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>>> some words? = thinking (or sinking)

反省文はいつでも遅れて届くもの - STYLO#3を中心に巡るこの2/3年について

もう4ヶ月前ということに心底驚いていますが…この間のことのようにも、はてまた大昔のようにも思える…そんな2023年5月7日、桜台poolにてSTYLO#3というイベントを行いました。このイベントはあらゆる点で「再会」という趣があり、主観的にも客観的にもようやくできた…という感想に尽きるなと、イベントを終えた僕は感じています。


一方、これは毎回あることなんですが、イベントには素晴らしき点と同じくらい反省や気付きが含まれているものです。良き点・悪き点の割合が異なり、そのバランスを総じて見てみたときに「こうだったなあ」と感じる…ということですね。


普段はこういうものを自分の中で省みる。バンドの皆と省みる。という具合に進めていくことが多いのですが、今回はそれをオープンしてみようかなと思いました。何故ならば「奇妙なものとぞっとするもの」と設定されていたSTYLO#3にはもうひとつの裏テーマがあって、それは「話せることはなるべく話す」ということだったからです。


とまあ、この切り口の時点で話せることが既にあるので、まったり進めていきたいと思います。長くなる気しかしていませんが、面白いものには違いないと思います!さあ始めましょう。


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0. STYLOとは

そもそも。STYLOとは僕の小さな小さなレーベルであるBabera Recordsの主催イベント…として2019年9月22日にスタートしたものです。STYLOというのは当時Gorillazの”Stylo”という曲を聴いていたときに「おもしろいな」とそんなに理由なく決めた名前だったのですが、今となってはこの時の自分のセンスに脱帽します。Styloとは万年筆の意味です。



2019年が1回目、2020年2月22日が2回目でした。毎回にテーマがあって、1回目は「音と言葉」、2回目は「機械的なものと人間的なもの」です。この企画は年に1,2回…のペースで開催するつもりだったのですが、この2回目の時には既に世間でコロナウィルスが騒がれ始め、周りのイベントも中止し始めている…東京でも感染者が出た…というような瀬戸際のタイミングでした。日程が1週間後であれば、STYLO#2は開催できなかっただろうと思います。


さて、コロナ禍に入ると多くの演奏者が身動きを取れなくなりましたが、かく言う僕たちもその例に漏れず。社会的な動きもそうですが、それに伴う個人個人の動きも関係して、ともかく時間がかかりました。結果的には3年間かかった訳ですが、ようやくスタートできるのが今年!ということでこの度STYLO#3を開催できる運びとなったのです。


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1. 「話せることはなるべく話す」


音楽に関わってくると、大きな規模でも小さな規模でも、その独特な雰囲気に対して思うことは常にあります。良いことも悪いことも。こういうことって慣れちゃうと特に何も感じなくなってくるのですが、現状に関して言えば…音楽の現場とはこうだ、こういう風に運営されている…ということを知らないお客さんもSTYLOにはたくさん来てくださっている印象があります。興味を持ってくださって本当にありがとうございます。


そのお客さんに対して、(昔の自分だってそれを理解していなかったのに)理解している側が「何も言わず」「こっち来いよ…」と手招きする態度を取るのは失礼なのではなかろうか、不親切ではなかろうかと、初回のSTYLOの時以来感じていました。一方、慣習的なものに寄り添った方が「僕たちが=主催者側が」楽なところも確かにあります。これまでは後者が勝ち、特に言及してはきませんでした。

なのですが、コロナ渦の最初期にライブハウスの運営の非がかなり大袈裟に喚き立てられた時、「世間におけるライブハウスへの無理解」と同じくらいに、「ライブハウスが世間を理解できていない」ことも僕は感じました(ちょい蛇足、今年のサマソニで熱中症騒ぎがあった時、ポカリを没収されたことに対して批判がありました。「この暑さに対して何たる暴挙…!!」と僕も始めは思ったのですが、糖分を含む飲料はスタジアムの芝に悪影響を与えることを知った時、自分の世界の狭さを思い知りました)。音楽の業界は一部分が慣習的に凝り固まっている…からなのか「いつのまにか上から目線」なところがあり、既にあるルールに対して「お前が飛び込んで理解しろ」という結構無茶な態度、興味のある人を振るいにかけて落としてしまう雰囲気が確かにあります。それを個人経営のレコード屋さんなんかに特に感じてきたのですが、演奏者やライブハウスにもそういったところがあったのではないかなとも考えていました。この態度はカルチャーの醸成という側面においては良いことでもあったりするのですが、まあでも、閉じ過ぎているのは良くないよね。


ということで、今回の裏テーマは「話せることはなるべく話す」と僕の中で設定されていました。これに関してはここまではっきりとは口にしていなかったのですが、自然と共演者の方々にも伝わっていたようで、とても喜ばしかったです。


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2. 「奇妙なものとぞっとするもの」としての司会者


イベント自体の表テーマは「奇妙なものとぞっとするもの」でした。これに関しては前回の投稿の方が僕の頭の中の動きを再現できているので、そちらをご参照ください。ここでは前述した裏テーマが表テーマとどう関係しているのかについて書いておこうと思います。


ずばり「司会者」について。司会のいる音楽イベントって、実はあんまりないんですよね。そう思いませんか? 他の演奏者の演奏直前に出演者が簡単に紹介する…というのは時折見ますが、それは文字通りの「司会者」ではありません。僕が記憶する限りだと、フジロックでは各ステージ(もしかしたら大きめのステージだけなのかな)で1番初めの演奏者の前に司会者が出てきて、会場のゴミの案内とか注意事項みたいなものをかるーく説明したのちに出演者紹介…というものくらいしか見たことがありません。

一方、「司会者がいる音楽演奏の場」そのものを想像することは恐らく簡単だと思います。何故かと言えば、テレビ番組がそうだからです。お馴染みミュージックステーションではタモさんが司会をし続け…というかあれはタモリがタモリとしてそこにいるだけですが…紅白歌合戦では毎年誰が司会者を担当するかの事前予測がニュースになったりしていますし、NHK周辺の歌番組は大抵そうですよね。逆に、司会者のいない歌番組の方が想像できないかもしません。出演者の情報が一切与えられることなく、演奏がただただ次々と続いていく…というこれは、むしろMTV的なミュージックビデオの世界観です。


じゃあ、なんで今はそうなったんだろう? と考えることができます。ここでひとつ提示しておきたいことは、「かつてはそうでなかったところもあった」ということです。例えばビートルズ来日公演の際にはE・H・エリックという方がいましたし(この方のお名前を恥ずかしながら知らなかったのですが、弟さんは岡田眞澄さんとのことでびっくり)、ジョン・コルトレーンの来日時はジャズ評論家の相倉久人氏が担当されていました。イメージできるものはあるのに、そのものには触れたことがあまりない…というのはまた不思議な状況だなあと思いますが、これにはやはりMTV文化とJ-POP台頭が絡んでいるのではないかと思っておりまして、これだけで文化社会学の論文が書けそうな代物ですが、ここでは深追いしません。


ともかく「必要 / 不必要」「是 / 非」「クール / ダサい」という視点の話は置いておいて、音楽イベントに司会がいる状況は少なくとも「当然」ではありません。当然ではないものがそこにあること、つまり何故だか司会のいる音楽イベントは、変に説明的な状況も含めて「奇妙なものとぞっとするもの」というテーマにぴったりでした。


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3. 「奇妙なものとぞっとするもの」としての桜台pool


テーマと司会者に加えて、桜台poolという会場もまた「奇妙なものとぞっとするもの」には欠かせない要素だったと思います。僕も久しぶりに桜台poolへ行ったのですが、やはりあそこ、不思議です。無機質で金属質で退廃的、人を寄せ付けないような雰囲気がある。会場の中にPAブースのある中二階へ昇る為の梯子があるんですが、あれで昇り降りしていると不思議な多幸感が訪れました。ああいうの好きなんですよね。インダストリアルなノリは元々好きで、以前はよく廃墟に行っていたのですが、その経験があの梯子と僕との間のグルーヴを加速させた気がします。

