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>>> some words? = thinking (or sinking)

KLEIN. = BOTTLE. = WORLD.

もっとわからなかったのは、びんという実体が目の前にあるのに、その実体は無視して、想像の世界でのみこのびんが存在しうるという考え方だ。僕がびんを手に持って「じゃあ、これは何なんでしょう?」と訊くと、彼はあっさり「それは存在しないんだ」と言い切った。僕はあいさつして、その部屋を出た [一部明記の為に加筆]


───チョ・セヒ 『こびとが打ち上げた小さなボール』




dysfreesia + mihauとして行ういつものイベントと違って、今回のKLEIN.というシリーズは構造自体は非常にシンプル = 共演したい一組の音楽家と演奏しよう、なのでそんなに語ることはない(先に言っておくと、この時点では本当にそう思っていたからそう書いたのだけれど、それが自分でも気付いていない嘘だったことがここからどんどんと露わになる)。そこまで意識してこなかったが、STYLOは毎回テーマに則って共演者を探していたし、intonarumoriはもっと特殊でコンセプチュアルな見せ方───ghostingは「配信」という実体のない演奏だったので「幽霊」だったし、playingは演奏でもなくしりとりして遊んでいるだけ───で構成されてきた。という中、intonarumoriはイメージ自体はあっても実現にはまだ至っていないケースが多く、一方それなりに継続できているSTYLOは、5月に行った#3の豊さが頭の中をまだ占めている。いずれもアイデアはある / 状況さえ整えば / そしてやる気さえ出れば実現は出来る状態なのだが、それは翻して言えば「いくつかの状況が整わない限りイベントができない」ということでもある。


複合的な理由によって表立った活動が出来なかった20-22年があって、それを取り戻す為の23年のSTYLO#3があって…という流れがきちんとあるのだから、上記のような理由によってライブが出来ないということにはなかなか苦しいものがあった。もうひとつあるのは、3年分の意気込みや蓄積によって表出したSTYLO#3が自分自身でも思っていた以上にボリューミーに、そしてコンセプチュアルになったことだ。STYLOのテーマが「会場にいる人たちが楽しみながら学ぶ」ということだと気付いた今年、このシリーズのルールは遵守すべきだと思った。「学ぶ」ということを軽々しく唾棄することはできない。内容が豊かであることは非常に重要なのだが、その分時間をかけて取り組むべきことだと思うようになった。


これらを踏まえて…KLEIN.は非常にシンプルで、削ぎ落としたものにしたかったのは間違いなくあると思う。STYLO#3の反動でもあるし、それらを経験したからこそ実現出来るものでもあった。趣旨は明確で「ツーマンのイベント」、ただそれだけだ。でもこのシンプルさに至るまでに4年かかっていると考えると自分自身の捻くれ具合を思い知る。シンプルなツーマンのイベントをやりたい…という話をmihauの皆にした時、「普通はそれしかやらないんだけどね」と言われたことは単純にとても面白かった。なるほど普通とはそういうことなのか!


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PRETTY THREE、このバンドは色々な意味合いで僕には非常に頼もしく、また人間関係の築き方としてもすごく羨ましい人たちだ。そもそもはドラムの浅野さんが職場の先輩だったことからこのバンドとの知己が始まる。職場での浅野さんは良き先輩(やや酒癖が悪い)で、ちょっと取っ付きづらそうな雰囲気に反して親切な人で、グレアム・コクソンみたいな見た目も素敵だった。少し脱線すると、この「浅野 = グレアム・コクソン説」はずっと唱え続けているのだけど、浅野さん自身はそう言われたことが全くないらしい。




その職場というのが、もちろん仕事は真面目にしているけれども比較的緩いところで、浅野さんはデスクを挟んで左斜め正面の位置にいたのでよく話をした。年中無休で稼働していた職場だったが、なんにせよ土日祝日は暇なので、週末に一緒になった時はただただ話をしていた。ちょうど20歳の時にアルバイトを始めてから、僕は音楽を好きな人たちが周りに当然いる環境にしか属してこなかった。ということもあり、多少は社交的だと自負している一方、コミュニケーションの取り方が分からない人たちは多々いらっしゃる。この人たちとは何の話をしたら良いのだろう? 大谷と言われて野球選手ではなく大谷能生を思い浮かべ(JAZZ DOMMUNISTERS!)、ヌートバーと聞いた時に齧歯類の動物を思い浮かべるような男が(ダイアンとおいでやす小田、そしてヌートリア!)、世の中の何を他の人たちと共有することができるのだろうか? それが現在の僕のちょっとした悩みなのだが、この悩みにぶち当たったのが30代直前だったことに今となっては驚かされる。言うなれば20代までの僕は温室育ちのあまちゃん、そこで過ごし育ったことで生き延びてこれただけの小童なのだ。世間ではビートルズや坂本龍一の話だってそんなに通用しないのだ、それに気付くのがちょっと遅過ぎたかもしれない…例え2023年がビートルズの新曲がリリースされ、坂本龍一が逝去される年と結果的になったとしても。そう考えると、浅野さんと過ごしてきた時期までが僕にとっては「やさしい時間」だった。そこからは少し世界が険しくなった…というよりも、周囲の人たちが外の険しさを気付かせないでいてくれたのだ。


お互いにその仕事を離れてからも浅野さんとはよく遊んできた。トータスのライブに行ったり、一緒にスタジオに入って演奏して、その後飲みに行ってたくさんの話をしたり。浅野さんは相手の話していることを真剣に聞き、思考する人だ。少し考えの違う人のことも拒否せず、自分の中に取り込んだ上で意見をする、これには壮大な規模の価値がある。僕の話すことは比較的途方もないこと、実現性があるかどうかが分からず、また突飛のないことでもあったりするのだが、浅野さんは僕がやりたいこと・提案したことについて真剣に考え、自分なりに咀嚼してくれる。同時に、考えるということと真剣に向かい合っている人だなとも感じる。「俺は頭が良くないんで…」というのがちょっとした口癖の人だが、浅野さんは根本的に履き違えている───頭の良い人と勉強ができる人は全くもって違う人種だということを。そして彼自身は徹底的に頭の良い人なのである。


