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some words?

- thinking (or sinking).

歓喜のうた、遠いオーロラ

最近読書する時間が増えました。今年の夏以降余儀なくされた自分自身の生活改善の一環で、本を読む時間が自然と生じてきたというところです。そして当然とも言えますが、時間が増えるということは本を読むペースも自ずと速くなります。元来決して本を読むスピードが速くない、むしろ遅めである僕にしても、軽量の文庫本一冊程度であれば一日かからず読めています。そうして読み進めていくと、必然的に次に読む本を常に探している状態にもなる訳ですが、とりあえず今は引っ越しにて再発見した本の数々を中心に、時折新たに買った本を挟んでいるというところで落ち着いています。最近の良き友はトマス・ピンチョンの諸作で、『LAヴァイス』はポール・トーマス・アンダーソンの映画(=『インヒアレント・ヴァイス』、Canも使われていた音楽も素晴らしかったですが、あれがまたジョニー・グリーンウッドの仕事ということで、彼のセンスには脱帽でございます)で触れたことがありましたが、実際に文章を読むのは初めて。非常にワクワクしながらとりあえず現在は『V.』を読んでおります。このまま著作順に読んでいくとしたら次は『競売ナンバー49の叫び』、無学な僕も名前だけは知っている噂の『重力の虹』へ繋がり、一番最後に『LAヴァイス』へ辿り着くのですが、ルートとしてはこれが比較的正しいような気がします。


いやしかし、おおよそ半年前には漢字をひとつ読むのにも労力がかかっていたことを踏まえると、本を読めることは直接的な喜びとなりました。こういう類の浮遊感や陶酔感は、思えば子どもの頃に本を読んでいた感覚に近い気もします。その頃から何かを失った訳ではないと思うのですが(喜びが全くないならそもそも本は読まないでしょう…読書は大いなる道草なのですから)、しかし喜びとはまた少し違う感情を学ぶ過程で、その配分量は変化していくものなのかもしれません。この辺は味覚の変化とも似ているのかも、と今書きながら考えています。全く本筋とは関係ないですが、最近の僕はひたすら甘いものを食べています。夏くらいにはのんちゃんとタピオカをスタジオ練習後に飲んで大変楽しかったのですが、いかんせんもう寒い季節ですし、それ以上にのんちゃんからタピオカブームが立ち去ってしまったものですから、最近の僕はドーナッツへと転向しつつあります。ミスドへ行きたい。ありとあらゆるミスドへ。


さて、最近読んだ本の中で非常に興味深かったのは『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)でした。蛍光ペンを持ちながら読書をするという学生時代以来の勤勉スタイルを取ったこともなかなか新鮮でした。本著で実態を暴かれていくオットー・アードルフ・アイヒマンという男はアウシュビッツ強制収容所へユダヤ人の送還を取り仕切っていた「世紀の虐殺犯」であり、決定的に関与した大量虐殺行為に対して想像力が著しく欠けている人物でもあります。彼が実際に行った発言によれば───「ユダヤ人殺害に私は全然関与しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない。そもそも人間というものを殺したことがないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。たまたま私はそんなことをしなければならない立場にはなかった。私が為したのはユダヤ人の絶滅に"協力し幇助したこと"のみである」


ここだけ読んでも、彼の発言が非常に矛盾しているだけでなく、異常な程度の欠陥を孕んでいるのがよく分かると思います。しかし本作に置かれた副題の指すところ、即ち「陳腐な悪」という言葉に引かれ過ぎ、アイヒマンと自己とに明確な境界線を張ってしまうと、この裁判録は決定的に読み違えます。僕自身も雑誌にて紹介されていたこの本の書評における「想像力の欠如」という言葉に対して興味を持ったひとりですが、『エルサレムのアイヒマン』はどういう背景から「世紀の虐殺犯」が生まれたのかを振り返りつつ、それ以上に重要な指摘を読者に与えていきます。即ち本著で描かれているアイヒマンの実態とはもっと現実的で猥雑・粗雑な存在なのです。簡単に言えば彼は出世欲しか頭にない無知で軽薄な存在であり、「出世の為にユダヤ人を殺した」ということに対して「実際に」認識が至っていない、言うなれば資本主義に塗れた貧相な犬に過ぎません。著者のハンナ・アーレントは、アイヒマン自身が逃走中のアルゼンチンにてまとめた覚書を「奇怪だ」と指摘しています。「奇怪な───というのは、このへたくそな文章のどの行を取っても、彼の仕事と技術的にも行政的にも直接関係ないことについては彼がまったく無知であることを示しており、また彼の並はずれた記憶力の悪さをも示しているからだ」。かつ裁判では実際に、その真実や本質はさておいて(裁判に有利と思われる発言しかしていない可能性もあるからです)彼の記憶力の都合の良さが明らかになっていきます。自分に対して有益だったり、自分自身を大きな存在と認識させてくれる出来事ばかりを鮮明に記憶していて、その他の些末な出来事は忘れている(ふりをしている)のです。