そんなザ・無骨な会場では普段電子音楽や前衛音楽を中心に演奏がされているので、dysfreesia + mihauの音楽性がマッチしているかというと…色々な意見があると思います。ただし今回は「奇妙なものとぞっとするもの」というテーマがあったので、「無機質な会場で + 司会者がいる音楽イベントが開催されている + しかもちょっとだけポップなやつ」という不安定さがまたやりたいことにぴったり符合していたのです。加えて僕たちも、歌ってはいるけど歌もののバンドではなく、毎度のことよく分からないというか扱いづらい位置にいるのだよなあ。とも思うので、そういう点でも桜台poolはベスト中のベストでした。素晴らしい会場でしたので、今後も使わせて頂けたら嬉しい限りでございます。


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4. お笑いからの影響

今回頂いた感想の中に、演劇や演出の感覚が強かった…というものがチラチラありました。分かりやすいところで言えば、司会用にそこそこ長さのある台本を作っていたりもするので、本当に仰る通りでございます。しかしその一方、演出するぜ!ということに情熱的だった訳ではなく、具体的にこうだ…と意識していた訳でもなく、考えていることをまとめていった結果そうなった…というのが本当のところ。しかしそうして出来上がったものを振り返ってみれば、それが何の影響だったのかはすぐに分かりました。お笑いなんですね。


もともとバナナマン東京03のコントが好きで、DVDが出る度に買っていました。思い浮かぶ限り、人生で友人に貸したまま戻ってきていない僕の持ち物のひとつはバナナマンの傑作選DVD-BOX。もうひとつは町田康の『告白』村上春樹の『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』ですが、あれはもう戻ってこないでしょう…。この2冊の本は後ほど買い直したのでもう「あげた」ことになっているのですが、バナナマンのDVDに関しては、かなり怪しいですが、返ってくるのをまだ待っています。


プレーヤーが不調になってDVDが観られなくなってから、それらのコント熱は休止するかと思いきやYouTubeで動画を観てきてはいて、最近もシソンヌの動画を観まくっていました。僕の好きなコントに共通するのは「知的な遊びとインテリジェンスを感じる」ことな気がしますが、それらを”アート系”と括って呼ぶことは最近知りました。僕の周りの人たちは”サブカルな”と表現していることが多かった気がするけどもそれは置いておいて、ともかくお笑いの世界にもそういう括りって存在してくるんだなあ…などと思ったりしました。


なるほど、ヒラノはコント推しなんだね…となりそうなところ恐縮でございますが、本当は漫才の方が好き。自由度は高いけれどフォーマットがある程度決まっている漫才の方が、それぞれの考え方や個性が分かりやすく反映されるからです。これはオーセンティックなジャズの「テーマ→ソロ→テーマ」みたいなクラシックなノリを思い浮かべると分かりやすい気がします。ただいずれにしても、その人の考えていることや表現したいことが自由に表れているものが好き。品性と知性がきちんとブラッシュアップされているものが好き。この2点が重要なので、その人が選び取ったフォーマットにきちんと付合しているのであれば、漫才もコントも大好きです。というスタンス。


で、ここ数年僕が愛していたのがキュウでした(もう一組、解散してしまったけどジソンシン良かったなあ…惜しまれる…)。これまでに書いてきたこと、キュウは見事に回収していて本当に格好良いです。漫才だけどコントみたいな側面もあり、かなり自由度が高く、伸び伸びとしたいようにしているのがよく分かるし、きちんと結果も付いてきているから素晴らしい!M-1取って欲しいんだよな…。同じM-1で言うと、やはり昨年度に出ていたカベポスターも見事に刺さった芸人さんで、彼らにもインテリジェンスと磨かれたセンスを感じます。




個別のネタの精度は大前提として、ライブ全体の演出で魅せる…というこれ、お笑いと演劇・舞台には多くの共通点があるから成り立つ手法なのだと思います。ぼんやりながらもこのことが頭に残っていて、今回のSTYLOに結びついたのだろうなあと今にして思います。


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5. プルート・ラブ・マッツォ


さて、では肝心の司会者はどういう感じが良いだろう…と考え始めた時、僕には既に答えが出ていました。それこそ、ずばりSSWのマーライオンだったのです。



パブリックイメージでいう彼はカラッとしていて、ポップで柔らかい人柄で…と本当に愛おしい要素が多い人で、実際の彼もまさにそういう感じです。一方、彼と色々と話していると実はかなりトゲトゲしたところ、攻撃的なところがあり、言うなれば「パンクロック」な人でもあるのもまた魅力的。この感じ、実は僕自身もそういうタイプだと自覚しているところがあったりするので、その点で言えば彼と僕とは結構似ていると思っています。だからこそ、今回の依頼もしやすかったところもありました。普通びっくりしますよね、突然連絡が来て、司会やってくれませんか、というのは。ところが彼はすぐに「やります!」と言ってくれたので、流石だなあと思ったものです。


僕は語らないけど、代わりに語る人がいる。この感覚はかなり面白いもので、自分の口での話し方と自分の頭の中での語り方は当然異なる = 頭の中での語りの方が雄弁でありますが、自分の頭の中の言語・語り方を他の人に委託して語ってもらう…というのは、実は思弁と会話を唯一直列出来ることなのだなあと思ったりしました。それこそ町田康の『告白』で主人公・熊五郎は「俺の思想と言語が合一するとき俺は死ぬる」と感じている訳ですが、彼の頭の中と言葉との間にある断絶を作家その人が繋ぎ止めた結果彼は(小説の中で)死んだ…というのは、いま思いついたことですがなかなか面白いなあと我ながら思いました。

しかし、思想と言語が合一したのだから、僕は死ぬということなのか…?


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6. コロナ禍は明けたのか? 分散したのか?


2021年頃から自粛ムードも少しずつ薄れ始め、それには各々の経済的な事情も関係している訳ですが、ライブそのものもある程度は再開される…という流れがありました。その一方「三密」回避の為にこれまでのキャパを完全に戻すことは出来なかったので、各会場では上限を設定した上での営業による苦労も散見されました。

前回STYLO#2の際のコロナの状況とは、「横浜のフェリーが着港し / 関東各地でちらほらと感染者が出始め / まだ数は少ないものの確実に感染が拡がっている」という時点でした。2020年2月22日の段階でも中止になったイベントや、最初期の感染対策の基恐る恐る開催されたイベントがありました。STYLO#2に関してはその状況は気にしつつ通常通りに開催し、結果的にかなり多くのお客さんに来て頂けました。しかしそのイベント明けから、中止に追い込まれた他のイベントがどんどんと増えたことを受け、日程が1週間後だったらきっと開催できていなかった…と今でも思います。


これは非常に憎たらしい偶然ですが…STYLO#3の翌日・2023年5月8日からCOVID-13の位置づけが 「新型インフルエンザ等感染症(いわゆる2類相当)」としていましたが、令和5年5月8日から「5類感染症」になりました(厚生労働省HPより引用)”なので、実はイベント当日がコロナウィルスへの対策が必要とされていた最後の日だったりして、前回と今回のSTYLOの空白の間がそのままコロナ禍の期間と重複していた…という。


