒によって破壊されていく街の姿を思い出しているのかは分かりませんが(エヴァンゲリオンはおろかアニメ全般に関しては全く詳しくないので誤りがあったらすみません)、あの旋律が彼にとっては日常から解き放たれる際の合言葉であるのは間違いないのでしょう。


僕は何の話をしているのだっけか。


そうでした、思い出した。dysfreesia + mihauという図形が表れる以前、それはそれはもう十何年も前からですが、僕は他の誰の為にでもなく、ただ自分自身を癒す為に、メディテーションするが為に曲を紡いでいました。それらの多くは忘れられ自然に消失していきました、まさしくEric Dolphyの言うように「音楽が終わった時、それは空気の中に消えていき、二度と捕まえることはできない」訳ですが、中にはしぶとく僕の頭の中に残り続けるものがあったり、あるいは第三者のメカニック的な記録媒体によって身体を与えられるケースもあったりする訳です。で、それらのほとんど、割合にして96%と暫定的に示して良いと思いますが、それらには言葉の埋め込まれるスペースだけが与えられている状態で、実際の言葉がまだ見つかっていないものになっています。ようは旋律だけが浮かんでいて、そこに相応しい言葉を音楽が「待っている」状況なのですね。そして面白いのは、多くの言葉がそこに当てはまらないまま脱落していく点でして、言葉の連なりによる短絡的な、強引な当てはめによる物語性とは割と無縁なまま邁進していくのが僕の音楽と言葉の関係性だったりするのです。


僕の大変敬愛するLeonard Cohenは、人類が生み出した芸術の最高峰に属するであろう名曲”Hallelujah”の詩を書くのに5年を費やしたらしく、その傾倒ぶりと集中力の高さ、そして彼の言葉に対する意識の崇高さには目が眩みますが、さらに驚くのは、『Various Positions』にて発表された詩は実はそのほんの一部だった、あるいは加筆がどんどんと進められていたらしい点で、彼がライブにカムバックした時期の映像がたくさんYouTubeに上がっているんですが、かの曲の尺は軽く2倍くらいになっています。宗教的な描写が含まれる内容なので、84年テイクの時点でもなかなか難解な詩を持つあの曲が、晩年にはさらに複雑になっていたりする訳ですね。僕たちは彼の言葉の描く迷宮のような森の中に放り込まれています。彼が亡くなって3年が経とうとしている今も尚。森の中を放浪していく人々。


言葉は膨張していくものであり、それを音楽に載せるという作業自体も、それに付随して広大になっていく───これ自体は非常に自然と言うか、そういうものだよね、と思います。僕たちが言葉にするべきもの、したいと欲求するもの、それは日常の中で積み重ねられていくものです。実際に言葉にする価値があるものがそのうち、どれだけあるかは別として。人間が最も宇宙に近付く方法、宇宙船に乗り込むより簡単で、すぐに始められるものとして挙げられるものは、言葉によって膨張する宇宙を捕まえることです。人間存在は思っている以上に言葉に依存しています。僕たちはその言葉の連なりによって、空の向こう側の世界、あるいはこの地上の裏側にあるもの、人間という不確実な存在の真理にリーチしていくことができるのですから。


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今回dysfreesia + mihauのお披露目の場として、STYLOというタイトルのイベントを設けさせて頂きました。僕にはこれまで音楽の表現の立場としての経験がないので、所謂正規ルートのようなものが分からないのですが…普通はどうやってお披露目していくものなのでしょうね。初めからイベントを企画する、ていうのは比較的珍しいパターンなのかも、というのは実はここ数週間くらいで身に染みて気付いてきたことなのですが、それはともかくとして、分からないのであれば分からないなりに楽しんでやるべきだよね、というのは初めからあった自明の理だったので、割と色々と無茶をしてみつつ、周囲の人たちの手厚いサポートもあって、開催まで漕ぎ着けることができました。


バンドのお披露目、ということであれば、その集団が抱えている正理のようなものを全面に出していく内容にするべき、というのも比較的初めから考えていたことで、それであれば、音と言葉を巡る探求をしている演奏家やアーティスト、僭越ながら同じような視点を持っている方々と時間を共にしたい、と思い、候補を挙げて実際に当たっていったところ、これがびっくりするくらいにスムーズに決まりました。ここ半年間における僕の幸運の何割かは確実にここに費やされているのは間違いないでしょう。という訳で折角ですから、ここから僕の言葉の範疇で、今回の出演者の方の話をしてみたいと思います。