さて、少し場面転換して、別の貧相な犬の話を並行してみようと思います。『エルサレムのアイヒマン』の前に読んでいたのは、カエターノ・ヴェローゾが著した『熱帯の真実』(アルテスパブリッシング)でした。現代ブラジルを代表する音楽家が著したこの作品はブラジル本国では1997年に出版されていて、それが遅れに遅れ今年になってようやく邦訳されました。そんな経緯を持つこの作品ですが、しかし古さは全くなくフレッシュな内容を保っています。それには少なからず近年のブラジルの政治状況も関連していることでしょう───右派保守層によって再び軍政を取り行おう、という極めて非21世紀的な議論が真剣に為されているかの国で、この作品は再び価値の重みを増しています。というのは、ご存知の方も多いでしょうが、64年に発生したクーデターによってブラジルを掌握していた軍部によってカエターノ・ヴェローゾは逮捕・投獄され、終いにロンドンへ亡命するに至っているからです。本著はその始終を多岐に渡る視点から語っていく内容になっています。


カエターノがここで回顧していく軍政とは、全く統制が取れておらず、たらい回しを繰り返し、暴力が蔓延した、極めて形骸化した組織システムから成り立っています。それはカフカの数々の小説のような「出口のなさ」をひしひしと感じさせるものですが、実際のところ、その不可解なドアの向こう側へ強引に連れ去られ、二度と戻って来なかった人たちもたくさんいたようでした。何故そんなことが起こり得たのだ…と今では疑問に感じるばかりの軍政ですが、それを招いたのは「ブラジルの奇跡」と呼ばれた高度経済成長を背景にした極端な貧富格差と、それを後押ししていたブラジル全土に色濃く残る人種差別の結果というのは非常に耳に痛い話です。50年代から60年代に訪れた「ブラジルの奇跡」は国民感情にナショナリズムを芽生えさせ、それが後年の右翼ポピュリズムの醸成へと繋がり、やがて軍部によるクーデター、及び政治の掌握と暴走を招く、という一連の流れがあるのですが、なんかコレ、すごく何かに似ていませんか?


戦前の日本にそっくり…なだけでなく、現代の日本ともさして変わらないように思います。幕切れだけは意外とあっさりだった安倍ちゃんによる如何にも売名的な経済政策であったアベノミクスは、結果大企業と政治家のお友達にばかり利益をもたらし、市井の人々の生活はどんどん水準が下がる一方、コロナウィルスの蔓延がそれに拍車をかけ、結果どこから手をつけて良いかすら分からない混迷が立ち込めています。そう、ここは国家のカタチをした巨大な虚構の只中です。それは国会の様子を見れば一目瞭然でしょう。官僚・議員は質問したことに対して答えない、はぐらかす、自分たちの都合の良いところしか発言しない、誤魔化す、そのくせ威勢だけは良い、と見事に適当にやっている訳ですが、その姿に僕はアイヒマンの貧相な様子を重ねずにはいられません。実際、写真を見比べてみることを強くオススメします…すごく似ているんです。顔のディティールの話ではなく、隠さずに、いや最早隠すことにすら思考が至らなくなった浅薄ぶりが覆っている顔、その表情筋のなさ、木偶の坊による人形劇。彼らとアイヒマンとの決定的な共通項に気付いた時、僕は思わず笑ってしまいました。