他人のことを真剣に考えられる人、このタイプの人たちは往々にして疲れやすい。浅野さんもまさにそういう人で、聞く限りそういう理由も少しはありながらPRETTY THREEというバンドは動いたり止まったりする。ただ、なんだかんだ、3人ともバンドへと戻っていく。外から見ていると…というよりも外から見ているからこういうことが言えるのだし、当人たちは苦笑いするしかないとも思うのだけれど、それはかなり良い人間関係であると思う。過度に仲良しな訳でも、目的の為に行動を共にするだけのクールな関係でもない。言うなればそれは縁で動いている共同体で、互いへの理解と反発、怒りと喜びを円環させながら離脱と寄り添いとを同列に扱える。手っ取り早く言えば「最強」だ。しかしその「最強」ぶりを発揮するには、前述した浅野さんのような姿勢が必要とされる。PRETTY THREEはそれを3人が実行するから、3人が3人のことを真剣に考えられるから、傷つきやすく脆く騒々しい。最高じゃないか。


PRETTY THREEのライブは何度も観てきた。演奏が終わる度に「今日はなんかイマイチだった…」的な反省ばかり聞いているのだけれど、僕からすると毎回良い演奏で、何が良いかと言えば彼らの持つ荒さが心地良いのだ。ノイズ成分多めで少しヘヴィ、ハードコア成分もポストパンク成分も多分に含まれている音楽で、自分たちが受けている音楽的な影響が素直に鳴っているバンドだと思う。だから僕はそこにギャング・オブ・フォーを聴き取ったり、バストロを聴き取ったり…と色々な角度からそれを受け止めるのだが、そのミックスの具合はいくつもの文脈が交差するからこそ可能なバンドだけがなし得るマジックという風に感じるし、同様に、自分にはあまり出来ないことをしているなあとも常々思う。


なのだけど、前述したような感想を抱くのだから、彼ら自身はその荒さに納得いっていないところが多々あるということだ。即ち彼らの中には然るべき繊細なバランスがあるということで、それこそが良いバンドの証だと思う。どれくらい共有されているかはさて置いて、3人にそれぞれの理想的なビジョンがあり、それぞれがそこに邁進しているということだ。だから彼らには本当はもっと演奏して欲しいと思うのだが、思うところがあったり面倒さがあったりで、自分たちでイベントをする…という感じではないらしい。ということであれば!呼ぼう!ということで今回真っ先に声をかけた…というより、この「シンプルなツーマン」ということを考え始めた時から、アイデアの初手にはPRETTY THREEがいた。なのでこの初回は、然るべくして彼らと演奏することになった。浅野さんは、実に浅野さんらしく、「俺たちじゃダメでしょう…」的なことを仰っているのだけれど、真逆なのですよ。浅野さん。PRETTY THREEと一緒に始めなくては、僕には何の意味もなかったのですよ


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そんなに語ることがない、と言ったが、語ることが全くない訳ではない(もう一度言っておくと、この時点では本当にそう思っていたからそう書いたのだけれど、それが自分でも気付いていない嘘だったことがここからどんどんと露わになる)。STYLOがそうだったように、名前を付ける上では、先付けでも後付けでも意味が付き纏う。STYLOの場合は「音と言葉」というテーマに則って言葉の象徴 = 文字と万年筆をリンクさせただけだったけど、今となってはもう少し意味が発生するようになった(これに関しては過去のポストを見て欲しい)


では「KLEIN.」である。意味のなさと意味の重要さが交差している。


今年の8月、韓国の作家であるチョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』という作品を初めて読んだ。独裁政権下にある韓国で執筆された小説で、78年の初版以来今でも売れ続けていて、今では三百刷を超えたという名著のひとつだそうだ。韓国文化史上でもかなり影響力の強いこの作品のことをまるで知らなかったのだが、そんな僕が手にしたのは今年の7月に文庫化されたもので、初めて日本語訳版が出版されたのは遡ること2016年のことだったそうだ。或る意味では然るべきタイミングで僕はこの小説を手に取っていたのかもしれない。


これは肌感の話だけれど、ここ10年くらいで韓国文学の日本語訳版がしっかりと出るようになったと感じている。この肌感がそれなりに正確なのだとしたら、『こびとが打ち上げた小さなボール』もまさにこの時流に乗っていると言えるはずだ。敢えて言うまでもないことだとは分かっているが、この背景にはK-POPが形成した日本における文化需要の下地がしっかりあること、それと関連して渡韓旅行者が絶えないことなど、文化的な側面からの影響が直接的に表れているのだろう。かつ「冷え切っている」と常に表現されてきた日韓の政治的な局面へのカウンター、反動でもあるように思える。ポジティブな韓国の(主に文化的な)存在の一方で、今でも書店には嫌韓本が並び(よくもそんなに嫌いでい続けられるな…)、ニュースでは韓国政府に対して常に警戒をしている日本政府の姿勢があからさまに提示されている。特にここ数年の日本…というか自民党は間違いなく「旧戦前」の日本国マナーで稼働しているので(「美しい国ニッポン」)、その論理上では「新戦前」の現代日本は韓国・北朝鮮・中国に対して「反極東アジア」という姿勢を前提にしなくてはならないのは当然かもしれない。


ここ日本で、韓国ほどに印象が極端な国もなかなかないだろう───LOVEとHATEが二極化しているにも関わらず、これらは断絶しているのではなく見事に混合している。


例えば…K-POPアイドル好きの方々の多くが…いや恐らくほぼ全ての人たちが…ほとんど門外漢な僕だってそれを知っているくらいなのだから…彼ら彼女らが苛酷なアイドル文化の市場原理において生活し、その為に必死に歌の練習やらダンスの練習やらを重ね、冗談でなく不眠不休に近しい状況で活動していることを理解しているはずだと思う。そしてそれについて人が語る時に共通するスタンスは


①「アイドル」としての彼ら彼女らは応援するが

②システムとしての「アイドル」には違和感がある


という二段論法の姿勢だ。ただ、いやこれこそが「アイドルというシステム」の特徴になるのだが、多くのシステムへの反感はアイドルそのものへの応援へ直列する───そんなに大変なのだから、彼らを応援してあげよう───つまり、人は多くの場合で他者の抱える物語に惹かれるのであって、ひとつの視点で見るLOVEとHATEは物事の表裏一体を示すものですらない。それは混合して形成されたひとつの塊であり、そのどちらも私たちのアンテナは受信している。同じロジックで駆動しかねないのが所謂「ナチスは良いこともしたのではないか」というあれだ。そしてもうひとつ、最早言わずもがなだが、これまではタブーだったジャニーズ社長の性加害事件が面に立った途端に加速した報道を目にしている今、僕たちは「ひとつのこと」の歪みを日常的に目撃している。