ですが、今回のSTYLO#3も感覚的にはコロナ禍前のイベントと同じで、お客さん同士の距離が求められることも、演者との距離が求められることも、果てまたアクリル板越しのコミュニケーションが求められるでもなく開催できたことは喜ばしいことです。と言いながら、会場にいたほとんどの方がマスクを自然と付けていたことはとても奇妙に感じました。会場の様子だけだと3年間のブランクがまるでないようで、しかしコロナ禍が確実に生活に乗っかっていたことは分かる。なので、僕はコロナ禍が「明けた」という風には捉えていません。今見ている世界は何かが綺麗になくなった世界ではありません。僕たちが日夜恐れていたそれは「分散した」、僕はそう思っています。

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7. 何故、天気が悪いのか。よりによって。


ということで…開催者・出演者としてはコロナの感染者が出て演奏できなくなるとか、そういうことにはシビアになっていたのですが(実はmihauにも5月下旬に感染者が出て、僕自身はすごくヒヤヒヤしました。隔離期間が短くなっていて本当に助かった…)、コロナそのものへの恐れはほとんどなかったのです。が、思ってもいなかったのが天気のこと。


というのは、今年の連休は見事に天気が悪く、最終日たる5月7日は全国的に雨。関東は大雨というだけでなく風もとんでもなく強い。言うなれば嵐。春の嵐。年間でもあんなに天気悪いことあんまりないよね…というくらいの大嵐。


大体イベントの1週間前くらいから天気のことを気にし始める訳ですが、雨予報なだけでもちょっとゲッソリするのに、開催日が近づくにつれて見事に荒天の予報が色濃くなっていき…僕はどんどん痩せていったはず。数年ぶりに会う友人が何人かいたのですが、総じて「痩せたね」と言われる始末。前回のSTYLOの写真を見ていた時、なんか頰がこけたな…と自分で感じていたりしたのですが、あの日の僕の痩せ方には間違いなく恐怖が影響していたはず。


振り返れば、初回のSTYLOの日も天気が悪く、イベント開始までは保ってくれたものの、終演後にはしっかりと降り始め。慌ただしく荷物をまとめ、いそいそと渋谷駅へ向かっているところ、カセットの入った段ボールを見事に崩し、半泣きになりながら雨に濡れたこともありました。僕たち絡みのイベントの時は「見事な晴れ」ということはほとんどなく、大体曇りか雨…というケースばかりで、今回もそこまで期待はしていなかったのですが、よりによって嵐はないだろう。意地悪過ぎるだろう。

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8. 天候は人にどれくらい影響するのか①


多くのイベンターにとって天候は大きな懸念事項のひとつです。雨降っているやんか→今日は出かけるの止~~~め~~~た~~~という感覚は誰しもに共通しているのであって、人はその用事の重要度によって「止~~~め~~~た~~~」を時には行使する訳です。イベント来てくださいね!と出演者が宣伝するのと同じくらいに、皆様が家を出るか出ないかの選択は重要。そりゃそうでしょう、かく言う僕は偏頭痛持ちなので雨の日はなんとなく調子悪いし、気に入った服が濡れてしまうのはがっかりするし、荒天ともなれば怪我をする可能性だってあるし…と立ち止まって考えてしまうことが連鎖します。

多くのイベンターはこのパラドックスに苦しみます。イベント自体には人が来てくれないと大変だ、でも雨でも絶対来てくれとは非常に言いづらい、でも、でもでも、でもでもでも、でもでもでもでも…というね。


実際のところ、今回出演してくれたマーライオンくん、あるいは演奏家の友人たちも天候に関してはげっそりすることがよくあるそうで、雨降っていたから全然お客さん来てくれなかった…なんてことはザラ中のザラ。マーライオンくんはかつて、イベント開始時に雨が降っていてお客さんが全然いない…最悪…と思っていたところ天気が良くなり、そしたらお客さんが急に来てくれた…ということも経験したことがあるらしいです。怖過ぎる雨…


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9. 天候は人にどれくらい影響するのか②


だもんですから、雨中の雨・嵐中の嵐だった5月7日、今回の撮影で敏腕を誇った渋谷くん(彼の話もたくさんできるのですが、今回は意図的に避けます。何故なら別の機会でも彼については沢山話せそうだから)が運転してくれた車の中、窓を打ち付ける雨はどんどんと酷くなり、まだ大丈夫許容できる…という雨への願いが裏切られ続けていく度「終わった………………」と思っていました。なのですが、いざ会場してみれば普通にお客さんたちが来てくれている。数人という感じではなく、数十人という感じで。少しだけ開場時間が遅れたのですが、予定時間に来てくれている方もたくさんいる。


あの光景は実に泣けました…。


人を動かすことには大きなパワーが必要です。今回のイベントに対してどんなパワーが各々に働いたかはありますが、それにしたってお客さんが雨の中を来てくれる…というのは感動的なことです。雨で服が濡れたり、頭が痛くなること以上に音楽を選んでくださってありがとうございます。


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10. 同窓会をどう受け止めるか


イベントを、特にインディ的な小規模のイベントをするにあたって少なくない人を悩ませるであろうことが「同窓会」な感じかと思います。これは初見のお客さんからすると実にハードルを感じさせるし、人見知り度が高ければ高いほどこの壁が巨大に感じられるかと思います。

これ、ライブハウス特有の出来事なのだなと感じさせられたふたつの出来事がありました。ひとつは、コロナ禍真っ最中の時に松本花さんと某ライブハウスへ行った時のこと。その箱のことは前から知っていて、評判が良いことも知っていました。で、いざ行ってみたところ、本当に良い箱。スタイリッシュでカッコ良いし、DIYの気質が僕の好みにもよく合うのですが、同じ要因によってハードルとなったのが「ハードコアなノリが故に非常に閉鎖的であったこと」でした。会場にいるお客さん同士である程度はコミュニティが出来ている感じ、そこに参入していくの?わたし?みたいな、できないわたしが悪い、ここは合わない…となりかねない、そんな雰囲気でした。既にあるコミュニティに突入していく感じが僕は非常に苦手で、その上そこは極めて男性的なコミュニティだったので尚更だったのですが(苦手なんですよ男どもが密集しているあの感じが)、花さんはそういう感じでもなくフランクに初対面の人と話したりしていてすごいなあと思いました。飲みニケーションが為せる技なのですが、逆に言うとお酒の力がないとそこには参入できないのか、という見方もできます。

もうひとつ、これはコロナ禍に入る前のこと。一度オールナイトのイベントに行ってみたら意外と自分に対応力があったことに気付き、そうすると「クラブに行く」という選択肢が自然と生まれます。クラブに行くことに対して自分に抵抗がなかった理由のひとつとして「必ずしも誰かといなくても良い」ことが挙げられそうです。ライブハウスでは「ひとり」ということになんとなく背徳感を味わうのですが、あら不思議クラブだとそれが希薄なんですね。何故かといえばそこは基本的に暗がりだからひとりでいること自体が気楽だし、極めてシンプルに音楽を楽しめば良いだけだし、「お酒を飲む」ということにコミュニケーションを目的とした「人付き合い」の要素が直接的に繋がらないし、友達がいようといなかろうとその場を共有できるから…という気がします。


ただしこれは、僕が遊びに行っていたContactの現象だったのかもしれません。渋谷にあった硬派なクラブだとContactやVISIONが挙げられるかと思いますが(多分もっとあるのですけど、ちょっと分からないのです教えてください面白いところ…)あそこがビルの建て替えに伴ってなくなった途端、コロナ禍ということとも混じり合って僕は見事にクラブ通いから道を逸れていきました。


ライブハウスはひとりでいることに寛容でない…というのは、ちょっと言い過ぎだとは分かりつつも否定できないことかなと思います。実際、ライブやるから遊びに来てよ!と誘った時に、誰か一緒に行く人がいれば行きたい…という反応の人、決して少なくありません。「旧知の人が集まる」同窓会的な要素について、ここまで否定的と捉えられそうなことをつらつらと書いてきましたが、僕自身は同窓会でも良いなあと思っています、が、それだけにしてしまうのは残念…というスタンスです。同窓会でもひとりでいられる遊び場としてもライブハウスが開けていると良いのになあ…とは自分が出演者であろうとお客さんの立場であろうと割と考えることが多いです。