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某音楽量販店に勤めていた時の繋がりが現在の僕の人間性をも形成している、というのはかなり真実に近いと思います。その期間、大凡10年間の勉強としんどさ、そしてそこに相反する悦楽の積み重ねから僕が得たものは爆発的に多大ですが、得たものは経験だけでなく、経験を授けてくれた演奏家の方々との出会いと交友関係でもあります。山崎円城さんと今も続く関係性とはまさしくそういう類のものでした。


僕がジャズの担当として働いていた頃、ジャズはもちろん大好きで聴いていたのですが、普段の生活の中で専ら聴いていたのはPearl JamとUSインディでした。個人的にBerger Recordsや、Orchid Tapesのようなインディレーベルがカセットを主軸にして作品を発表していることに大きな興味を抱いていた時期でした。特に後者に関しては、そこにOwen Palletのような特異な存在、ジャンルの垣根を簡単に飛び越えてしまうような才人が絡んでいたりすることもまた、Foxes In Fictionという若者が運営するこのレーベルに傾倒していた理由のひとつだったのですが、インディロックの文脈では平然と行われているこれらの動きを当時自分が担当していたジャズで模すことはできないのだろうか、近しいことはできないものだろうか、と考えていた矢先に、山崎円城さんのバンド=F.I.B JOURNALがカセットをリリースする、という話を伺って、僕の興味は爆発的に煽られていったのです。


そのカセット、ジャケットのひとつひとつへタギングがされたとても手触りの良い作品はとても魅力的でした。かつ、F.I.B JOURNALのその音楽性もまた、僕には大き過ぎるほどの衝撃を齎しました。Gil Scott-Heronが表現していたような、綿密な言葉と音の関係性の連続がF.I.B JOURNALにはあって、かつ、バンドの持っている要素が非常にユニークであることも、僕が彼らに夢中になるきっかけになったのです。ブルースのようなミニマルさ・無骨な粗野さを抱えながら洗練もされている、研磨された土着、という見事なバランス感。あのかなり独特な演奏を下地にして、そこに載せられる言葉たち、その身体同士を巧みに連結させながらイメージを膨張させていく様、まさしくそれは詩でした。その詩はマイクを通して、時には拡声器で拡大されながら吐き散らかせられていく。なんじゃこりゃ、ももちろんありましたが、それよりも僕が感じたのはそのパンクっぽさで、調べてみればなるほど「パンクの精神を抱いたビートニクの怒れるジャズ」とあって、ジャック・ケルアックやバロウズが50年代に夢中になっていたモダンジャズのサウンドを現代的に解釈、発展させた音楽に言葉が乗り込む訳ですが、そこにパンクロックが引用される辺りがまた現代っぽいよね、と感慨を抱いたと同時に、僕の心はたちまちに射抜かれてしまったのでした。



円城さんの活動の仕方もまた斬新過ぎて、笑っちゃうほど痛快でした。リリースした詩集を物々交換でリリースしている、というぶっ飛んだ話も伺って、一冊の詩集が何と交換されてきたのかについては、円城さんの口から直接聞くのが面白いと思うので、是非ともとおすすめさせて頂きます。もちろん現在もそうなのですが、当時の僕にとっては尚更面白く感じられたのは、音楽という一般の感覚からはややずれている箇所に停泊する自分の価値観を、同じ界隈にいる人間が軽々と揺らしてくれたからでしょう。まだまだ知らないことはあるのだ、ということへの純粋な驚きと同時に、ユニークかつ社会へ常設された価値観への懐疑という芸術に欠かせない要素を円城さんが体現されていたのが、僕には今でも非常に頼もしく思えます。


僕はそのカセットの持っている優しげな熱に完全に惹かれてしまって、カセットが売れるのかは正直分からなかったものの、かなりの数を仕入れてみることにしました。カセットテープのプレイヤーを用意して、実際にカセットの音の良さを楽しめるようにした上で販売したところ、予想以上のすごく良い反響があって、その辺のCDよりもカセットが売れている、という時代を逆行するような、というか、これまでの市場のバランスを軸にして考えるとかなり異様な現象を目の当たりにさせられました。その時、音楽の力ってすごいな、と思ったことを鮮明に記憶しています。