少し話を戻すと、『こびとが打ち上げた小さなボール』は独裁政権下の韓国を舞台にして、当時の社会問題・政治問題を生々しく反映した「メタ・フィクション・ファンタジー」という趣の作品である。話中でところどころに顔を出す寓話的な側面が、ある地点で大幅に表出し、また現実へと帰っていく…この一種奇怪な構造は他の作品で味わったことがない。登場人物であるひとつの家族は途中から現存しない架空の韓国都市へ引っ越しを余儀なくされるが、この理由そのものは韓国の史実に基づく事実である───富裕層に圧倒的に有利なシステムによる都市開発、その為に破壊されるスラム街、そこから半強制的に退去させられる貧しい人たち。そして移居先の架空都市の労働環境は産業革命後の無法地帯であったイギリスを彷彿とさせるもの、加えて生活環境は公害で満ち溢れている。労働者たちは一致団結して労働組合を結成し労働環境の改善を求め会社側に交渉する───これらは架空の都市で発生する事案だ。あくまでファクションなのだからもっと極端な描き方も出来たはずだが(革命!暴動!皆殺し!)、ここに通徹するのは小説で読むとしては過度とも言える現実感だ。気味が悪いほど僕たちの現実に付き纏う質のものばかりでこの小説は構成されている。何故作者はこれをシンプルなファンタジーに纏めなかったのだろう? その方が良いとする読み手などいくらでもいるだろうに?


この不可思議な小説を日本の小説に当て嵌めるとしたら一体何になるだろう…と考えているのだが、ぴったりコレだ!というものが挙げられない。作者と作品の認知の度合いに限って言えば夏目漱石・太宰治・谷崎潤一郎、ちょっと時代が飛んで村上春樹のような作家の残した小説がそれなのだと思うが、極めて社会的・政治的な局面が生々しく描かれている作品となると少し考えてしまう。あれやこれやと思案して、僕の知識のストック上で1番近いのは遠藤周作の『海と毒薬』ではないかと一旦仮止めしたが、あの小説には寓話性はないのでどうしたって少しずれている。海外作品で言えばジョージ・オーウェルの『動物農場』が最も近しい気がするけれど、完全に納得できないこの感じが、この小説のかなり独特な立ち位置と味わいを見事に示しているのは間違いない。


この独特な味わいには、通徹しているLOVEとHATEの混濁の様が間違いなく関係している。そして小説の中ではそれを象徴的なメタファーを用いて扱う箇所がある。メビウスの輪、そしてクラインの壺への言及がそれだ。なのだけれど、メビウスの輪とクラインの壺が作中でどう扱われているか…ということに具体的に触れるのは避けたいので、ここから一気に僕の話に突入する(一応注釈、作中では「クラインのびん」と記述されているのだが、調べてみる限り日本国内では「クラインの壺」と記載されているケースがほとんどのようなので、本投稿では「壺」という言葉に統一して記していく)。


メビウスの輪は知っていたし、作ったことだってある。あれのシンプルな構造、しかし実は複雑で…ということは分かるけどシンプル過ぎる構造であるが故に「実体があるのにないように思えてくる」不思議な存在だ。メビウスの輪については小学生くらいの頃には教えられた気がするのだが、その辺りの記憶には正直自信がない。だけれど、冗談でなく「知らない人がいない」ことは確かなはずだ。即ち、かなり初等教育の段階で僕たちはハサミで紙を切り、捻って糊付けしたその輪をまじまじと眺めてきた。



メビウスの輪の圧倒的な認知に比較してクラインの壷は明らかに知られていないと思う。『こびとが打ち上げた小さなボール』にクラインの壷の簡単な図略が出てくるのだが、いまいち実体がイメージできない。そうなれば現代文明にあやかって画像をググってみる…したところ、その奇体がすぐさま目に飛び込んできた。そして僕の胸には現実と非現実が交差するような、気持ち悪さと美しさが同居しているような、何とも言えない感触が到来した。




クラインの壷の認知度の低さには、実際にそれを作る為にはガラスの溶接が求められることも多少は関係しているかもしれない。しかし…少なくとも一度それを知ってしまうと、クラインの壷のインパクトはメビウスの輪のそれとは比べ物にならない。メビウスの輪に感じた「実体があるのにないように思えてくる」あの感覚に続く扉が、ぐにゃりと曲がった奇妙な壺によって強引にこじ開けられていく。


一番初めにイメージしたのは人間の臓器だった。これは些か…というか大幅に…描かれたイラストの質感に引っ張られているが、ちょっとした現実感の希薄さは否めないと思う。それを現実に引き戻すべく、壺というからには水を入れたくなるが、いくらイメージをしたところで水が一杯に溜まらないことは明白だから壺としての機能は破綻している。では…とさらにググっていくと、多くの場合において「メビウスの輪の立体版」としてクラインの壷は説明されている。しかしこれもまた、みんなで工作した記憶が到来するだに思わず突っ込んでしまいたくなる、メビウスの輪だって立体として目の前に存在していたではないかと。なのだけれど、画面上の情報を整理していくにつれ、それを立体版と表現するのも薄々理解できてきた。この映像が比較的分かりやすいと思う。確かにこれはメビウスの輪の発展版であり、同様にメビウスの輪を平面だと位置付けるのならばクラインの壷は確かに立体版に違いない。これは立体としてしかデザインできないのだ。平面で描く限り、この壷の論理は存在することすらできないのである。



 そもそもメビウスの輪にしろクラインの壷にしろ、表と裏が存在しないことを語るが為に「一つの面を歩くと…」という筋書きが組み込まれる時点で、これらの存在が持つ根本的な非現実性がすぐさま浮き彫りになる。それは想像力の限りにおいて進めることのできる歩みなのであって、元も子もないが、僕たちは「本当に」その上を歩くことはできない。そこには怪奇的な重力の構造があり、質的に破綻したサイズ感がある。僕たちがメビウスの輪の上で / クラインの壺の上で歩くとき、そこには現実世界のルールが組み込まれてはいるが、現実世界では起こらない前提もある。それらの矛盾があるからこそ僕たちはそこを歩くことができる、そしてその世界は『こびとが打ち上げた小さなボール』と繋がりのある同じロジックで成り立っている。