そうなると、僕は全く支持していませんが、アンパンマンおじさんこと菅さんはまだ人間的ではあるかもしれない、と暫定の評価を下すことも可能でしょう。ほら見ろよ、想像通りだろ、と誰もが言いたくなるに違いないアンパンマンおじさんによる悪政ですが、最近の政権運営を陳謝する彼自体は、まあ素直にも見えなくはないです。一方自身の尻拭いを秘書に強引に任せて投獄を避けていたアベちゃんマンは国会の場でへいこら謝っていましたが、相変わらず中身がなく、僕はこの人に対して大きな恐怖を抱きます。しかしそのどちらが演技なんだろう、というのは一考に値するでしょう。アンパンマンおじさんの誠意か、アベちゃんマンの軽薄か? あなたはどちらに賭けますか? 僕はまだ長考している最中です。


さて、僕たちが日々目の当たりにしている犬ども、滑稽ですらあるからこそタチの悪い愚かな彼らは資本にコントロールされる人の象徴ですが、彼らを支えているのは他ならぬ僕たち私たち市井の人たちでございます。あの貧相な犬を見つめて、ああはなりたくないだろう? ということへは首肯する人がほとんどだろうに、彼らが一向に舞台上から蹴落とされないのは、多くの方が指摘しているように一定の「無関心と沈黙」によって犬どもを支えている土壌があるからでしょう。


『エルサレムのアイヒマン』で驚いたことのひとつに、ナチス党員が敗戦後も多くの官庁で職務にあたっており、アイヒマン裁判にあたって国際的な批判を浴びるまでそれが問題にもなってこなかった、というものがありました。アイヒマンを非難しながらその実彼とさして変わりのなかった、かつひとつも変化を見せなかったドイツ国民の無関心ぶりこそがナチスドイツの横暴を招いた、という点も『エルサレムのアイヒマン』における重要な指摘です。ハンナ・アーレントは次のように記述しています───「ドイツ人自身は結局無関心であり、殺人者どもが自由に闊歩していても特別気にもとめなかった。この連中はひとりとして自分の意志で殺人を犯しそうもなかったのだから。けれども世界の世論が───というよりも、ドイツ人がドイツ以外の国々を一つの単数名詞にまとめて<アウスラント>と呼んでいるものが───態度を硬化し、この殺人者どもが罰せられることを要求するとなれば、ドイツ人はこの要求に応ずる───少なくともある程度までは───のにやぶさかでないのだった」


一方『熱帯の真実』には、貧富の格差が経済を活性化させるシステムであり、それが結果的に軍政を招いたとする以下の著述があります。「六四年、ブラジル経済を機能させる(むろん、不全にだ)唯一の方法であると見られてきたこの不平等を恒常化させる必要性に後押しされ───国際関係においては共産圏ブロックからの脅威(冷戦)に対抗して自由市場を守るという大義名分を振りかざし───、軍人たちは政権を奪った。学生たちは、左派でなければ、沈黙した。家庭や交友の場では、健全な意識の持ち主であれば、社会主義的理想に与しないなど、考えられもしなかった。右派が存在したのは、ひとえに口にできないような疑わしい利権があるからだった」


さて、改めてですが、あなたは誰にベットしますか?


ここに関して言えば、僕自身の迷いは綺麗に払拭されています。即ち、資本や利権、広告に回収され形骸化した者には賭けない、ということです。何故かという問いに対しても容易に回答できるでしょう───僕を支配したいなら、美しい音楽や文章と同じように、賢くクールにやってくれ。



大変楽しかった晴れ豆でのトークイベントでハードルを上げすぎたのか、500ページを超える『熱帯の真実』の読書は時間がかかりました(し部分的には取りこぼしたところもありそうです)が、非常に難しいという前置きに反して意外にも読み易く、まるで熱病に罹患したように読み進めることができました。その至福の時間を通して、内容そのものとは別の観点での発見がありました。それはカエターノ・ヴェローゾの文章の書き方でした。思考系統や脳のシナプス運動の動きがストレートに反映された彼の文章は、流すように読んでいくといつの間にか話題が変わっているように感じられるものです。この書き方は町田康辺りにも似たものが見出せると思いますが、所謂前衛小説/実験小説に見られるような、そもそも異常な具合に流れている思考の河を辿るものとは明確に異なるものです。その為、スピードを落としてじっくり読んでいけば十分内容を掴めるはずなのですが、特にネット上で散見される短絡的な文章や短文主義・簡易な文章に「慣らされた」方にはこれでも読み難い類になるのでしょう。かつ、ここにカエターノ自身の博識さ・幅広さ、それらを発見する鋭敏な感度が絡んでくると、尚のことその鬱蒼とした森は恐怖の対象になるのかもしれません。これこそがカエターノ・ヴェローゾの特異性と際立った才能の所在なのですが、確かにハードル自体は高いのかもしれない…と思わなくはないです。