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11. クラブ的なノリをどう持ってくるか


クラブの特徴のひとつは、時間内であれば音楽が途切れないことにもあると思います。自由に場所を変えられるし、どこでも音楽を聴けるし、疲れたら外に出れば良い…というこれ、実に機能的でシンプル。ライブイベントの場合は、余程広い会場やステージが複数ある場合でない限りはバンドの機材の入れ替えの時間が基本的には必要なので(「転換」と言います)、その間はひと休憩…となるのですが、この休憩時間がお客さんにとってなんとも言えない時間なのはよく分かります。僕は苦手。ひとりでいることに背徳を感じるから。


幕間にDJが入ることは、この点で言えば良きアイデアです。ただ一方、ライブイベントの場合はDJが「付帯品」という風に見えがちなのもよく分かる。どうしてもこのケースにおけるDJはBGMとなってしまう…。STYLO#2の時は、DJの代わりにmiddle cow creek fallsが演奏をしてくれました、つまり演奏→演奏→演奏と地続きにしたのですが、これもバンドの演奏に対してのアンビエント…という感じになり、DJの場合と見え方がそこまで変わらなかったのではとも言われました。難しいなあ。

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12. さて、またここで司会が関連してくる


つらつらと書いてきた上記のこれら、複数の会場でライブが行われているフェスみたいな構造でない限りは回避しづらい問題なのですが、今回の実験のひとつは、演奏の後に司会の語りを入れることで幕間の時間を「なんとなく短くする」ことでもありました。司会の話を聞いている時って、幕間なんだけど幕間でない感じがしませんか?

これがうまく行ったのかどうか、それは僕にはちょっと分かりません…お客様のご意見をお待ちしております!

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13. それにしても、話し過ぎ、だったか?


3年ぶりのライブということでかなり意気込んで演奏をしたのですが、色々と話さなくてはならないことも盛りだくさんで、実はそこも悩みどころでした。ライブのMC、本当であれば誰かに任せたいところなのですが、色々と考えたり主導しているのが僕である以上、ある程度は僕が話さなくてはならないのは確かです。


なのですが、お客さんに一方的に語りかけるのではなく、なんとなく会話している風にしたいとも常々思っています。僕は僕でサービス精神が(多少は)あるので、話していることに対して反応があればそれにも乗っかっていきたい…要は「みんなで話している」感じがベスト。これは恐らく漫才の感覚と全く一緒で、会場全体でグルーヴを作りたい。となると、話しているうちに違う話になって…膨らんで…というプロセスを踏むことになるので、脱線の連続にもなりかねない訳です。

なので毎回MCは余計なことを話している傾向が強いのですが、今回は特にそうだったかも。”ディック・ダイヴァー”の演奏時にギターの弦が切れ、張り替えの時間が必要だったことも関係しています…繋がなくてはならないのでね。なので本当にたまたまですが、ここでも司会がいてくれたことが功を奏しまして、プルート・ラブ・マッツォ氏が見事な会話でお客さんを繋ぎ止めていてくれました。とてもありがたい…


まあともかく、話過ぎたなあとは思います。そんな話すなよ演奏しろよ、という人も間違いなくいらっしゃるかと思うので、ここも反省すべきポイントのひとつだなあと感じております。

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14. 演奏と音響


今回のSTYLO#3ではバンドとしても大きなチャレンジがありまして、演奏のクオリティは当然なのですが、音響的なものへの感性でした。僕自身がかなり音響的なポイントにうるさかったりするので、mihauの皆的には「もう飽きたっす」という感じかと思うのですが、いやでも音って大事なのよ。特にバンドは総合的なサウンドでも良し悪しが判断されるのですから。


桜台poolはかなりDIYな空間で、返しのスピーカーというものがありません。ドラム3点はおろか、ボーカルにもありません。となると普段のスタジオでの音作りのセンスがもろに表出する訳ですが、今回のライブではmihauとしての音作りの甘さが露呈したと思います。出来栄えとしては40%くらい。一応言い訳としては、ダブシステムを数年ぶりに入れ、そこにかける時間が少な過ぎた…というものがあるのですが、何にしたって準備不足考察不足だったことは否めません。


ライブをそこまでしていないのですが、mihauは実はライブバンドだという認識はあります。なので演奏そのものは水準が高いと自分自身で思うだけに、今後の課題は演奏の良し悪しに傾き過ぎているバンドのバランスに音響面の比重を大きくしていく…ということかなと。


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15. 日記 / 散文 / 世界の終わり①


今回演奏した新曲に関して。前述した”ディック・ダイヴァー”に加えて”カサノバの日記”という曲はmihau的には結構「イル」な雰囲気。曲の作り方そのものはこれまでのものと全く同じなのですが、仕上がりは大分変わりました。僕たち自身もバンドの音楽性の説明が難しいと感じているのですが、そのひとつには「一見すると音楽的な統一感がないから」というポイントが挙げられると思います。


一方、僕自身でそれに関して説明をするのであれば、バンドの音楽は大きく3つのパーツの構成バランスによって成り立っている…と言って良いかなと思っています。それが「日記 / 散文 / 世界の終わり」というもの。詩に関してもそうなのですが、音楽的な側面に関してもそれについて(無意識的に)考えながら自分たちの音楽に対峙しています。これらは恐らく日常的な所作に紐づいているものなので、僕たちの生活を為す要素がそのまま音楽に反映しているとも言えそうです。

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16. 日記 / 散文 / 世界の終わり②


では、今回演奏した曲に関して、そのバランスに当て嵌めて考えてみたいと思います。これは皆様云々というよりはバンドの皆への私信に近いかも。それぞれのパーツのうち、楽曲の中のバランスを書き出してみます。


“ディック・ダイヴァー”

日記=60% / 世界の終わり=35% / 散文=5%


“カメラ”

散文=70% / 世界の終わり=29% / 日記=1%


“ミハウ”

散文=40% / 日記=40% / 世界の終わり=20%


“カサノバの日記”

世界の終わり=40% / 散文=30% / 日記=30%


“アンナ・カリーナ”

散文=70% / 世界の終わり=29% / 日記=1%


“メメント・モリ”

散文=45% / 世界の終わり=45% / 日記=10%

“ヒムナル (song for greta)”

世界の終わり=40% / 散文=30% / 日記=30%

“紗”

日記=70% / 世界の終わり=25% / 散文=5%


こんな感じ、と言いつつ、納得いってません。というのは、それぞれの要素がかなり深いところで絡まり合っているので、世界の終わりを感じているのは日常生活 → ということは日記の要素も当然強まるということなので、これは説明にならないかも。と書き出してみて思いました。なのでそこまで真剣に向き合うことなくあくまで参考までに…

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17. 大学の講義

こんな具合に自分自身でイメージをしていたイベントでしたが、自分とは違う視点からそれを捉え、発展させてくれたのがTwothでした。普段はクラブ寄りの実験音楽界隈に属する演奏家である彼ですが、今回の演奏はとてもユニークでした。彼は自分の音楽性と、機材を用いる手法とを交え、お客さんに語りかけ説明しながら演奏をしたのです。



この方法での演奏は正直に言って想定外でしたが、思わぬところから自分の考えていた物事へ補完してくれるアプローチが現れたことにはとても興奮しました。「話せることはなるべく話す」という裏テーマを、あたかも大学の講義のように発展させるとは…