前回のSTYLOのテーマであった「奇妙なものとぞっとするもの」になぞらえれば…“何にも属していないものの現前によって構成される。同じところに属していない二つ以上のものを結合するもの。特殊な種類の動揺であり、必ず「何かが間違っている」という感覚をともなう”と”奇妙なもの”を定義づけたマーク・フィッシャーの論考に当てはめることは、一応出来る。しかし一方”多くの幻想の世界が、その存在論や政治という点から見れば、けっきょくのところわれわれの世界にきわめてよく似たものである”とも言及しているので、後者の論理上ではクラインの壷は奇妙なものには値しない。では、僕がこの壺に感じている現実感の希薄さ、実在しないものが実在しているような感覚はいったいなんと呼び表現されるものなのだろうか…? そしてそれと明瞭に結びついている『こびとが打ち上げた小さなボール』の質感については…? マーク・フィッシャーはこれらを一体どうやって見つめて解釈しただろうか。


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dysfreesia + mihauとして初めてライブをした時のこと、観に来てくれていた友人に「思っていたよりスタンダードだね」と言われたことをよく覚えている。その人は僕の嗜好を多少は知っている人で、「フリージャズやらノイズやら少し変わった音楽ばかり聴く眼鏡の男性」という認知そのものに誤りはないのだけれど、当人からすればそれは全体の中の一部であることは自明だ。客観的な視点で見るとき、ひとりの人間が持つ「音楽を創る側面」と「音楽を聴く側面」は完全に一致しない。それを踏まえた上で、創造された音楽が「スタンダード」だという指摘は人によっては批判的に捉えるかもしれない。僕は単純に「面白いことを言うなあ…」とだけ思ったのだが、ここで言う「面白さ」とは、どれだけ当人がたくさんの影響を受けながら創作をしたところでそれが聴く側に伝わらないこともあるし、むしろほとんどのケースで伝わっていないかもしれない、それどころか誤って伝わることすらありえる上に、そもそもそんなことはどうでも良いと思われるケースの方が圧倒的に多いということを示している。絵に描いたような見事なザ・すれ違いだけれど、僕はこれを非常に面白いと思う。


こと創作において…聴いている音楽の影響は間違いなくあるのだけれど、それと創造する行為が直列的に繋がっているとは限らない。その人の持つ人間性が、その人間性をありのままに物語る音楽を産み出すとは限らない。早い話が、メタルばかり聴く人がメタルを創るとは限らないということだし、奇怪な音楽を聴く人が創る音楽が奇怪どころか非常に美しい音楽だということも全くおかしいことではないということだ。冷静に考えてみればかなり当たり前のことを言っているだけなのだが、では何故僕(たち)はこのかなり初歩的な論理の穴に落ちてしまうのだろう。


こういったやり取りは多く見られるし、自分自身でも感じることはよくある。直近で言えばJoni Voidがまさにそうだった。ヴィンテージなホラー映画を彷彿とさせる怪奇さを持つ音楽で、これを作る人は余程物静かで思案している人なのだろう…と順調に構築されていくイメージは、意識的にではなく無意識によって形成される。ところが実際にジャンさんに会ってみれば、彼は至極陽気でおしゃべりな人だった。一緒に行ったかつやで、周囲のお客さんや店員さんをちょっと引かせるくらいに陽気だった。その時に感じた「意外…」という印象を通して、そもそも自分が音楽を通してその人の人格を一方的に形成してしまっていることにたちまち気付かされる。



加えて、ジャンさんが我が家に置いてあるレコードを眺めていた時に「トム・ウェイツがないじゃないか!」と言ったことも非常に示唆的だったと思う。Joni Voidとトム・ウェイツを繋ぐ線は非常に希薄に思えた…というのは彼はヒップホップとメタルからの影響をよく口にするのだが、クラシックロックの話は聞いたことがなく、dysfreesia + mihauの音楽性も(恐らく半ば冗談で)「ロックンロール!」と表現するくらいの人なのだ。あの奇怪な音楽と酔いどれ詩人はどう接続されるのか…ということもあり、彼の言葉に導かれて『Mule Variations』を初めて聴いてみたところ、とても納得いくものがあった。



トム・ウェイツは美的なものを醜くする」とジャンさんは言った。非常に的確で、彼ならではの言葉だとも思う。確かにトム・ウェイツは、自身に影響を与えてきた悪魔の音楽=ブルースをさらに悪魔的に汚してきたミュージシャンだったのだと『Mule Variations』を聴いて気付かされた。それは初期の彼の作品を聴いてきただけの僕には理解の及ばないことだった。ジャンさんにストックされたトム・ウェイツの音楽を、そのイメージを、僕は彼の言葉によって発見した。多くの物事は、そうやって言葉に出して記憶 / 記録しなくては形を為していかない。


そんなことを考えながらクラインの壺の画像を眺めている時、ふとイメージされるものがあった。あの壺に開いた挿入口の穴から水を入れても、壷は一向に満杯にならない。表向きには水は満ちているのだが、ひっくり返して仕舞えば、水は壺の1/3程度にしか溜まらない。まるで人の器を、そしてその限界を表しているようだと思った。知性を入れ込んだところでいつまでも埋まらない空間が、人目に晒されない空間が確かにある。それの呼び方は多様だ…深みとも呼ぶし、欲望とも呼ぶし、影の側面とも呼ぶし、裏の顔とも呼ぶし、虚しさとも呼ぶし、寂しさとも呼ぶし、オーラとも呼ぶし、魅力とも呼ぶ。しかし、目に見えないことと隠れていることは同じ意味ではない。完全に隠れることが出来るのであれば、そもそも僕たちは上記してきたような表現を以ってしてそれを感じ取り指摘する前提にすら立つことができない。クラインの壷が持つ空虚は自ずから隠れている訳ではなく、周囲の目に見えないというだけで、隠れようという意識からは無縁だ。物事には表と裏がある…というのは世の常識のように言われているが、実際は違うのかもしれない。確かに、クラインの壺の声が聞こえる。