さて他方、初めて読むにも関わらず、僕はカエターノの書く文章に馴染みがありました。その不思議な感覚を読後に冷静に振り返ってみれば、自分自身の文章と彼の文章との間に近しい点や共通点があるからではないだろうか、と考えが至りました。もちろん彼の博学ぶりには足元にも及びませんが、その文章の筋道の立て方や枝葉の形成の仕方は非常に心地良いだけでなく、よく身体に馴染んでいる類の質感だったのです。


分かりやすい文章を書く、とか、誰かに理解してもらう文章を書く、という初歩的なことばかりか、そもそも僕は「分かってもらえる人に分かってもらえれば良いや」的な開き直りすらしておらず、言うなればただただ独白しているだけであり、自分自身でそれを整理しているに過ぎないのですが、では何故それを公開しているのか、に関しては自分でもよく分かっていない始末です。理解されようとしている? 間違ってはいない気がしますが、でもそれが原点ではありません。そうしてみようと思ったからそうしているだけ、という感じでしかないのです。この辺りの感覚は音楽でも全く一緒で、mihauと活動する前は音楽を創作することそれ自体が自分の円環で綺麗に完結していましたし、今も実はしているんですが、そこに他者を介在させることで円環に抜け道やトンネルを作っているように思います。


ひとつ前のポストで、今年リリースした『an jsfahhann (reoverboard)』の簡単な解説を自分自身で著したのですが、そらまめさんがそれに対して「爆裂読みやす」いとコメントされており、良いことなんだとは思いつつ苦笑いしておりました。というのも身近な人からストレートな意見が投げかけられたからで、そんなに読みづらいかい? 僕の文章って? という以前から少しあったささやかな疑問がまた誇大したからでしょう。実はその少し前にもmihauのマキさんから「平野くんの文章は常軌を逸している」と言われたことがありました。その表現はかなり大げさだとその時は正直思ったのですが、マキ鉄砲に続きそらまめ鉄砲も続いたとなると、まあ、多分、恐らく、メイビー、読みづらいんだろうね………と客観的に捉えるより他なくなってきます。そして今回の『熱帯の真実』を通してカエターノ・ヴェローゾは別視点からの示唆を与えてくれた訳ですが、しかしここで僕の煮えくりと鬱屈は深化せず、むしろ解消へと向かいました。非常にシンプルな話、僕は僕の文章を書けば良いだけなのですね。分かっていたことじゃん。を再認識した訳です。


ありがたいことですが、時折文章を書くご依頼を頂くことがあり、それには記名するケース・しないケース共にあるのですが(ちなみに人知れず公開されているものもあります、当てられたらコーヒーでも奢ってあげましょう)、中には「何でそれを僕に依頼するの?」と疑問に思うものもあったりします。適当な人が見つからなかったのかな…というのが丸分かりで、中にはそれをそう伝えてくる方もいるのですが、まあそんな不平不満をこうして言葉にせずにはいられない僕自身にもかなり問題はありそうですね。僕はほぼ無自覚だったのですが、僕の(難)癖のあるらしい文章も、言うなればその問題の表出なのかもしれません。しかし驚くべきは、中にはそういう僕の文章の特性すら認識しておらず、「読みやすさ」「容易さ」「簡潔さ」を強いてくるケースもあることで、その理由を聞けばマーケティング的にはそれが正解だから、という僕からすれば思考停止しているとしか思えない反論が返ってくるのがほとんどです。さらにその前提としては、それでも僕に依頼が投げかけられるのは「どれだけ低コストで、それなりの文章を用意するか」という極めて資本主義的な価値観に由来しています。それ自体はもちろん理解できますし、僕自身も依頼に関して対価を釣り上げようとは思いませんが、しかしそこに一種の思考のズレを常に見つめています───では「あなたが」「僕に」示すことの出来る「賢さ」や「誠実さ」って何なのでしょう。