「自分の手の内を明かす」ということは演奏家にとって諸刃の剣といえます。実際、最近mihauの皆と話している時にも、自分たちの話 = パーソナリティの話をどこまでするかということに対しては様々な意見があります。語ることによる魅力と、語らないことによるミステリアスさのどちらを求めるか…ということなのですが、どちらが楽かといえば語らないことかなと思います。秘密を徹底することも難しいことには違いないですが、自然と表に出てしまうことに対して寛容でいられるのであれば「基本的には」黙っているだけで良いのですから、語らないことのことの方が楽です。加えて、語ることによって自分の専売特許をオープンすることになったり、コピーをされやすくなる…という側面もあると思います。


Twothが語ることを選択したのは、簡単なようでいて結構難しいことであり、勇気がいることだなとも思います。僕には簡単に出来なかったでしょう。バンドのことを話すのはなかなか難しい。特に音楽的な側面に関しては。

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18. 大人が本気で遊ぶということ / 大人が本気で学ぶということ


STYLO#1の時のMCを思い返すことがあります。(今回のSTYLOはやや特殊だったのですが)MCは基本的には当日の雰囲気で話すので、その時もただ話したいことを話しただけだったのですが…あの時に僕は「大人が本気で遊べる社会は良いものだと思う、だから自分はそれを追求したい」というようなことを口にしました。

我ながら、核心をついたことをさらっと口にしたなあとびっくりします。どんな社会にも息苦しさとか生きにくさは付帯すると思うし、その為に「自分は勝ち組になる、自分自身は生きやすくする為に」と意気込むのは嗚呼なるほどとも思う一方、(名目上は存在ない・けれども存在を否定できない)所得による階級のどの位置においてもそれは付きまとうはずです。加えて、僕はリベラルだし社会主義者なので、これは本当に個人的な嗜好でしかないのですが、その勝ち組思想は全く好きじゃないです。チョイスが短絡的だし、結局悪循環するものの肩を担ぐだけなのよねそれ…と思います。


自分が音楽や小説、映画から学んだことのひとつは「本気で遊ぶ」ということでした。音楽で言えば、特にインディと呼ばれる界隈のベースは「本気で遊ぶ」ということで構成されています。お金にならない / なりにくいのにそれをする、ということは本当にシンプルに「それがしたい」だけなのであって、大人が本気で遊ぶ手段のひとつだと思います。クラブなんかもそうですね。大人が本気で遊ぶ、日常的な苦しさから解放される瞬間を共有する…という行為は、考え方のベースとしては健全かと思います。

ただしここで言わなくてはならないのは、何故ストレートエッジ寄りな考え方をしているので「アルコールドラッグセックス」いらんだろ、邪魔だろ、と個人的には思っているということでしょうか。それは「本気で遊ぶ」こととは根本的に違う話が流れ込んでいるように思います。ウィスキーみたいな蒸留酒と、コンビニで売っているアルコール度数だけが高めの安い酒みたいな差ですかね…これの説明にお酒を用いること自体どうなんだろうと思いつつ…それがなくたって最高に楽しいっすよ。本当に好きだったら。


そしてもうひとつ重要だと思い始めたのは、大人が「本気で学ぶ」ということです。特にコロナ禍において、決して少なくない大人たちが非科学的な論拠でCOVID-19という猛威を「ただの風邪」と真剣に考えていたことを見て、よりそう思うようになりました。スピっていることが必ずしも悪いとは思わないですし(言っちゃえば僕もスピっているような気がするし)、考え方・捉え方に諸説あり、しかも情報化社会によってあらゆる正しさが乱立してしまっている現状では判断が難しいのは確かですが、バタバタ人が死んでいる状況を「ただの風邪」と表現するのは気楽過ぎると思うし、自分勝手だよなあと感じていました。


人間を苦しめも助けもする諸刃の剣、しかし今では別の文脈…循環可能なサステナブルな社会を求める上において、科学的なことを受け入れることは非常に重要だと思います。それは即ち「大人が学ぶということから逃走しない」ということ、同様に「大人が本気で学ぶということを求められている」ということだとも思います。


ここまで大層なことを意識的に考えてはいなかったですが、実際のところ今回のSTYLOはベースにそういった考えが投影されていたのだなあと、今となっては思います。


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19. ヒッピー / アウトサイダー / 学者


社会のことを自分なりに、それでも真剣に考えている、そしてそれを表明することはアウトサイダーとされがちです。全然良い話ではないけれど、でもこのアウトサイダー観は投票率にもよく現れていると思います。多くの人は日常の世界で十分、外側にある社会からは「逃走したい」のですね。


多くの点で考えることが多いのですが、所謂知識層に属する学者も社会的に見れば少数派であり、言うなればアウトサイダーに位置すると思います。あるいは、LSD研究で著名なティモシー・リアリーも高名な学者でしたので、アカデミズムとアウトサイダー観というのは密接に繋がっているのでしょう。そうすると、社会的逃走者の嚆矢であるヒッピーですらある意味ではアカデミックだったことになり…とあらゆるポジションが密接に絡み循環していることにも思い至ります。


それとSTYLOがどう関係しているのだ…というのは全くその通りなのですが、しかし僕の中ではこれらは多くの点で関係しています。しかし言葉にするのが難しい…けれども、はっきり言えるのは僕たちはかなりしっかりと「アウトサイダー」であることを自覚していることです。


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20. 分かりやすさと分かりにくさ


そんなアウトサイダー観に付き纏うこと、それ即ち「分かりやすさと分かりにくさ」でしょう。これもまたmihauに大きく関係している問題。我ながら、mihauの音楽性はポップでありながらそうでもない、みたいなところを彷徨いていて実に中途半端なのだと感じます。音楽的な構造で言うと、mihauの音楽はミニマルに循環しているものがほとんどです。一般的なポップスのような劇的な展開はほとんどありません(そういう曲がアイデアにない訳ではないのですが、それらのほとんどはアレンジの時点で廃棄される運命にあります)。ですが、メロディやコード自体はそこまで捻ってなくシンプルかつストレートなものが多いとも思います。つまり、中途半端。

STYLOというイベントは、単純に自分が観たいと思うもの・面白いと思うもの・好きだと思うもので構成されているので、バラエティやボキャブラリーは豊かであった方が良いと思いつつ、そこにすごく拘っている訳でもありません。しかし、それらの音楽に「自分たちの音楽との繋がりを自分たちでも感じる」点は重要だと思います。他人の振り見て我が振り直す、ではありませんが、でもそういうことです。


分かりやすさを追求しているのではないけれど、分かりにくさを追求しているのでもない。では何を追求しているのかを、他者の音楽を通して省みる。STYLOはそういう場として僕たちに影響しています。


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21. 届ける為に


そういう一種の過程を皆さまと分かち合いたい…少しでも多くの方と…というのが僕たちの望みです。そこにはもちろん経済的な側面も影響しています。収支を成り立つように構成し、自分たちだけでなくひとりでも多くの人の活動をやりやすくする…ということは、熱量の話とリンクする重要な点です。


となると、宣伝は非常に大事です。宣伝しない限り、ふらっとお客さんが来るということはなかなか考えづらいことですね。インターネットなき頃の宣伝の方法とは広告・ビラ・口コミ・誘うという具合だったのでしょうが、これだけできちんと成り立ってきたイベントとは一体…と考え込んでしまいます。今となってはネットを使用した宣伝は必須であり、特にSNSの拡散力が大きく影響しているのは言うまでもありません。