STYLOがその名前を与えられる随分前から、今回のイベントに山崎円城さんを呼びたいという考えは芽生えていて、実際にお声がけしたところすぐに了承頂けたのですが、F.I.B JOURNALがスケジュールの都合で難しいとなった時に円城さんが提案してくださったアイデアこそ、外池満広さんでした。外池さんは前述したカセット作品の一部で鍵盤を弾いていた方です。外池さんのことはその時から一方的に存じていて、というのも外池さんの豪快だけれど繊細さも感じさせる絶妙な鍵盤がかなり印象的だったのに加えて、彼の演奏する姿、金髪のモヒカンでやたら図体の大きなクリーム色の鍵盤を前に傾けながら演奏する様が強烈に目に焼きついたからなのですが、近年の活動ベースにあるThe Minimalizeもまた非常に面白いバンドで、円城さんが参加されていたこともあって時折ライブに伺ったり、7インチを買ったりしていたのです。The Minimalizeは王道を行くレゲエ / ダブスタイルのバンドですが、そのサウンドにジャズとレゲエを繋ぐ芳醇なサウンドの鳴りがあるのも、僕にはとても魅力的に感じられました。



今年の2月に開催された円城さんの朗読イベント=BOOKWORMにおいて外池さんがされたお話がまた素晴らしいものでした。レゲエ / ダブの罪深い魅力を一般の方にも分かるように伝える、という内容はもちろんのこと、その話ぶりの丁寧さ・誠実さがすごく、しかも手作りのレジュメが配布されたりの徹底ぶりで、怖い人じゃないかな………という勝手なイメージが完全に払拭されるどころか、その辺のサラリーマンの数十倍は良い人であるのがすぐに伝わってきました。外池さんに溢れる非常に良い感触───レゲエの言葉を借りるなら"ヴァイブス"の凄まじさによって、僕は一気に外池さんの虜になりました。そのお話の後に外池さんと直接お話しする機会があったのも非常に印象的でした。その時の話は音楽の低音、ロウエンドについてで、レゲエ / ダブはもちろん、Massive AttackやTricky的なトリップホップの話からダブステップの話を経由してUKベースミュージックに通底する低音の話になり、それがとても楽しかったのです。


先日8月19日に行われたThe Minimalizeのイベントは、BOOKWORMで外池さんと話したことを総ざらいしていくような素晴らしい内容だったことも追記しておきます。というのは、レゲエ / ダブのサウンドの根幹にある素地としてのサウンドシステム、壁のように積まれたスピーカー郡でバンドを鳴らす試みがされていたからで、Silent PoetsのDJの時点で既に低音が豊かだったのに、バンドの演奏になったらそれが3倍くらい凄まじくなったことは強烈でした。James Blakeをフジロックのホワイトステージで観た時の低音、それは位置が深すぎて、耳ではなく身体の内側で低音を聴いているようだったのですが、サウンドシステムから発される低音はその深さの少し手前くらいに位置していて、肌を破いて低音が身体の中に侵入してくるような感触があり、つまりはその先にこそ、あのJames Blakeの低音が存在するのだ、ということを体感させられたのです。現在のロウエンドへの解釈の推移を音そのものが語っているようでした。


円城さんと外池さん、このおふたりには確かな共通点がありながら、それぞれにかなり色彩の豊かな個性もあり、そういうふたりが音楽を紡いでいく、という関係性そのものが、僕にはとても眩しく感じられます。ある意味で言えば、人間同士の妥協点を見つけていく作業こそ、バンドの醍醐味であり理想の形だと僕は思うのですが、円城さんと外池さんはその点でも僕の理想とするものを饒舌に体現されており、dysfreesia + mihauの大きな参照点として存在しています。


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言葉と音楽を巡る解釈をしていく中で、言葉を詩に寄せるのか、果てまた物語に寄せるのか、というのはかなり重要な視点です。僕個人の感覚でいうと、僕が面白いと感じる言葉は圧倒的に前者であります。というのは、物語に寄っていく言葉というのは、音の感覚を蔑ろにするケースが非常に多くあって、ストレートに言えば喋り過ぎだし、それだけ喋りたいなら音楽にしない方が良いよ、と感じて辟易とする音楽家は少なからず存在しています。