テレビ番組で見られる企業紹介の一幕で、自社の製品の質の高さと、それがどのようにして安く提供できるかに関して「人件費を徹底的にカットしたんすよ!!!!」と自信満々のしたり顔で回答している方々がいますが、全くもって胸を張って言うことじゃないだろうと常々思います。そのシステムが貧困に直結していることを理解しているのでしょうか。思い至っていないというか、あんまり関係ないと思っているのかな。いや、本当に知らないのだろうか。資本主義の基本原理を分からないままそこへ突っ込んでいく、嗚呼彼たち彼女たち、笑ってはいるけれども、アイヒマンやあの政治家どもと同じ顔をしています。資本主義に塗れた貧相な犬たち。


前述したマキ=そらまめ連隊による思わぬ角度からの襲撃により、もしや世に寄り添って変わるべきは僕なのかとしばし揺らいだ一方、その「読みづらさ」の非をこちらへに投げかけるのは非常にナンセンスだと思っていましたし、僕の問題ではないようにも思っていました。しかし話はもっとシンプルだったのです。ドアがある程度は開かれた僕の部屋は確かに今、入り込むことが容易になりました。そして同程度に、いやそれ以上に、僕の部屋から出て行くことも容易になりました。僕の部屋がそぐわないのであれば「あなたが」退室するより他ありません───僕を支配したいなら、美しい音楽や文章と同じように、賢くクールにやってくれ。



音楽を創る喜び、聴く喜び、文章を読む喜び、書く喜び、それらがどんどんと自分の中で膨れています。春から初秋にかけての僕には見えていなかった未来が花開いているのがよく分かります。未来を垣間見ることは直接的に物事への活力になりますし、もっと切り詰めて言えば生命の源でもあると思います。僕が生きているのって、結局これの為なのですね。そしてこれを抜いてしまった途端、僕は生きる意味を失ってしまうのです。


その一方で、異なる未来について触れることもありました。先日朝倉さんと電話していたところ、平野くん知っているかなあ、と尋ねられたのは甘いお菓子のようなネーミングの言葉についてでした。全く把握していなかったそれについて聞いてみれば、一種のSNS要素もある配信アプリのサービスなんだそうです。とある方が最近そこに投稿するようになり、比較的容易にお金が稼げることに気付いたということを朝倉さんが聞き、朝倉さん自体はあまり自分とは縁がないと感じながらもそこに「可能性」を感じたそうで、それは最初期のYouTuberを見かけた時の感覚に近いのだと。変なことをやっている、が、それが未来のスタンダードになる可能性も十分あると。そしてそれが「音楽」を介在して得られる対価なのであれば、平野くんだってやってみても良いんじゃないかなあ、ということでした。その流れで僕の意見を聞かれたので、素直に興味がないと伝えたところ、おもろないわあ〜〜〜〜〜〜と連発され、正直ちょっと落ち込みました。面白くないという風に言われてしまうと、自分が悪いのかしら…と感じられたりもして、そこから数日考えてみたり調べてみたりもしたのですが、しかし結局「違う」と思いました。今ならもう少し整理して伝えられそうな気がします。僕の考えにおいては、あれは本来の音楽とその本質───創造することへの欲求・探究・追及にまつわるお金ではなく、広告や資本にまつわるお金なんです。僕は強欲だからこそ、自分とは縁のない資本やお金を手に入れることには全く興味がないんですよ朝倉さん!