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KLEIN.がシンプルなツーマンのイベントであるのはその通りだ。一方、対バンする人たちは自分達と全く違う、そういう異種格闘技戦としてのイベントなのだ…と感じられることがほとんどではないかと推測しているが…特にPRETTY THREEの音楽性を知っていれば…しかしそれは明らかに違う(と僕は、結局長々説明してきている、まるでゴダールの映画のように)。僕と浅野さんが共通してコーネリアスの話を出来るように、PRETTY THREEにギャング・オブ・フォーの影響を感じると言った時に、浅野さんがそれはギタリストのタロウさんのカラーだ…と言うように。僕たちが完全に分断されたふたつのルート上に位置しているのだとしたら、こういった会話は成り立たない。


KLEIN.は「聴くこと」と「創造すること」の相関性への興味によって駆動している。実際、ひとりの人間の中で起こっていることなのだから、その両者が(どれだけ当人が否定しようとも)無関係であることはできない。そこにどれだけ手を加えるか…ということの加減がインプットとアウトプットの相関性のバランスを変化させる。これは音楽的に言えばアレンジの妙と言うことだし、プロデュースの妙ということでもある。ベーシックの骨格に対して何を合わせるか…という観点で言えば服の着方の話とも似ているかもしれない。それが似合うか似合わないかの判断には、自分自身での評価に限らず他者から与えられるものも付き纏う。自己評価は精緻で詳細になるのに対して、他者からの評価は非常に一面的になるか、或いは全く別の側面から言及されるケースがほとんどだ。それはどちらが正確であるかの話ではない。ひとつのものに対する視点の差異、そしてそのバリエーションということである。


「好き」だということとアウトプットは必ずしも一致しない、しかし間違いなく同じ力によって作用している。当人からすればインプットとアウトプットの不一致が全く矛盾していないということ、これは表裏一体という言葉では指し示すことができない。切っては切れない関係であるが、表と裏の関係ではない───表と裏のシンプルな二項対立で世界を構成できたらどれだけ楽だろうかとは思うが、残念ながらこの世界は「そういった側面では」シンプルではない。しかし「こういった側面では」シンプルだ、つまり物事は「ただひとつ」なのだということである。これこそ真理なのではないかと思う───そしてこれはクラインの壺の構造そのものではないか?


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「クライン」という言葉をカタカナで解釈した時、僕の思考は壺へ繋がらず、多くの物事と同じように音楽へと繋がっていった。結局、音楽に帰結していくのだ。頭の中に浮かんだのはネルス・クライン、そして、そのままクラインという作家のことである。クラインの壺を調べていけばフェリックス・クラインというドイツの数学者のことを知ることになるし、そうすればたちまちネルス・クラインの「クライン」はClineであってKleinではないことが分かる。そしてクラインの「クライン」はKleinであることも分かる。



クラインのことを知ったのは僕的にはご存知エレキングのレビューだった。彼女の『Harmattan』という作品はそれをきっかけにレコードを買ったが、あの作品はクラシックの影響が色濃く、しかし非常にアンビエントタッチかつノイズタッチでもある。強い印象が残るのに抽象的で、掴みどころがない。それは冒頭に繰り広げられるそのまま”for solo / piano”というピアノ楽曲に顕著だ。他のエッセンスが何も加えられていないソロピアノの曲なのに、そこには彼女の全てがあるように音が響く───メロディックだけど覚えられない旋律、不穏さと安定の共存、洗練された耳の感覚。覚えられたくはないけれど記憶には残りたい、と静かに呟く傲慢な音楽のようだ。しかしその傲慢さも、音楽そのものが持つ魅力を前にすればただの愛すべき個性である。


改めて作品のレビューを見ていたら、まさに自分がクラインの壺を通して考えていたことがそのまま野田努さんの言葉で書かれていて、正直ギョッとした(僕は無意識的にこのレビューのことを考えていたのだろうか?)。以下引用する。


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その音楽のリスナーが、作り手の好む音楽を共有している確率は高い。いや、もちろんロレイン・ジェイムズのリスナーがマスロックを聴いている率は低いのかもしれない。が、しかしスクエアプッシャーやエイフェックス・ツインを聴いている率は高いだろうし、ボーズ・オブ・カナダのリスナーがMBVを聴くことになんの違和感はない。かつてはレディオヘッドのリスナーもがんばってオウテカを理解しようとしたものだった。しかしながら、クラインを熱狂的に支持した実験的な電子音楽を好むオタクたち(まあ、ぼくもそのひとりであろう)がジェイ・Zやブランディ、マライヤやブリトニーを聴く可能性は極めて低いのではないかと推測される。彼女が好きなオペラ歌手のルチアーノ・パヴァロッティなどもってのほかだ。クラインほど、自分が好きな音楽と自分が作っている音楽のリスナーとが乖離しているアーティストも珍しい。


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「クライン」という言葉で音楽的な事項を調べていくと、もうひとつ突き当たったものがあった。リチャード・ヤングスというイギリスの作家による『Ein Klein Nein』という作品だ。発音がほぼ同じである3語の組み合わせによって曲名が付けられている作品で(Ein Klein / Klein Nein / Klein Ein / Nein Klein)、内容的にはかなりミニマルなノイズアンビエントという趣だ。ピアノ、ドラム、ドラムマシン、ギターノイズ、こういった質的に異なる響きを最小限に組み合わせて淡々とループさせる…ここでは劇的な展開が起こらず、「設定されているから」始まりと終わりが存在しているのであって、設定を解除して仕舞えば永遠に同じループを繰り返すであろうことが容易く想像できる。



聴いた上では音楽そのものとタイトルとの関連性が不明だ───始めは3つの単語に対して楽器や音楽的な要素が割り振られていて(Ein = ピアノ、Klein = ドラム… / Ein = 3拍子、Klein = 4拍子…というような)、その組み合わせで曲のバリエーションが生まれていくのかと思っていたのだが、必ずしもそうではなさそうだ。いや、そういったシステムに近似している構成なのは確かではある…同じ音要素が散見され、それぞれに関連性は間違いなくある。4曲には共通して同じピアノ / 同じズレたドラムが使用されている。ピアノのコード、ドラムのサウンドは共に全く同じものである。ドラムが鳴らされる位置はリズムの縦割りに対して絶妙に遅い、しかし遅過ぎる訳でもない。歪み切ったギターのディストーションはかなりローファイ気味に録音されている。全体を通じてサウンドの質感自体は共通しているが、しかしそれは…? 論理的に解釈するのは難しい。