この物語への感覚(と、人によっては違和感であり抵抗感であり拒絶反応)は、昭和から平成に跨る僕の世代(80年代後半から90年くらいまでの生まれ)においてはBUMP OF CHICKENによって授けられたものが非常に大きいのだと思います。もう少し下の世代になるとRADWIMPSになるんだと思うんですがそれは置いておいて、そういう物語性の強さ、ちょっと棘のある言い方をすると、分かりやすさばかりが奔走して音楽が空洞化していくような現象に対して、歪んだギターにその言葉を乗せることで何をしたいのだろうという疑問を感じるようになり、ようは言葉としても音楽としてもどの視点からしてみても、絶妙に中途半端である印象を抱えるようになりました。つまり簡単に言えば、僕の心は汚れてしまったのですね。


語りたいことに対してサウンドが矛盾しているという現象は個人的にかなり興味深いもので、何故日本の音楽はそこに対してびっくりするくらいに鈍感になったのだろうか、と感じています。というのは、最近個人的に傾倒しているThe Nationalの言語感覚は、彼らのサウンドと絶妙に溶け合っているからであって、同じロックという括りにおいても何故これだけ差が出ているのだろうかと感じますし、日本語圏内で生活している僕にしても、サウンドを聴いた時点でその音楽の言葉の鋭さを感じたりする訳で、後から詩を読み返してみたらああやはりね、みたいなパターンもよくあります。英語圏の方々はあの音楽における言語と脳がストレートに繋がっている、直接的に受け止めることのできるのですから、あの豊かな音に熱狂するのは当然でしょう。



即ち結論から言えば、日本の音楽において言葉の持つ音感への視点はどんどん鈍っているのだろう、というのが僕の感触です。それが言語感覚の鈍りなのか、あるいは聴感の鈍りなのか、あるいは感受性そのものの衰退なのかは分からないですが。という割とじめっとした欠落感の中で、まだ日本の音楽も言葉も先へ行けるよ、と明るい希望を持たせてくれるのがヒップホップです。端的に言えば、歪んだギターとスクエアなビート感では描き切れない感情のニュアンスを、ヒップホップは容易に描くことができる、ということだと思います。


GOMMESさんの音楽に傾倒するようになったのは、2015年が始点です。『し』という作品がリリースされた頃ですね。2010年前後から日本のヒップホップの中で、ちょっと独特な言葉の探求をしているような印象を持つアーティストが増えたような印象があります、思い浮かぶ限りで挙げていくと。SIMI LABを媒体にしたSUMMIT周辺で蠢くアブストラクトなんだかストレートなんだかもよく分からないような言葉たち(しかし鋭い快楽を伴う)、90-00sのヒップホップの持っていた軽快さとポップさを継承しているchelmicoやlyrical school(どっちも最高)、ヒップホップ以降のサウンドを再定義して拡大させようとしているDAOKOさんのような新主流派(そう、DAOKOさんと最も感触の近い演奏家はHerbie Hancockなのだと僕は言いたい、冗談半分ということは半分は本気、本気と書いてマジと読む)、でKANDYTOWNのようなスタイリッシュでそこまでダーティでない存在がいる一方で、KOHHとかAwichみたいな精神の深淵を突き進むアーティストがいて、その前景には5lackとPUNPEE兄弟の対比があって、そこにリンクする存在として降神がいて…ていう、本当に楽しいねヒップホップの話。てな訳です。で、今回ご出演頂くGOMMESさんがその一翼を担っているのは言わずもがな、当然だと思います。


自閉症のラッパー、という彼を語る上では欠かせない要素の存在ももちろん多少は関連しているのですが、それよりも僕が面白いと感じたのは、かなり具象的に言葉を連結させていく物語の色濃さ・濃縮具合、前述したDAOKOさんにも通じる詩の世界観・私小説的な密室感、それでいて部屋自体がそこまで暗過ぎる訳ではないそのアンビバレンスな具合、に対してでした。その描く物語自体は極めて王道を行くヒップホップ的な自分の姿を投影したもの、にも関わらずそこに、サウンド面を除いてギターロックに近いようなエモさがあったりするのが現代的で、僕が心底好きだったアジカンのような鋭い言語感覚を引き継ぎつつ、それを今の感覚に翻訳していくとこうなるのかと、その音楽の豊かさをとても感じたことを覚えています。