そんなこんなで、最近は広告や資本の力と、それが如何に人間の歯を上手に抜いていくのかについてよく考えています。そしてそこを回避していくことについても考えているのですが、これがいくらか夢見がちで、現実を忌避しているように捉えられる可能性があることは十分承知しています。そしてそれは間違いなく正確な推察です。ここまでの文章において、僕が比較的理想主義的な考え方に傾倒する人間であることが当然ご理解頂けるでしょう。その理想主義に関して、『エルサレムのアイヒマン』にはアイヒマン当人を指し示した以下の記述が見受けられます。「<理想主義者>とは、自分の理想のために生きる人間───したがって商売人ではあり得ない───であり、また自分の理想のためにすべてのもの、そして特にすべての人を犠牲にする覚悟のある人間だった」


アイヒマンは自身を親ユダヤ主義だと主張し、恐るべきはそれが多かれ少なかれ事実である点なのですが、出世欲とも微妙く関連していく「理想」によって彼は多くのユダヤ人を殺めたのでした。判決が下された後の彼の発言はこう締め括れらています。「裁判にかけた自分の期待は裏切られた。自分は真実を語ろうとして最善を尽くしたのに法廷は自分を信じなかった。法廷は自分を理解しなかった。自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望みはしなかった。自分の罪は服従のためであるが、服従は美徳として讃えられている。自分の美徳はナチの指導者に悪用されたのだ。しかし自分は支配を行う徒党には属していなかった。自分は犠牲者なのだ。そして指導者たちのみが罰に値するのだ。私は皆に言われているような冷酷非情の怪物ではありません。私はある謬論の犠牲者なのです」


さて、僕はアイヒマンと何が違うのでしょう。

これは自戒として常に頭に入れておくべきことに違いありません。


世の中の人たちの多くが自信に溢れた表情で「私は彼らとは違う」と主張できることは、まあ憧れると言えば憧れるのですが、僕には端的に不思議でしかありません。自分が過ちを犯さないと言い切れるその自信の根拠がよく分からないからです。よく分からないなら遠くに離しておくべきだ、手を伸ばさないでおくべきだ、というのが最近の僕の考え方になりました。今年の僕が直視せざるを得なかった影を遠ざける為の諸々と全く同じように。これまでの歴史が繰り返してきた多くの凄惨が「それぞれが遠くさえあれば」避けられたということと同じように。


しかし同時に、僕たちには確かに遠く離れた人物や土地への想像力───エンパシーがより求められているとも思います。しかも、自分には到底理解できないと感じられるような「怪物」へチューニングを合わせる為のエンパシーです。この言葉をビル・エヴァンスが(正確にはシェリー・マンなのかもしれませんが)アルバムのタイトルに用いていたことはとても納得させられることです。エンパシー、それは確かに彼が追求していたジャズの一要素でしょう。ビル・エヴァンス・トリオは常にインタープレイを追求してきましたが、それは奏者同士のより自由な対話であると同時に、それを可能にする為のより豊かなエンパシーの形成・追求を意味していたのだろうと思います。


ちなみに『熱帯の真実』の一箇所ではカエターノ・ヴェローゾのエンパシーも感じました。彼は父親への尊敬の念を「公務員の仕事は公共的であるからこそ、それに一生を捧げた公務員を父に持つ僕は、生産を刺激する唯一の原動力は利益であるとする者を信用しない、リベラル経済の支持者よりはアッシジの聖フランシスコを選ぶ」と発言し表現しています。リベラルの立場に立つことが多いカエターノ自身の立脚点を前提にすればこの発言は一種ユニークでもあるのですが、それがエンパシーの賜物であることはなかなか胸に迫ります。彼が抱き続ける父親への深い愛情を感じずにはいられません。


そしてエンパシーと言えば、最近の僕の鬱屈をたちまちに解消してくださった、非常にありがたい訓告もありました。それはまだお会いしたことのない女性から頂いた言葉でした。レーベルのデザイン全般を担当してくださっているおきぬさんのご友人からのものなのですが、彼女は成り行きで僕の以前のポストに目を通してくださっただけでなく、それについて非常に素敵な感想と、僕を飛び上がらせるような褒詞と、訓告を同時に与えてくださったのです。ご褒美と偉大な訓告のマリアージュとは、実にこの上ない絶品です。