そうなれば当然この3語が役割を成す別の関連性を考える訳だが…Kleinはドイツ語圏での苗字として一般的なので他の2語も…と思ったがどうも違う。”Ein”は英語でいうところの”a / an”に当たる不定冠詞、もうひとつの”Nein”は英語でいうところの”No”、つまり否定語だ。では…と”Klein”の別の意味を調べるとたちまち”小さい”という言葉に当たる。


“a / small / no”という3語の関係性は、言うなれば音の響き以外のセンテンスにおいては想像で賄うしかないように思える。少なくとも、ドイツの文化に関して全くと言って良いくらい知識のない僕が[a small / small no / no a / no small]という言葉の羅列を果たして如何ように解釈できようか? となれば、至極当然にオノマトペの発想に行き着く。「アイン / クライン / ナイン」というそれは、日本語の遊び方と非常に似ている。声による単純な遊び、しかしその組み合わせは想像的で創造的、答えがないからこそ物語は永遠に生まれてくる…これはそのまま、リチャード・ヤングスの果てない探究にも通ずる気がする。というのは、リチャード・ヤングスは途方もない多作家なのだ。ディスコグラフィは恐らく200枚超と言われているが、正確に把握できる人は恐らくいない。本人ですらそれを把握することができなくなっていても不思議ではない。その膨大なリリース量は彼の創作のスタイルに間違いなく関連しているだろう───音楽を一定の形に向けて執着的に落とし込んでいくのではなく…つまり自分の頭の中にあるものに忠実に近付けるのではなく、初歩的なアイデアをそのまま直感的に実行し、生まれてきたものを否定しないということ。僕が彼の音楽に感じる一種のラフさと荒さ、パンクロック的な価値観が生まれてくる理由はこういうことで説明できる気がする。


さてここでも、インプットとアウトプットの差について考えずにはいられない。リチャード・ヤングスは「何を聴いてこなかったのだろうか?」ということについて考えさせられる音楽家である。『Ein Klein Nein』には、僕が聴いてきた大まかな音楽的なジャンル、その全てが鳴っているように聴こえるからだ。”音”という本来は言葉で言い表すことのできないものを扱う”音楽”である以上、その響きにはいくらかの説得力が必要だが、彼の音楽には妖しく輝くそれがある。彼がインプットしてきたものは確かに音楽に反映されている、しかもその面影はアウトプットされたものにも残っているように聴こえる…それは残響とも幽霊とも呼ばれるものだ。目に見えないものは必ずしも存在しない訳ではなく、音は嘘をつくには不器用過ぎる。


それにしても、クラインもリチャード・ヤングスも自分自身のことを、そして自分の鳴らしている音楽のことをありのまま理解できているのだろうか…?


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さて、クラインの壺に関して調べ続けていくと、今度は浅田彰の『構造と力』に突き当たった。前からレヴィ=ストロース経由のコース上に浅田彰は常に用意されていたし、”構造と力”なる言葉は菊地成孔の影響で名前だけは知っていたから、後回しにしていた物事にようやく対峙するタイミングが来た…ただそれだけのことでもある気がするし、むしろ遅過ぎるくらいかもしれない。『構造と力』を仮に先に読んでいたら、クラインの壺を発見するのももっと早かっただろう。


さてさてと読んでみれば、イメージにおける「ガチガチ」なイメージを保ちつつ、何故か風体は癖のある小説みたいでもある。ユニークな筆致にはどこか時代を感じるが景気の良さは感じられず、むしろその後到来することになるバブル経済の預言書、そして警鐘のようでもある。総じて少し意外性を感じたし、特に今のIT業界で散見される「カタカナ語」への執着は浅田彰とニューアカが産み出したのではないか…と感じたところもあった。多分、間違っていない。高度資本主義社会、或いは(僕はそう感じているが)後期-末期資本主義社会の特徴のひとつは「資本主義を駆動させる為のカタカナの氾濫」、つまり日本人には本来結びつきが希薄な言語を用いることで構造そのものへの着目を分散させるということ、集中力を削ぐということにあると思う。これは「知らなくても良いこともある」という認識を助長させる動きであり、同様に「知ることで世界を狭めていく」動きでもある。


詳しいことは実際に本を読んで見てもらうべきなのでここでは深追いしないが、”神・王・父など絶対的な権力者が所有していた「金」”が “資本主義そのものを駆動させる「貨幣」”へと変化したことが資本主義社会そのものの構造を示している、そしてそれは人間の持つ過剰が引き起こしている、という認識がこの本のベースにはある。


「動物は本能に導かれて相手の形態や行動パターンを適切に反応し、正しい性行動をとったり無闇な攻撃を避けたりする。ところが、欲動につき動かされる人間は、互いのうちにあらぬ幻(イマージュ)を見ては狂おしく求め合い傷つけ合ってやまない (p.187)」、この人間の持つ「過剰さ」を「想像界 (イマジネール)」と設置した上で、浅田は次のように考察する。


<<想像界>>は空間や時間と呼ぶに足るものを欠いている。そこには<<外>>がなく、<<外>>がないゆえに<<内>>もない。肌のぬくもりを帯びた密室で欲動が氾濫を繰り返すばかりである。時間もまた規則正しい流れを開始するには至っておらず、<<現在>>の不規則なつらなりがあるにすぎない。(p.189)


「私」と「私」の鏡像との乖離こそがその本質でなのであり(中略)例えば「ここ」にいる「私」は鏡(あるいは鏡としての他者)の中の「私」と容易に入れ替わることができるし、不満と充足のシークエンスも前後が逆転するかと思えば勝手に伸びたり縮んだりして、とらえどころのないこと著しい (p.190)


こうして浅田彰はクラインの壺へ接近していく。


<<クラインの壺>>は外部をもたない、というよりも、外部がそのまま内部になっているのであり、内外の境界(フロンティア)に定位して内部の秩序と外部の混沌との相互作用をクローズ・アップしようという構えを、最初から受けつけないのである。柄谷行人は次のように述べている。「文化記号論者が重視する『境界』は、私の考えでは、両義的な場所であるというより、そこで(図/地や内/外といった)反転が生じざるをえないような或る『空虚』なのである。それは『空虚』であるがゆえに実体的に明示することはできない。」これは二元論的図式に対する一般的な批判だが、近代についてはとりわけよくあてはまると言えるだろう。<<クラインの壺>>においては、ありとあらゆる点がそのような『空虚』になっているのである。(p.199)