新作の『てる』も最高でした。とここで思い出したかのように加えるのは、僕はあの作品をまだしっかりと消化できていないからです。あの作品への語り方が僕にはまだ掴めていない。のでそれをする機会はまた別に設けたいのですが、彼が進む先がどこであろうと、その音楽が面白いことは当然でしょう。そもそも話題になった初球の時点で、ど直球すぎるくらいのボールの軌道で太宰治の名作のタイトルを引用してくる辺りでも、現在へと続く道のその発露が見られたというか、言葉への傾倒ぶりが垣間見えた訳ですが、彼はヒップホップという器に一応は属していながら、その可能性はそこに留まらない、いや留まることができない。最早最近の彼は不器用さと素直さが言葉にも音にも表出していて、『てる』という作品はまさにそういうものでした。音楽における言葉の可能性をひしひしと感じさせ、物語と詩を多分に滲ませた不可思議なバランス感を音楽へと非常に巧みに昇華させている点で、この人すごいぞ、という感じが日夜増しているように思います。GOMMESさんの言葉には詩と(死と)物語の新しい着地点があります。僕はそこに心酔していきたい。そしてその感覚を皆様にも是非味わって頂きたいです。



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3月の終わりのこと、mihauの平井まゆりさんとLINEでやり取りしている最中にふと、良い演奏家を見つけたよ、と教えられたその人こそ吉田和史さんです。(こういうことを言うとたちまち嫌われそうですが、元から嫌われているから良いよねもうどうでも)友人たちから勧められて初めからしっくりくる音楽家って実はあまりいなく、まゆりさんから話を聞いたその時も、どうだかね、と割と斜に構えながらYouTubeを調べまして、”誰もいない夜の果てを”という曲のライブ映像を観たところ、最高。真夜中に映像を観たんですが、素晴らし過ぎて目が覚めてしまい、あのメロディが頭の中をバウンスしていたことも良い想い出です。


で、調べてみたらその2週間後くらいにちょうどライブがあるとのこと。で、いざ、吉祥寺曼荼羅に行ってみたら、これがまたすごかったのです。率直な印象を述べると、クラシカルな素養を元々持っているギタリストが、John FaheyやRobbie Basho的なTakoma Recordsに強烈に被れた挙句、James Blackshawのようなモダンな演奏家にも傾倒した結果の産物のような、高度なテクニックに裏打ちされた歌心の持ち主。Quique SinesiとかGuillermo Rizzottoのようなアルゼンチン・フォルクローレ勢にも通じるものがあるのは前述したクラシカルな素養に加え、ジャズ的な和声への視点も多分にあるように思います。で、これが割と端折りながらまとめたギターにおける話、ここに歌が加わる訳ですけど、声の響きがとても豊かな質感で、しかも喉から、とか、おなかから、とかそう言う次元でなく、全身から音が鳴っているような感覚がします。この、全身から音が鳴っている、と言う感覚を抱かせる人ってかなり稀有だと感じていて、どんなに歌が上手な方でも、存在自体が音楽だと思う人にはなかなか出会いません。身体のあらゆる所作が音楽に投影されていて、そこに感情と知識が重なっていった結果、びっくりするくらい豊かな表現が醸成されていく訳です。多くの人が努力で埋め合わせしながら獲得していくものを、吉田さんは生まれつき手にしていて、しかもそれを独自に発展させているような気がします。


さらに驚くべきことは、その全身から音楽が鳴る感覚を、吉田さんのバンドからも感じる、と言う点にあります。どんなに人数が多いバンドを率いていても、その音楽は全て吉田さんから鳴っているように感じる。と言うことは、吉田さんの身体がどんどん拡張していくような感覚がする訳です。人の身体を借りて自分の音楽を鳴らす、という、ある意味においてのワンマンバンドの理想を吉田さんは容易く達成してしまっているのですね。あれぞ、音楽に愛された人にのみできる所業のように思います。


しかし今冷静に振り返ると、60s-70sの和製フォークが好きなまゆりさんに刺さる要素も確かにあるんですが、吉田さん自体はもっと複雑な存在だとも思います…というのは、吉田さんの綴る言葉は、所謂四畳半フォーク的なものや松本隆的なものとは大分趣が異なって、もっと散文的で詩的なもの、何処か屈折した物語を感じさせるものだからです。日本的な情緒には満ちていますが、古き良きなんていうテーゼ(と、それが持つ薄気味悪さ)とは距離があるように思います。彼女は吉田さんの何処に惹かれたのだろうか、というのはなかなか面白い考察になる気がしますし、もっと言えば、吉田和史さんを聴いた人それぞれに、彼の音楽は異なる受け入れられ方をしそうだとも思います。フォークの先端の一箇所として捉える人はもちろん、そのクラシカルな演奏に心惹かれる人もいるでしょうし、そもそも音楽ではなく言葉に比重をおいて捉える人もいるかもしれません。それくらいに吉田さんの表現においては音と言葉が混在しています。