その言葉自体をここに載せるかどうか迷った挙句、心のうちに留めておくことにしました。しかし我慢できず少しだけ吐露してしまうと、そこには"知的で饒舌な人が「しないこともできる力」を持ったら…"という決定的なセンテンスがあったのです。それこそ、僕がここまで述べてきたことをいとも簡単に射抜いてみせる言葉でした。僅か450字の訓告を以ってして、彼女は、いとも簡単に、賢くクールに、僕を支配してみせたのです。本当の誠実さや賢さを前にして、尊敬の念と共に僕はその方に屈服しています。そして次に読む本が自動的に決定しました。加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』───それをしっかり読んでから彼女に会いに行ってみたいと考えています。構わないでしょうか。



「オウテカは“慣らされてしまったことへの服従”に抵抗する」というのは『Confield』のライナーに載っている野田努さんの大名言ですが、この言葉の示す彼らの姿勢は僕の意思決定に際して非常に大きな意味を持ってきたように思います。その勇猛なるオウテカは今年、これまでの自分たちの表現を踏まえた上で、その美点をさらに極めたような新たな傑作を発表してくれました。しかも2枚!


オウテカに限らず、Kelly Lee OwensTheo ParishPhewAddyLaurine FrostNicolas Jaar諸作Fabiano Do NascimentoDavid Toopディラン御大、そして非常に敬愛するフリート・フォクシーズの新作たちを今年はよく聴いてきました。フリート・フォクシーズに関しては別項できちんと触れたいくらい感化されまくっております、しかもまだレコード発売されていないのに…。偉大な先人の美しき傍若無人っぷり、それら全てが「服従しないこと」を大前提に根ざした表現で、しかもそれぞれ明確に異なっていて多彩であることも今年の僕を常に励まし続けてくれました。面白いことなんてなんだって出来るじゃないか、と根拠があるんだかないんだかもよく分からない背中の押され方をしています。


そしてそこに最近、もうひとつの作品が加わりました。ここ数日、僕はDischarming manの『POLE & AURORA』を聴きまくっています。彼らの『歓喜のうた』という作品に一時期の僕は非常に支えられていました。昨年の10月13日深夜2時過ぎに観た7th Floorでの彼らにも痺れました。そして今、彼らの新作によって僕は深い感動を味わっています。以前よりもラウド、かつ衝動的でささくれだった箇所が増えたようで、しかしそれらを全て包括して「優しさ」として表現してみせる途方もない賢さがサウンドに生々しく息づいています。不器用で優しい人がどうやって自分らしさを保ちながら生きていくか───そのアイデアの集積が彼らの音楽だなあと常々感じます。最近Twitter上で蛯名さんと繋がったことは、単にとても嬉しいだけでなく、同時に僕に微かな未来を見せてくれた出来事でもありました。いずれお会いしたり共演してみたいなあ、だなんて淡い想像です。そう言えば『an jsfahhann (reoverboard)』のジャケット画を提供してくださった飯島誠さんともまだお会いできていないなあ。飯島さんにも会いに行きたい。そしてもちろん、訓告をくださった彼女にもです。会いに行きたい人がたくさんいます。なんかでも叶いそうな気がするし、叶うかどうかは実は割とどうでも良く…というのは少なくともその夢があれば、なんだって続けていけそうな気がするからです。


多分今年は、従来分かっていたことを別の画角から再認識する年であり、思考をより深化させていく為の時間だったのだと感じています。そして今後の活動は「一方的に回収されないこと」「一方的に操作されないこと」に向かっていくのだろうとも思います。というか、この辺のことは前々から意識していたことなので、よりそこに対して意志がはっきりしたというところでしょうか。そして実際、皆さんの視界にはまだ入らない範疇で少しずつ進んでいる多くの物事が、それを追及するような内容になっています。音楽はもちろん、その他の分野も少しずつある感じで、そのうちのいくつか実際に浮上するのかは僕自身にも分かりませんが…幾らかは皆さんと共有できたら素晴らしいことです。


さて、年末だからこそ歓喜のうたを響かせましょう。今年は大変だったね、と全ての人たちと笑いあいながら───ベートーヴェンでもウィルコでもDischarming manでも、素敵で美しく優しい音楽たちをバックに───僕は儚いオーロラを見つめています。こんなしょうもない世界でも、悪いことばかりじゃないんです。だからどうか、生き延びてください。何故って、あなたとだって僕は会ってみたいんですから。それではまた2021年のどこかで。