なのですけど、SNSにも限界あるよねえ。というのが最近の印象。SNS離れという用語も見かけるようになってきましたが、SNSの社会構造もリアルの社会と同じく息苦しいものになってきました。社会からの逃避の受け入れ口としての匿名性、しかし特定されづらい環境にあるからこそ暴力に傾きやすい。それが顕著なのはTwitter (今ではXという謎SNSになりました、しかしいつまで経っても「旧Twitter」と書かれるのはイーロンさん的には苛立たしいだろうなあ)、そこで繰り広げられる暴力を見るから疲れてしまう…訳ですが、その捌け口が別の「平和な」SNSであることはちょっとユニークだなと思います。記名性・個人性が強くなってきたSNS、特にInstagramを見ていると、Twitterで繰り広げられていた良き点悪しき点を交えた一種の混沌としたディスカッションの側面から、個別の生活の良きところだけをアピールする「美しきアルバム」の側面へとSNSのムードが移行したのがよく分かります。あそこにあるのは楽しさ・面白さ・美しさ・充実した日常による「建前」で、しれっと抜かれた個人情報によっておすすめや広告が流れてきて、どんどんと悦楽へと浸っていく…というこれが悪いとは言わないけれど、ちょっと虚しいなとは感じます。加えて、享楽的なことを見つめて追い求めているだけで、結局Twitterと同じ構造による社会ではあります。現実社会とは違うトータル的なバランスを欠いた世界での話、表と裏みたいな。1番必要なのはリアルの社会構造を見直すこと、リアルの社会を生きやすくすることであり、それを実現する為には政治が大事。と少し話が逸れ始めましたので戻します。


Twitterは無作為に情報が拡散されるツールであり、だからこそ良き面悪しき面が両立していた訳ですが、宣伝にはもってこい。ところがTwitterはアプリ上ではツイートが間引かれる仕組みになってしまった…というシステム変更の話もあったりするのですが、これは各々の実感としても分かるところがあると思います。SNS上の宣伝には拡散される力が大きく求められますが、Twitterの崩壊が見えてきた今(というか、名称が変わったのだから既に崩壊したのか)、その代替になるものとは何なのだろう…インスタ上にある美しき日々をタイムライン上に羅列したようなThreadsがそうなるのか…? あるいは別の…MastodonとかBlue Skyとかなのか…? と考えながら、SNSと自分自身との距離感について考えたりもします。


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22. 『verbena (for john and sarah)』の価格


さて急激に話題が変わるのですが、『verbena (for john and sarah)』というコンピレーション + ZINEという作品をコロナ禍直前に制作して発売していました。これ、カセットテープのケースに文章がぎっしり書いてある紙が折り込まれて入っているという仕様のもので、セルフボースティングすると、この世界において他には存在していないものだと思います。また、ここで扱っていたのが「距離と愛情」というテーマで、コロナ禍における僕たちがまさに「物理的 / 心的な距離」への考察を強いられていたことを考えると、ちょっと先を行っていたなあと感じもします。えっへん。


さて、そんな作品なのですが、これからバシバシ売っていくぜえ…というところでコロナ禍に突入。ネットを介して売ったりもしましたが、会場での物販に比べると微々たるもの。読んでもらいたい気持ちに反して手に取ってもらえる環境が少ない…というものではありました(またも脱線。手に取ってもらえる / もらえないについて考えさせられ続けていましたが、読んでくれた・買ってくれた人の話を人伝に聞いて驚いたケースがいくつかありました。あの人が買ってくれてたの…マジ…鳥肌…とびっくりしたりで、届くんだな。と感じたことも付記しておくべきですね)。

このZINEは当時感じていたことをつらつら書き、他の人にも書いて頂いたものをまとめた作品ですが、そこに見事に「コロナ」というものが存在しないことを踏まえると、今となっては異世界から届いた読み物のように感じられてとても面白いです。そして同じように、コロナ禍を挟んで以前・以後の世界にも当然共通するものが多くあることを再認識させられました。ある意味ではこれ、当時よりも今読んでもらった方が面白いのではないかなと感じています。


一方、この作品には色々な試行錯誤や悩みが付き纏っていたのも確か。制作し始めてからイレギュラーが頻発しまくり、コンピに関しても最後の最後までどこまで収録出来るかが分からないまま進めていたり。さらに実作業として「紙を折り込み→カセットテープのケースに詰め込む」ということが当然発生したのですが、これも大変でした。デザイナーのおきぬさんにお手伝いしてくれた友人のカミヤマさん、そしてmihauの皆で折り折りしたのですが、想像以上に時間がかかり。集中力が切れ始め、ラーメンを食べに行ってリフレッシュして…と頑張ったものの1日で終わらせる予定が果たせず、次の日に明大前のガストでまめちゃん・100takeくんと作業を継続したりもしました。


こういう色々な要素が複合した結果、リリースにあたって僕たちを悩ませたことのひとつが「価格」でした。この「カセットテープのケースに入ったZINE(紙数にして10枚超)」、これを幾らにするべきなのかが本当に分からなかったのです。カセットテープの値段に合わせるなら1,000円くらい、一般的なコンピレーションアルバムに合わせるなら1,500円とか、ZINEに合わせるなら500円、一日中折り折りした作業量に対する見返りとしたら3,000円とか、材料費とか費用面を仮に全回収するとしたら(おかしな話に感じられるかもしれませんが、あの作品は「作る」ということが最もプライオリティの高いことで、費用を回収するということは考えていませんでした)7,000円とか…販売価格の面で比較できるものが全くなく、自分たちの感覚で決めるしかなかったのです。

さて、では2020年の僕たちは果たしていったいいくらの値段をつけたでしょうか。正解は………「2,000円」。この価格の理由はシンプルで「内容 + 手間賃」ということ。コンピレーションのアルバムとZINEの段階で盛りだくさん、そこに加えて自分たちの労苦もあるのだから2,000円くらいで諸々バランスが取れるだろう…という判断でした。実際、この値段付けでも手に取ってくださった方はたくさんいらっしゃってとてもありがたかったです。

ただ、僕個人としてはこの値段に関して揺れ続けていたところがありました。シンプルに言えば「聴いてもらいたい・読んでもらいたい気持ちと値段、その間のバランスが取れていない」ということ。「高いと感じられて作品を手に取ってもらいづらくなるのでは…」となんとなく思っていたのです。


そんな揺れを抱えたまま、世はコロナ禍へ見事に突入。それが分散しつつあり、『verbena~』という作品とも良い意味で心理的な距離が取れてきた今、改めて価格について考えるべきだろうとバンドの皆と相談し、「物々交換」か「100円区切りの自由価格」として再度発売していくことにしました。その心は、「僕たちでは決め切ることが出来なかったので、価格=価値はあなたが決めてください」ということ。社会実験みたいな話にも聞こえそうですが…。でも実際、実験しているんだとも思います。実験を通したコミュニケーションを楽しんでいるのです。


この方法に関してのアイデア源は明確にふたつ、ひとつはSTYLO#1の時に共演してくださった山崎円城さんの詩集が物々交換でリリースされ、こういうものに変わったこういうものに変わった…という話を聞いていたこと。もうひとつはレディオヘッドが『In Rainbows』を自由価格で販売したということ。これらをそのまま踏襲しています。少し違うのは、僕たちの提示するものを一言で言い表す「何か」が存在しないことで、そのものへの価値が不透明だからこそ振れ幅が広いであろう…ということです。


実際、この方法に切り替えてから既に物々交換と自由価格販売のどちらもしているのですが、面白いです。何よりもやり取りをする時の会話が面白いし、それをバンドの皆に報告する時も面白いです。物々交換で頂いたものへのコメントをいずれまとめてオープンできたら良いなあと考えています。乞うご期待。


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23. からの、シンガポール祭り


バンドとして3年ぶりのライブがあった5月でしたが、なんと珍しく翌6月25日にも演奏がありました。2ヶ月連続!プルート・ラブ・マッツォことマーライオンくんに誘って頂いたシンガポール祭りVOL.3がそれです。マーライオンくんとは長い間親交を深めていたのですが、ライブでの共演は初めてということで、こちらもかなり楽しみでした。共演者の皆さまが比較的カラッとした明るい方々、対してmihauは根暗集団。そんな僕たちが楽園の如き空間に放り込まれるのもまた面白く、燃えておりました。


mihauのドラマーことマキさんがSTYLO#3からしばらく勉強の為にお休みを取ることになっていたので、代打としてマキさんと同期・僕の先輩にあたるマッスーさんがドラムを担当してくださることに。したところ、当然ですが演奏全体のモードとバランスが変わり、非常に刺激的でした。本番までの練習時間がそこまで多く取れなかったのですが、結果的には新曲を含めて演奏をすることができたばかりか、マッスーさんとのやりとりが非常に面白かったが為に彼は正式メンバーとなりました。ということで、mihauにはいまドラマーが3人います。キング・クリムゾンか?