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こうして浅田彰とは違う軌道で、しかし確かにクラインの壺に接近していった僕には、イベントのフライヤーのデザインを考えるにあたって絶対にお願いしたい人が浮かんでいた───ミヤオウさんである。彼とは7月のシンガポール祭りの時に初めて出会った。STYLO#3を観に来てくださったキワさんという、僕に今年できた非常にユニークな友人の絵描きさんが紹介を兼ねて連れて来てくださったのだ。その時は軽く挨拶だけをして別れ、帰宅してから彼のインスタグラムを眺めていたのだが、彼の作品が持つ独特な”湿り”、そして前述した『構造と力』に準えるのならば”空虚”に対して非常に強烈な印象を受けた。


技術的なことは全く分からないのだが───彼の作品は所謂3Dによるグラフィックデザインということになるのだろうか(違う可能性も高いのでその場合はご指摘ください)。 扱われる題材の多くは「部屋」であり、しかも多くの「部屋」には人の姿がない。一部の作品に人が描かれているものもあるのだが、部屋のそれに対して人は驚くほど「希薄」に描かれている。描き方の熱量で言えば、それは人ではなく幽霊や湯気の方に近い。彼の作品において人は文字通り「部外者」であり、主体は「部屋」になる。そして主体は色鮮やかに艶かしく描かれる対象となる


その「部屋」には共通している重要な点がある。その「部屋」は全て生活の感覚が欠損している空間としてあり、こざっぱりとした非常に美的な空間としてあるのだ。デザイナーズマンションのような、億ションのような、バブル期の色香のような、モデルルームのような───人が思い描く高貴な夢の象徴となりそうな「部屋」なのだが、少なくとも僕はそこに住みたいとは思えなかった。何故なら、この上なく不気味だからだ。


簡単に想像がつく。タイル張りの「部屋」に置かれた数脚の椅子、自分はそこに座っていないこと。窓の外に広がる海を眺めている自分もそこにはいないこと。かけられた梯子に手をかける自分もそこにはいないこと。光の明度の差だと突っ込まれそうだが───彼の「部屋」の多くは暗い───仮にあれらの部屋が煌々に明るかろうと、僕はそこにいないだろう。どれだけ人から羨ましいと評される「部屋」であろうと、そこに自分がいることを想像できない「部屋」は僕にとっての部屋ではない。物件探しをしたことがある人ならばこういった感覚を多少は理解してもらえると思う。どれだけ部屋の条件が素晴らしかろうと、そこに自分がいない「部屋」は自分の部屋にはならないのだ。かつ、ミヤオウさんの「部屋」に対しては自分ではない誰かがいることの想像も困難である…あなたには誰かが思い描けるだろうか? 僕にとってすれば、あれは「部屋」の為の「部屋」なのであって、人がいる為の「部屋」ではない。そして人が存在しない・存在できない「部屋」はそのまま不気味さに直結する。現実世界にぽっかりと空いた穴、”空虚”、まさにそれである


ミヤオウさんの「部屋」に対して音楽的な表現を用いるなら、極めてヴェイパーウェイヴ的だと言える。ヴェイパーウェイヴはかなり重要な音楽用語兼文化的嗜好的思考的価値観になったが、ご存じでない人にとっては木澤佐登志氏が現代ビジネスウェブ版に投稿しているコラムが非常に分かりやすいと思うので、以下引用する。


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2010年代に誕生したこの音楽ジャンルを特徴付けるのは「ノスタルジア」の感覚だ。


ヴェイパーウェイブは、その蒸気(vapor)の魔力によって80年代~90年代生まれのミレニアル世代を惹きつけ、ついには一部のオルタナ右翼をも魅了するに至る。もはや輝かしい将来を想像すらできず、未来を「喪失」としか捉えることができない人々に向けて、心地いいノスタルジアの癒しを提供している、とも考えられる(中略)


ヴェイパーウェイヴは2011年頃を境に音楽ダウンロード販売サイトBandcampやソーシャルメディア/掲示板サイトRedditなどを中心にオンライン上で活性化してきた。


その音楽的特徴としては、ラウンジミュージック(ホテルのラウンジでかかっているような心地いい音楽)、スムーズジャズ(聞き心地を重視したイージーリスニングなジャズ)、エレベーターミュージック(デパートで流れる業務用BGM)といった80年代~90年代のムード音楽をサンプリング&加工(スクリュー、ループ、ピッチ変更)させたスタイルが第一に挙げられる。一言でいえば、80~90年代の商業BGMを実験音楽の手法で再構築したのがヴェイパーウェイヴといえよう。


同時に、ヴェイパーウェイヴはサウンド面だけでなくビジュアルイメージも重要な役割を担っている。一昔前の3Dグラフィックス、初期のインターネットやビデオゲームのイメージ、ニューエイジ、アニメ、ギリシャ彫刻、直訳調の奇妙な日本語など、こうしたヴェイパーウェイヴで用いられる80年代~90年代のノスタルジックなイメージは「A E S T H E T I C (美的)」と名付けられている。


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浅田彰の『構造と力』は1983年の著作であり、時期的にはまさにヴェイパーウェイヴの美的価値観の年代のど真ん中である。浅田彰の論考はその時代性を警戒しているが、その時代を知らない世代からすれば「過去は美しい」のだ。ところが同様に、その世代は未来に対しても希望を抱いていない。失われた夢のノスタルジーは歪に描かれていき、取りようによっては純粋に美しいとは認識されない何かが産み落とされている。ヴェイパーウェイヴの持つ「歪んだ美」の強烈さはその用語が一般化していく過程で希薄になったように感じるが、それでもその感触と通底する価値観は生き続けている…どころか、日に日に増しているようにも思える。世界の何もかもが終わりに向かっているような日々の中、それでも未来に続きがあると思える心の方が見方によっては狂っているような気がする。