それが最も顕著に出ているのが”円山町ラプソディ”という曲で、この曲は椎名林檎が歌わなかったラブソングのひとつとしても通じてしまうくらいに都会的な情緒に満ちている名曲なのですが、この詩の中の一節、「銀のスプーンで切り分けて / 世界を半分個にしよう / いつでも元に戻せるように」なんてところで僕のエモーションはもう破茶滅茶に爆発してしまう訳です。大変痛みに満ちていて生々しくて感情的で、僕はもうこの曲に生涯を捧げたいくらいに心酔しています。とりあえず騙されたと思って、MVを観てください。恋をしたことのある人なら泣くよあんなの。痛々しくて。その痛み方に記憶があり過ぎて。こういう痛みへの鋭い感覚、感受性が高過ぎて破裂するんじゃないかと思うほどの感度、そしてそれの表現の仕方は、明らかに前述したような「古き良き日本語音楽」の範疇ではありません。それは最近出たソロ作品のタイトル曲であり、僕が一番初めに耳にした吉田さんの音楽である”誰もいない夜の果てを"にも通じています。その詩の雰囲気自体には確かにオールドスクールな雰囲気もあり、僕は萩原朔太郎を思い浮かべましたが、しかしこの表現は今生きる人からでないと発生し得ないと思います。あの慄くくらいの孤独感はまさしく現代のものです。





吉田さんの音楽は、終焉、破滅、地を這う生命、そういう幸福の埒外にあるものを捉えています、優しさと共に。アウトサイダーをこの上なく愛すること、ガス・ヴァン・サント作品なんかとも通じる視点を持っている音楽です。であるからが故に、日常的な退屈の最中にある人々が溢れている今の日本をある程度受け入れた上で大言壮語を吐きますと、吉田和史さんを発見できないのであれば、この国の音楽シーンは割と救いようがないと思います。前述したように、感覚が死んでいるのだ、ということです。そしてあまり認めたくはないのですが、既に死んでしまっている感覚が、街に蔓延しているような気もしています。しかし逆に言えば、ですが、感覚を長く生存させ続ける方法は極めて明快で自明です。吉田和史さんを聴くことで何もかも解決するのですから。


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■2005年のこと

クラスの誰ともうまく馴染めていなかった高校の頃、僕は酷く孤独でした。急に色気付き始める周囲の男の子たちには全く付いていけず、またその男の子たちからも相手にされず、要はいじめられていた訳ではないけれど、存在を殺されていた立場ではありました。一日を通して誰とも会話しない日が当たり前、それでも学校に行かないという選択を何故だかできなかった僕は惰性的に学校に通ってはいたものの、勉強を頑張っていた訳でもない。生きている、というよりは、生かされている、という日々で、やる気なんて何もないし、自分自身の価値だなんて見出せるはずもない。Feel Good?


当時既に僕の興味は音楽だけに注がれていました。お昼代としてもらっていた500円を貯めては、1,500円で国内盤の廉価CDを買うことを生きがいにしていました。なので毎日のお昼休みにはすることがなく、かと言ってクラスの中にいても仕方がないので、図書室へ行っては、そこでたくさん蔵書されていた文学全集を読んで過ごしたものです。芥川龍之介や森鴎外、川端康成や志賀直哉など日本の純文学のそれらを中心に、中原中也の詩集も読んだ記憶がありますが、当時あまりそれらをしっかり読めていたようには思えません。どちらかと言えば、文章に目を通しながら、そこに散りばめられた言葉たちを文章の流れから切り取り拾い上げて、その質感を噛みしめるようにして触れていたような気がしていて、今思えば、この時の文章の読み方が現在の僕の言語感覚を紡ぐ手助けをしていた、実は大事な時期だったようにも思います。そして頭の中に響く言葉、そのサウンドは、諦念と鬱屈する怒りに包まれたささやかな、Feel Good?