マーライオンくんとの初共演、FOLKY FOAMY主催の237さんとの再共演など、僕たちとしては珍しく「慣れている」人たちとのイベントという感じでしたが、Chirizirisのボーカリスト/ギタリストのサシャくんと数年ぶりに会えたことも個人的なトピックのひとつ。彼と会ったのは前回の来日の際(2019年)以来でしたが、時折LINEでやり取りしていたり、僕の作品に参加してくださっていたりで「すんごい久しぶり!」という感じでもなく。なのですが1番驚いたのは彼の日本語の上達具合で、本当に簡単なやり取りであれば問題なくこなせる。彼は生まれのバングラデシュの公用語であるベンガル語、現在の居住地であるシンガポールの公用語=マレー語、そして英語を日常的に話す訳ですが、そこに日本語も…となると、末恐ろしいマルチリンガルになります。一般的な日本人よりも英語力が低い僕からすると考えられないことですが、彼はそりゃもうクールでした。僕も英語を話せるようにならなくてはな…と猛省した次第です。


前回はマーライオンくんも演奏に加わっていたChiriziris、その時はリードとバッキングの境目が曖昧な分厚い音響のUKロック、オアシスにおけるノエルとボーンヘッドまたはゲム・アーチャーのコンビネーションを彷彿とさせる演奏陣でしたが、今回はトリオ。各楽器の役割がはっきりした感じで、より楽曲の構造が見えやすくなりました。「サシャくんの運指やボイシングはすごく変わっている」とはマーライオンくんも237さんも言っていましたが、なるほどね…と納得させられる演奏でした。彼の大きな手だから簡単に押さえられるコード、日本人の体格ではなかなか難しいよね…サシャくんの技術はもちろん、前回のライブではそれに追随したマーライオンくんのギターもどれだけ凄かったかということをはっきり感じました。



そう、そのマーライオンくんも今回はトリオ。マーライオンバンド、7人編成の演奏は何度か観たことがあったのですが、今回はごそっとシンプルになっていました。そうすると当然マーライオンくんのギタリスト性が浮き彫りになります。僕もそうでしたが、多くの人の認識では彼は「弾き語りの人」であって、アコギが主力の楽器。ところが今回はエレキ、しっかりと演奏されてきたサウンドの美しきGibson ES-335を使っていてかなりロックな感じ。これがまた彼の楽曲にもとてもマッチしていて、彼の音楽の幅広さとか懐の深さとか潔さとか、はてまた非常にカラッとした風通しの良さを感じました。(あんまりこの言葉は好きでないのだけど)すごく和的な感性を感じさせる楽曲、そのフォーキーな感触が確固たるものだからこそ色々な方向へアレンジが出来るというか、日本的な情緒としっとりとした美しさによるサウンドと詩が彼の音楽の魅力なんだなと改めて思いました。僕は”おばけトンネル”が好きなのですが、あの曲は彼の引き出しの多様性をよく示しているように感じます、非常に良い意味でのオルタナ感が鳴っている。



そしてそして、Puffはともかくハイパーポップ感がすごい。スーパーオーガニズムのおもちゃ感を独自に解釈したような「ポップさ」で、しかもダンサブル。音源も聴いていたのですが、あれライブでどう再現するんだろう…と当日観てみたら、恐るべき量の機材を持ち込んでいました。確かにあの量の楽器が必要だよね…サウンドへの執念を感じました。僕にはあの音楽が「グランジ + ヒップホップ + ニューウェーブ + マッドチェスター」というように聴こえました、この辺の話を当日してみたかったのですがタイミングがなくてちょっと残念。なんかでも、ハシエンダ感。ハシエンダの雰囲気を下北沢で感じさせられたりして、嗚呼あれは時空を飛び越えてやってきたストーン・ローゼズだったのかも…と考えていたりします。



ということで、今回のシンガポール祭りの裏テーマは各々のパンクロック解釈だったなあと、いま振り返って感じている次第です。とても楽しかったです、誘ってくれたマーライオンくん237さん、どうもありがとうございました!サシャくんまた会おうね遊ぼうね。


余談。サシャくんとはイベントの前に遊びました。Chirizirisの237さんと共に我が家の最寄り駅まで来てくれ、そこでご飯を食べてから我が家へ。レコードを引き出してサシャくんに聴かせたり、逆にサシャくんが聴きたいものを聴いたり。前々からUKロックが好きだとは知っていたので、僕も久しぶりにオアシスを聴いたりしました。彼らの最後の作品『Dig Out Your Soul』が僕は大好きなのですが、オアシスを聴こうと言って1st・2ndでなくこれを聴くあたりには自分のサディスティックな側面を感じずにはいられません…とか言っていたら、サシャくんも「大好きこれ!」だったので最高でした。


その日、色々な話をしながら物事を共有出来たことも非常に良かったです。各々の人間性や考えていること・感じていることに関するディープな話、離れているからなかなか出来ない話ができました。かつこの日はChiriziris的にも(恐らく)ここまで掘り下げてこなかったであろうこともたくさん出てきていて。237さんはバリバリのバイリンガルなのでバンドの2人で話す時は9割英語、英語の聴き取りも達者でない僕には彼らのハイスピードな会話のところどころしか分からなかったのですが、それでも色々感じることがありました。貴重な機会に立ち会うことが出来てとても誇らしいです。どうもありがとうございます。


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24. からのからの、Joni Voidがやって来た7月



と、こんな経緯でイベントをふたつクリアした我々。ここからまた地下に潜る感じになるな…と思っていたのですが、Joniことジャンさんから連絡がきて、7月に来れるとのこと。しかも、前回の現地当局との問題もクリアしているので全く問題ない、航空チケットも買ったからもう決定した…と言っているではありませんか。この連絡が来たのがSTYLOの翌週で、前々から2ヶ月延期・7月に行ければ良いな…と聞いてはいたものの、ニュアンス的に実現できるか微妙…という感じだったので、7月も厳しいのではないかな。と思っていただけにびっくり。思いの外早く彼と会えることになりました。

ということで「パーフェクトリベンジ」版STYLOを計画し始めた訳ですが、日程調整の段階で雲行きが怪しくなってきました。というのは、Twoth・ソラトブ両氏は大丈夫なのにも関わらずmihauの都合が悪く、今回は「パーフェクトリベンジ」が出来ないことがすぐさま判明したからです。とは言え、「パーフェクトリベンジ」をしなければ良いのだ別のイベントをしてしまえば…ということで、今回はこんな感じ。という構想を立ち上げ、Twoth・ソラトブのおふたりとも相談しつつ進めていました。ここでは明かしませんが、この代替案もなかなかユニークで面白いものになる雰囲気で「燃えてきた」のですが、ここで深刻な問題が生じました。肝心の会場が見つからないのです。


この話、僕の抱える面倒くささがよく表れています。面倒くささその①、代替イベントの確固たるイメージから、STYLO#3で使わせて頂いた桜台poolは外さねばならず、いやそれどころかほとんどのライブハウスやDIYのスペースも外さなくてはならなかったのです。「密室的な雰囲気ではなく開放的な雰囲気…」という自ら組み上げたイメージが完全に仇になりました。なのですがそこで組み上げた構想を捨てられない、これが僕の抱える面倒くささその②。この頑固さが足を引っ張り、何もかもが進行しない決まっていかない…しかしジャンさんの来日は確実に迫っている…ヤバい…