ミヤオウさんの「部屋」を初めて見た時の僕の率直な印象は、「失われた輝かしい未来」と少なからずリンクする「実存しない生活」というものだった。この印象は根深く僕の中に住み着いた。彼の「部屋」を眺めているととても不思議な気持ちになる…不気味なのだけれど忌諱するものではない。美しさを感じるけれど心的な距離がある。そしてこの感覚は、数ヶ月後にクラインの壺を眺めている僕に再び到来する。そう、クラインの壺と「部屋」は非常に似ているのだ───どちらも実存しているのに存在していないように思える。クラインの壺は実在するし(Amazonで売っている)、「部屋」も実在している(東京に限ってもモデルルームは果たしていくつあるだろう)。しかしそれらは現実の感覚からは乖離したところにしか存在できないようにも思える。もう一度復唱してしまおう───現実世界にぽっかりと空いた穴、”空虚”、まさにそれである


こういった思考の流れからすれば、ミヤオウさんこそクラインの壺を描くに最も相応しい方だと思った。シンガポール祭りの時には軽い挨拶しか出来なかったので、お願いをしたところで受けてもらえないかもしれないと思いつつDMしたところ、思いがけず好意的に受け取ってくださり、無事お願いできた。そうして彼からは多種多様のクラインの壺と「部屋」が描かれたデザイン画が次々と送られてきて、毎日ニヤニヤが止まらなかった。正直、今回は見送ったデザイン候補の全てが抜群に素晴らしかったので、採用できなかったことが悔しくもある。


この過程に関してひとつ、どうしても触れたいことがある。いくつかのデザイン候補の中から僕たちは今回のフライヤーのものを選んだのだが、その特徴は窓の外に見える家である。他のデザインとは少し異なり、ここには遠過ぎない距離のところに人がいる気配が示唆されている。元々のデザイン候補の多くはザ・ミヤオウさんの「部屋」にクラインの壺が配置されているもので、それはそれで非常に素晴らしかった。ただ、その後にふたりで話したことがミヤオウさんにとってかなり重要な点だったようで、そこからデザインの方向性が一気に変化した。そしてすごく不思議なことなのだけれど、窓の外に家が見えるようになってから、「部屋」にあるクラインの壺という決定的な違和感が少し「中和」されたように感じたのだ。「中和」という表現に近しいものはいくつかある───和らぐ、滲む、溶け込む、希薄化する…しかしクラインの壺には未だ著しく欠損した現実感が付き纏っている。クラインの壺と現実の距離感を狭めるものが、窓の外の家が示す複数の視点 / 複数の人々との関係性なのだとしたらそれは非常に興味深い。僕にはデザイナー要素が皆無なので下手なことは言えないが、この洞察力、そしてそれを描く為の微妙な機微こそデザイナーや絵描きさんの繊細さなのだと痛感した。間抜けなことを言うようだけれど、本当に皆さんすごい。


異様なほど今年はたくさんの出来事があり、それは極端に非常に良いものと非常に悪いものに分類された。個人的にボロボロだった時期も正直あったし、今もその感覚が続いてはいる。しかしミヤオウさんと一緒にクラインの壺を眺めることが出来た9月は非常に新鮮な日々の連続だった。今年でないと味わえなかったことだろうと思うし、とても素晴らしいタイミングで知り合えたとも痛感する。ミヤオウさんと共にクラインの壺を眺めることが出来たことが、僕は非常に誇らしい。


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チラチラとニュースを見ていた時に浅田彰の名前が載っていたのを少し思い出して、なんのニュースだったっけか…と探してみればたちまち行き当たった。”この国はどこへ これだけは言いたい 軍備増強は「静かな危機」 批評家・浅田彰さん 66歳”、毎日新聞の記事だった。


ロシアとウクライナの戦争は続いていて、そこにイスラエルとハマスの戦争もやってきた。特にイスラエルの蛮行が騒がれていて、SNSではかなり凄惨な映像も出回っている。死んでしまった子どもを抱き抱えながらスマホのカメラに向けて語りかける男性を見て、僕は何をどう感じて良いかが分からなくなってしまった。涙が目に溜まる気配を感じながら、それでいて、この感情は一体何様なのだろうかと冷静に考えようとしている自分もいる。僕は自分の日常とそれをどう繋げて良いか理解に苦しんでいる。そこには同じルールを感じるし、同じ重力を感じる。それでいてやはりどこかに…自分の世界軸とは異なる何かがあるように思える。喉につかえた異物のようなものだ。ここは一体どこだっただろうか…と考えている自分の手元に『こびとが打ち上げた小さなボール』があり、そこでチョ・セヒはこう記している───「このびんは、内側がすなわち外側で外側がそのまま内側なんです。中と外の区別がないから、内部を内部として仕切ることができない。ここでは、閉じ込めるということが意味をなさない。壁づたいに行けば外に出られます。つまり世界においては、閉じ込められていると思うこと自体が、錯覚だ」


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では、浅田彰の『構造と力』が何かを示してくれているとしたら───『構造と力』は一般の社会科学の哲学本とは到底思えないほどに「メロウ」な終わり方をしている。何せ詩の引用で本を締めくくるのだから、ちょっと過剰かもしれない───浅田彰その人が人間の欲求をそう指し示したように。しかしその「メロウ」な終わり方が「殺す」ということとリンクしているのだから、流石クラインの壺である。白石かずこさんの詩の一節は僕に新しい見地を与えてくれた、しかしそれにしても、この言葉は何を語りたがっているのだろうか。僕は美しさと共にこの上ない恐怖も感じているが、それはクラインの壺を通して世界を見るようになったからかもしれない。その壺は単なる壺ではない、実体はあれど想像の世界にしか存在しない。しかしその壺に映り込み構成されるものは、そのままこの世界の姿なのだ。この世界には表も裏もなく、外側も内側もない。


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わたしの内側で彼らが何をたくらみ 次には どこへ仕掛にいくのが知らないが ああ リバーサイドで わたしは彼らの 実に美しい奇襲をみた 次々とわたしの内側より活気をおび 外へと飛び出て 古代アステカまで走っていくかと思うほど彼らは 希望にみちているのだ 全く奇なる柔らかく暖かく熱くゾッとする音楽のような 生理的快感をくすぐるような 神聖且つ猥雑な願望を抱き 何者かへと むかっているのだ


わたしは わが砂族たちに餌を与えるために時折 充分睡眠をとり ポエジーをにぎり殺すのだ

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