当時の僕の数少ない交友関係は中学校から同じ高校へ進んだ同級生たちでかろうじて成り立っていて、その中のひとり、西村くんが大好きだったのがGorillazでした。”Feel Good Inc.”がAppleのCMに使われたりして、一種のアンセムとして響いていた頃の話です。ブリットポップといえばOasis、Blurなんてキッチュだよね、とすごく傾いた情報に影響されて斜に構えていたこの頃ですが、デーモンがやっているヴァーチャルバンド、みたいなことはさて置いて、この曲には当時の僕も大変夢中になっていました。今振り返れば、あの曲の気怠い歌の雰囲気と、ヒリヒリする痛みと怒りに溢れているシニカルな言葉の世界観が、僕の心情に多分にマッチしていたのでしょう。



■2010年のこと

大学生だった僕はGorillazの新作『Plastic Beach』を聴いていました。1stや2ndの打ち込みベースのヒップホップとダブマナーの雰囲気から、よりエレクトロニック、しかもちょっとヴィンテージな方向性を志向したサウンドになっていて、当時80sのサウンドが苦手だった僕は思わず首を傾げてしまうようなエレポップの作品でした。Lou Reedが参加しているのですが、雰囲気的には後期Lou Reedの幕開けになる名盤『New York』より以前、割と彼が路頭に迷っていたっぽい時期の作品と同じ質感がしていたのもまた、僕の印象に影響していたかもしれません。Mos DefやDe La Soulの参加曲も、90sの彼らの作品とはかなり違う位置にインプットされていて、それもまた僕の中の違和感の故だったかもしれません。


という中でも好きな曲はあって、”Stylo”という曲はまさにそうでした。この曲のことを何故好きになったのかは正直よく分かりません。ポップではあるけれど、速効性の高いスパイスがある訳ではないです。Bobby Womackの拳の効いた、サブちゃんみたいな歌い方に驚いていたような気はします、これまでのGorillazのシニカルな視点とは少し違う位置からのサウンドでした。ベースのサウンド、どっしりとしていながら粒がはっきりとしていて、かなり重心の低い音に惹かれていたような気もします。ちょっとモータウン的なグルーヴに聴こえたりとか。兎にも角にもこの曲、質感自体にはディストピアを思わせる小さな退廃が潜んでいるように思えるのですが、その随所に人間が好むような魔法がある感じがして、それはそこで歌われる言葉もまた多分に関係しているかもしれません───もしもこれが恋なら、電撃みたいだね。



■2019年のこと

イベントのタイトルを考えている時、STYLO、という言葉が突然頭を過ぎっていきました。その語感自体がポップな感じもあって好きだったのですが、調べてみたらそれはどうやら万年筆のことのよう。画像検索をするとボールペンの写真が一杯出てきて、それが今回のイベントの趣旨とも合致するように思いました。日々僕たちが直面する幸福と不幸。それを書き留める為の万年筆やボールペン。なかったことに、感じなかったことにされてしまいそうな日々の瑣末を生存させていく為のささやかな反抗。言葉の膨張。膨張を捉えていく言葉。それは宇宙へと繋がっていく。人の心の中は宇宙みたいだ。そして言葉は舞っている。空間の中で。Feel Good、と問いかけられて、すぐに首肯することができない生活の中で、それでも言葉はいつまでも膨張していきながら、 僕たちの存在を担保していく。拡散させていく。霧散させていく。死と生を連結させて、僕たちは永遠に生きていく / 死んでいく。言葉はそれを写していく。それがこの世界の真理です。


僕は言葉の力を信じています。そして言葉の力を何倍にも鋭くすることができる音楽の力をまた信じています。誰かを傷つけるような安易な言葉が吐き出されてしまう日常において、疲労や絶望を感じることは多々あっても、僕たちを救い得る言葉はまだまだ生まれてくると思うし、そこから滲み出る優しさが実際に誰かの心を軽くすることはできるとも信じています。自分でも愚直だなあ、と時折笑ってしまうのですが、本心でそう思っているのであればそれはそう伝えるより他ないでしょう。つまり僕は愚か者なのです。しかし愚かであることは、度合いにもよるでしょうが、必ずしも悪いことではないとも思います。僕はその愚かさを抱えながら、出来ることをしてみたいと最近考えています。音楽のことはもちろん、それを巡る言葉についても。ですから尚更、STYLOは言葉と音楽の力を感じるようなものにしたいのです。僕が長年感じてきたその感覚を、言葉と音楽の紡ぐ拡散する光源を、他の人たちのたくさんの力を借りながら実際に空間の中に生み出してみる、そういう時間にしたいのです。あれ、遠くから誰かの声が聞こえてきます。誰の声だろう。もしもこれが恋なら、電撃みたいだね。そう、その通りだよ。

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