こんな感じで外部・内部との戦いをそれぞれしていたのですが、客観的に見てもう進められない…というところでジャンさん・Twoth・ソラトブの御三方に連絡、申し訳ございません…とお詫びを差し上げ、その代わりとしてライブではなくセッションをしよう…と切り替えて進めていました。したところ、これは恐るべしジャンさんの執念の賜物なのですが、ぽんと連絡が来て「会場を見つけたよ!」とのこと。彼の希望とはすごくシンプル、ヒラノの思惑はさほど重要でなく、つまりただ単にお客さんを入れたライブをなるべくしたい訳ですから、規模感と条件さえあえば彼はどこでもウェルカム。僕のイメージとは全然関係ないところで彼が考えていたことが功を奏し、色々と想定していたものとは違うけれど、とりあえずライブは出来るのだからオールオッケー。てな感じで、テイキッイージーてな感じで、この日はそこまで気負うことなく演奏をすることになりました。

ジャンさんと話し、今回は彼と僕のデュオで演奏しようと相成りました。STYLOの最後に即興自体はしたものの、きちんと表立って「即興します」とライブをしたことはなかったのでちょっと緊張しつつ、また準備期間もそこまでなかったのでちょっとペースを上げ気味にセッティングについても考えながら、しかし緊張しすぎる感じでもなかったのでとても面白い経験だったなあと思います。


この日の諸々に関して、当日はもちろんのことすっかり夏となった今に至っても鮮明に思い出すことが色々とあるのですが、それらは言語にするのが非常に難しいのです。風通しの良いキラキラした何かではあるのですが、そういう物事ほど言葉としてはまとまらない…。ということでサシャくんバージョンと同じく余談だけ記していくと、


①この日、電車に乗って会場に向かっていたところ人身事故で電車が止まってしまい、会場の最寄り駅まで辿り着けず。乗り換えもしづらい駅でかなり困ってしまったのですが、仕方がないタクシーだと判断いたしまして、タクシーアプリで手配をした車で会場へ向かいました。実はシンガポール祭りの日もドラムを運ぶ必要性からタクシーに乗ったので、直近のライブのうち2/3をタクシー移動するという大物感を醸したりしていました。特にこの日は結構中途半端な駅で電車が止まってしまったこともあり、僕の乗ったタクシーをピックすべく手を挙げる人たちがたくさんいて、それを車内から眺めているあの感じは優越感にもどこか似てちょっと違う、なんとも言えない感触がしました。


②この日はもうひとつイベントが待っていました。ジャンさんがうちに泊まる予定だったのです。5月に住み始めた新居、そこにお客さん自体は何人か来てくれていたものの泊まりは初、しかも基本は英語でコミュニケーションしなくてはならないこともあり、実は演奏よりもこっちの方が緊張していました。したところ、会場でのコミュニケーションの雰囲気から不安定気味でも会話は出来そうだと分かりちょっと安心。夕ごはんは何食べたいのかな…やっぱり日本食…と尋ねてみれば「何でも良いよ」という回答で(余談の中の余談なのですが、日本に来たのに日本食に興味がない渡航者ってちょっと意外だな…とこの時「も」思ったのですが、「も」というのは1ヶ月前にやはり遊びご飯にも行ったChirizirisのサシャくんもそうであるからでして、ジャンさんとサシャくんは全く同じ…食べ物どうでも良いスタイル。日本食に興味あるでしょう…という一種の欲求…これぞまさにステレオタイプというやつですね。かく言う僕も海外での食べ物でどうしても食べたいものって全く浮かばないので、つまりそういうことだね)、最寄り駅にあるかつやでカツ丼をば。ハイテンションで話しまくるジャンさんに店内の皆様はびっくりされていました。



カツ丼を嗜んだのち、それぞれが機材と荷物を持ちはあはあ良いながら我が家へ着き、うちにあるレコードを少しずつ引っ張り出してきては聴き…というかなりラフな、すんごく「遊んでいる感」満載なノリで我が家でのお泊まりをし、ジャンさんは翌日に京都へ向かいましたとさ。ハードワークというか、ワーカホリックな節がありますが、僕にもそんなところが多少あるので、似ているところもあるんだな彼とは…と新しい発見をしましたのです。

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25. In A Silent Way

これはちょっとした発見。この2ヶ月で我が家にはふたりの日本への旅行者が来て、それぞれが我が家のレコード棚を眺めて選盤していた訳ですが、サシャくんもジャンさんも揃って選んだものが一枚だけありました。マイルス・デイヴィスの『In A Silent Way』です。


このふたりのチョイスに関しては、色々な角度から考えていけると思います。ふたりの音楽の共通点として炙り出すか、マイルス・デイヴィスその人の音楽観の壮大さとか、作品の技術的な話を現実世界とマッシュアップするとか…。なのですが、そこに個人的なことを交えて話をしたく。


マイルスは人並みには聴いてきたはずと認識しております。彼の多岐に渡る音楽的なアプローチで言えば『Nefertiti』を頂点とするフリーブローイング期と、そこから着実に繋がっていくエレクトリック期が好みで、これが『On The Corner』のフリーファンクに至るとカッコ良いとは思いつつ熱中度は薄れてくる…という具合。なので、端的に言うと60年代中期-末期に至るマイルスの一過性が好きと言うことになると思います。で、この時期の中でも好みは当然ございまして、『Nefertiti』と『Bitches Brew』が僕における「大好き」だったのですが、コロナ禍に突入してからそこに『In A Silent Way』も加わるようになりました。


独特な静けさから元々人気のある『In A Silent Way』ですが、この妖しげな雰囲気の魔力に気付いてしまったこと、それが僕のコロナ禍におけるひとつの収穫でした。あの作品におけるジョン・マクラフリンのギターに宿る神秘的なサウンドには恍惚とさせられます。あの音には本当に何かが取り憑いている気がする。革新的だったモードジャズの延長線上、かつ電気増幅的な音響を交えた美の芽生え───これまでには存在しなかったデザインによる新しいジャズの第一歩、かつ、その後より混沌へと向かっていくバンドだからこそのバランス感覚と緊張感。張り詰めているけどリラックスしてもいる…という絶妙な位置にある音楽。あれと似たものが他にあるだろうか? ”Shhh / Peaceful”はバンドで演奏したいと思って少し画策していた時期もありました。実現させたいですね。


海を挟んでの共振とでも呼びたくなるくらい、3人によるチョイスが『In A Silent Way』だったことに対して、僕は驚きと共に感動を感じていました。これは、一体、なんであろうか?


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26. 気付けば、9月


STYLOの話が持ち上がったのが2月のこと、そこから音楽以外でのバタバタも山ほど発生しつつ、これらのことが半年間で起こっていたとは自分でも「クレイジー」だと感じています。もう少しゆったりと、やるべきことはやって…と過ごす予定だった半年間が恐るべき濃度で過ぎ去ったいま、元に戻るのかと思いきや完全には戻り切らず、ちょっとそれらを引きずりながら猛暑を迎えている訳です。反省をしつつも色々とマイペースに進めていけたら最高ですね。


それでは皆様、熱中症アラートと睨み合いの日々、危険なので外には出ないでくださいと言われるこの世界において───家で過ごすのが大好きだったもやしっこの僕に対して、家族たちからよく言われた「外に出て遊んできなさい」という言葉、それが象徴する「外で遊ぶことが健康的」とされていた時間、それらが全て決定的な過去なのだということを思い知りながら───それでは、どうぞお身体には気を付けてお過ごしください。また近々!

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